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田楽

でんがく(日本舞踊)


[田楽]
田楽(でんがく)と聞いて豆腐や蒟蒻、味噌を連想する人がほとんどで、舞をイメージする人はまず居ないのではないかと思う。食物の田楽が実は舞の田楽から名付けられたものであることを知る人も少ないだろう。田楽の演目の一つに「高足(こうそく)」というものがあり、田楽専門職である田楽法師が高足(一本足の竹馬のようなもの)に乗り曲技を披露する姿が、豆腐を串に刺した田楽の姿に似ることから名が付いたとされる。
田楽は馴染みのある語ではあるが、日本舞踊の田楽に関しては、実際に触れたことのある人はかなり恵まれた環境ではないかと思われる。現存する典型的な田楽は社寺で奉納され継承されてきたものに留まり、演目も隆盛期のほんの一部が残っている程度である。国中で大流行した「風流田楽(ふりゅうでんがく)」の類は、数度ブームを起こしたが時代とともに衰退し、念仏踊りと融合したり、盆踊りなどに姿を変え、農耕儀礼であった田楽踊の類は、鎌倉時代(1192~1333年)には座を有する芸能として確立し、更に猿楽などと融合して能楽へと発展したため、その名は喜阿弥(亀阿)を最後に消えてしまった。全国各地に残されているものの、原型を正しく受け継ぎ、国の重要無形民俗文化財などに指定されるほど形式が整ったものは20数件しかない。一般庶民に浸透し、かなりの人気を博していたといわれるが、現代に多くの謎を残したまま衰退してしまった理由も含め、その変遷を追ってみたい。

田楽の起源は、古く平安時代(794~1185年)に遡るといわれ、豊作祈願の農耕儀礼であった「田遊び」「御田(おんだ)」などから派生したと一般的にいわれている。田遊びとは、一つは年始に一年の五穀豊穣と子孫繁栄を祈願し、田作りから刈入れまでの稲作課程を模擬的に演じる豊作予祝の神事芸能、もう一つは実際の農作業の過程で行われる儀式・祭礼の2種類あり、各地の寺社などに継承され現在でも数多く見ることができる。中でも田植えは、大人数で、短期間で、集中して一気に行わなければならない作業のため、士気を高め、効率を上げるため、作業者を鼓舞するためのノリの良い歌・囃子が必要だった。これが田楽の原型といわれ、農作業の一部であった歌や囃子は独立し、芸能として確立した。華美を競い、豪華な扇子や鮮やかな花笠に、金銀ギラギラの豪奢な衣裳で、笛・腰鼓(ようこ)・ビン簓(ささら)・銅拍子(どびょうし)などを囃子に群舞が舞われ、刀剣・玉・高足・一足などと呼ばれる曲芸的な芸が演じられ、儀礼と併せて派手な見せ物として広まり、日本中で大人気となった。
院政期(平安末期1086~1185年)には田楽の座(職業芸能者集団)が数多く結成され、町衆から貴族(公卿・殿上人)・儒者までが田楽踊に熱狂したほどの爆発的な大流行を見せ、「風流田楽(ふりゅうでんがく)」とも呼ばれた。これには政情不安など庶民の生活環境の悪化が背景にあるのだが、永長元年(1096年)の熱狂は「永長の大田楽」として、たくさんの田楽座が平安京の都大路を踊りながら練り歩き、その見物の桟敷が崩れる程の大騒ぎであったと「洛陽田楽記」に記録が残っている。
更に鎌倉時代に入ると、執権・北条高時が田楽に耽溺したことなどが「太平記」の記録に残り、また室町幕府4代将軍・足利義持は、田楽新座の増阿弥の芸を特に好んだというので、本座(近江)・新座(白河)など核となる座が形成され、田楽の能に変容し、伝統芸能の1ジャンルを確立して幕府の庇護を受けながら興隆していった様子が伺える。
増阿弥は田楽新座の名手・喜阿弥(亀阿)の弟子で、謡(音曲)に優れていたという。京周辺の寺社などで大規模な勧進田楽(寺・橋の修復のため資金調達手段としての公演)を度々催し、桟敷には将軍を始め、大名が数多く見物に出かけたようだ。当時、大和猿楽四座・結崎座の棟梁だった観阿弥(能楽の始祖)がその芸風を称え、観阿弥の子・世阿弥も彼をライバル視している。また彼が今日に残る能面「増(女)」を考案したといわれるなど、田楽の能と猿楽の能が融合しつつあり、境界が明確でなくなっている。観阿弥の子・世阿弥は有名な著書「風姿花伝」の中で、一忠・清次(観阿弥)・犬王(道阿弥)・亀阿(喜阿弥)を能楽の祖としているが、そのうち二人が田楽の名手であり、田楽の妙技も吸収されて能が成立したことが分かる。
一忠とは、田楽本座の人で、田楽能の名手とされる。1349年の京都四条河原の桟敷崩れの勧進田楽で、新座の花夜叉とともに演じたことでも知られる。観阿弥は「我風体の師」と呼び、近江猿楽の犬王も彼を師とした。幽玄・働き・音曲ともに優れていたため三体相応の達人と賞讃された。
結局、田楽においては、芸達者であっても観阿弥・世阿弥父子のように芸道を整備し、その精神を後世に残すような著述を行うなどの偉業を成す者が出なかった。また背景として、猿楽の能は、観世の頃には本来は祝祷芸であった翁猿楽からようやく脱却し、芸能として一般的に披露する場を得、室町幕府3代将軍・足利義満に観阿弥の能を見出されたことがきっかけとなり、武家全般に猿楽能が浸透し、各地の猿楽座が厚遇を受けるようになった。義満は観阿弥生存中より子の世阿弥を愛顧し、近江猿楽の犬王(道阿弥)も贔屓した。鎌倉時代末期には大流行していた田楽衆を猿楽衆が凌駕し、田楽は大和猿楽座の興隆と共に衰退し、表舞台から消えていった。

以上、田楽の変遷を追ってみたが、表舞台から消えたとはいえ、消滅した訳ではない。獅子舞や神楽と融合するなど形を変え、様々な形態で奉納田楽として各地の寺社に伝え継がれている。最も原型を留めているといわれるのが和歌山県那智勝浦町・熊野那智大社の例大祭「扇祭」で奉納される「那智田楽」で、境内不出とされ、第1回・国の重要無形民俗文化財に指定された。日本三大火まつりの一つでもあり「那智の火まつり」とも呼ばれ、毎年7月に行われている。編木(ささら)4人・腰鼓4人・シテテン(童子)2人の計10人の舞人が、龍笛1人の音に合わせ、緞子の直垂(太鼓は赤、編木は黄)、白二引の縹色のくくり袴、綾藺笠を着用し、22節からなる舞を舞う。足利幕府の頃の1403年、京都から田楽法師・宗正、法輪を招いて田楽を習得したと伝えられ、創成期の田楽舞の原型をそのまま伝える希少な文化財といわれる。

また茨城県常陸太田市に西金砂神社七二年周期大祭礼という、72年周期(!)で行われる奇妙な祭があり、851年の開始以来、2003年までに17回行われた。金砂神社は西社と東社が数キロ離れた標高480m程の山頂にあり、山頂を出御した神輿行列は途中旅所に宿し、3日後に30キロ程離れた日立市水木浜で神事をし、帰還する行程となっている。西社と東社は3日ずれて出発するので10日間の行事となっており、その間500人を超える時代行列が延々と続く。田楽大祭礼・磯出祭礼とも呼ばれ、磯の鮑が御神体とされている点も特異である。2003年の大祭礼では、田楽鼻の下の砂浜が行列往還の祭事会場となり、大きなテントが張られ、神輿の祭壇が設けられ、その前に三間四方に柱を立て、注連縄を張り巡らし田楽の奉納舞台が作られた。神官達が祭壇を取り囲む中、囃子の音と共に禰宜の祝詞が始まり、玉串奉奠、田楽として「四方固め」「獅子舞」「種まき」「一本高足」の4段の舞が奉納される。
「四方固め」は、型をきめながら連続する所は能に似ているが、猿田彦が舞う「四方固め」は雅楽を感じさせるような型で、真っ赤な鼻高面(天狗)を着ける。「獅子舞」は普通の獅子舞と同じ様に大きな獅子頭をかぶり躍るのだが、獅子の尻尾をもった大国主命とされる笑面の男が獅子をじゃらす点が異なる。「種まき」は古来の田楽踊りを残し、直面で烏帽子状の物を被り、杓を持った神官らしき者が種籾を蒔き、菅笠状のものを被った白狩衣の数人がスリササラを鳴らしつつ鼓に合わせて踊る。「一本高足」は鬼の面を着け、一本足の竹馬状のものに乗り飛び上がるもので、数回上がれば大豊作になるといわれる。
この大祭礼の他に小祭礼という祭があり、7年目毎(6年に1度)に行われ、現在まで196回を数えている。大祭礼はハレー彗星同様、一生に一度見られるかどうかという類のものなので、見物客も相当数(100万人余り)押し寄せる。大祭のメインである奉納田楽舞が、江戸時代まで口伝で伝え継がれてきたものだというから驚きである。文書として残されているのは江戸以降であり、851年の初回の姿そのままなのかどうか、誰にも分からない。

田楽とはこの祭の存在同様、いつ・どこから・どのように・誰・何を介して現在に至るのか不明な点が多い。だからこそ未知の面白さがあるのかも知れないし、時代による変遷・変容があってこそ田楽なのかもしれない。新たな史実が見つかり、謎が解明されてほしいような、今後も時代に合わせ変化したものが田楽として後世に伝承されてほしいような、筆者としては不思議な位置付けの伝統芸能である。この手の芸能は、不自然に保護されぬ方が良いものなのかもしれない。