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曲舞

くせまい(日本舞踊)


[曲舞]
能を鑑賞したことがあるだろうか。煌びやかな衣装の立方が、謡や囃子(鼓・笛など)に合わせて所定のゆったりとした所作で舞う古典歌舞劇だが、曲の多くに「クセ」という長い謡の部分があり、それが「曲舞」(くせまい)の名残であるという。能や舞など古典芸能が好きな人なら名を聞いただけでも解りそうなものだが、そうでない人にとっては、時代劇などで織田信長が「人間五十年~」と歌いながら舞う姿が一番解りやすいかと思う。
信長が「幸若舞」(こうわかまい・曲舞の一派)の「敦盛」(あつもり)という曲を特に好んだことは有名で、その舞姿は彼の生き方を映すが如く潔く凛々しく、武将としてのあり方を窺わせる。ちなみに「敦盛」といえば世阿弥の自信作である有名な能曲があり、それと混同されるようだが、能曲には「人間五十年~」の謡はない。
戦国時代、武士層で流行した曲舞の、背景などを取り入れながら、曲舞の歴史について触れてみたい。

曲舞(くせまい)とは、久世舞・口宣舞とも書き、また舞々・舞とのみ呼ばれた。現在の能の謡の部分に残るように、筋のある物語に韻律を付け、節と伴奏、簡単な舞を付けた歌舞のことであるが、その舞歌で生計を立てた芸能者をも指した。謡われる内容は、物事の由縁や有名な物語、特に英雄を語るものが多く、当初は、舞がなく叙事的でリズムの面白い謡曲だったとも言われている。特に織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など、戦国大名に愛好された背景もあり、軍記物が圧倒的に多いのだが、これらの戦国大名が好んだ頃の曲舞は、幸若舞と呼ばれており、厳密に言うと曲舞ではないのだが。まず曲舞の変遷について少し触れることにする。

曲舞は白拍子舞から派生したものと考えられており、白拍子が衰退を見せる室町時代、1350年頃に史実上曲舞が初見され、以後、室町後期に興隆期を迎え、江戸時代に入る頃には表舞台から姿を消している。曲舞成立当初は白拍子舞が色濃く残り、鼓に合わせて稚児や女性が舞うものだったようで、立烏帽子(たてえぼし)に水干(すいかん)・大口(おおくち)の姿の男装で演じられており、後、直垂(ひたたれ)・大口の姿で男性も舞うようになったようだが、見せる芸能としての要素はまだ未完成であった。声聞師(しょうもんじ・しょもじ)と呼ばれる、社会の最下層民である下賎と蔑まれた芸能者が担い手であったが、元来、彼らは寺社や特定の家に奴婢として隷属し、陰陽師に従属して陰陽道に従事しつつ暦などを作成した。この分野の研究はまだ発展途上のようで、あまり詳しいことは解っていないが、「唱門師」と表記される場合は、門付(かどづけ)をする者であったようだ。中でも興福寺大乗院に隷属していた大和国(奈良)北部の十座・南部の五カ所の声聞師の群落は、強大な力を有し、土木工事や物資運搬に携わりつつ、声聞師村を統轄し、身分的には底辺に在ったものの経済的基盤を確保していた。声聞師は民間の卜占・経読などを生業とし、時代とともに曲舞・能など芸域を拡げてゆくのだが、芸を見ながら酒食を摂る客の接待などを担当する遊女を抱えていたと思われる女屋の記録も各地に残されている。傀儡(くぐつ)と呼ばれた漂泊の芸能集団も同様に遊女と芸能を売り物としていたことで知られるが、曲舞も、遊女や被差別民により発展し、明治時代までは細々ながら生き延びていたようだ。
室町時代、諸国の声聞師が演じる勧進曲舞が京都で度々行われて人気を博し、徐々に注目を集めていった。特に児舞(稚児)・女舞が目につき、この頃の曲舞は艶やかなものであったと思われる。能楽大成者として有名な観阿弥(かんあみ)が、女曲舞の賀歌女一統の乙鶴から曲舞の音曲を習得し、猿楽の能に取り入れたことが知られているが、それが曲舞の歩みの大きな分岐点となった。曲舞を取り入れた新しい猿楽能の「曲舞」が洗練され、本家・声聞師の曲舞以上の人気を博してしまったため、曲舞存続の最初の危機が訪れる。
観阿弥の子・世阿弥が「五音」という著書で、かつて多くの曲舞師が存在したが、1429年頃(室町中期)は、ほぼ絶えて、わずか南都(奈良)の女曲舞師の流れを汲む「賀歌(加賀)」のみ残っていた、と記している。実際には表に出られなかっただけで流派は数多く残っていたとの文献もあるのだが。
加賀は先に述べた観阿弥が師と仰いだ女曲舞師の流派であるが、その師「百万」は曲舞の祖とも言われた有名な舞師である。百万は観阿弥の子・世阿弥が能曲作品として採り上げ、その名を残している。当時、有名な舞師は名のある貴族同様、能曲の題材になるような雅やかな存在だったことが窺われる。

さて話は曲舞に戻る。曲舞衰亡の危機にあった室町時代中期、数ある流派の中から越前国丹生郡西田中(現・福井県鯖江市)を根拠地にした声聞師・幸若太夫演じる「幸若舞(こうわかまい)」が人気を得、曲舞の主流となっていった。曲舞という名はここからほぼ消失してしまい、後は、武将に愛好されたことで現在知られている幸若舞が表舞台に上る。
1442年、二人舞の曲舞が披露され、その音曲・舞姿が素晴らしかったことで評判になり、次に披露された時には見聞衆が満員の有様で、その後、幸若大夫が礼参りに来てその名が知れ渡ったことが「管見記(かんけんき)」にあり、これが都での「幸若」の名の初見である。管見記は西園寺家伝来の記録・文書であり、代々著者がいる日記のような形式である。幸若舞を賞賛した上述の文書は西園寺公名によるもので、実は古くから定期的に公演を続けている流派であったことが記されている。曲舞は一人舞が基本だったが、幸若が二人舞(相舞)の形式を作り上げて人気を博し、最も大きな勢力を持つ一派に成長した。演目の記録は1500年代に入ってから初見されるが、幸若の登場したこの頃から武勇伝を主体とする長編の語り物に変容しており、それが都で受け容れられた所以のようだ。一般庶民・貴族・僧侶まで愛好されたが、殊に戦国末期の武士に強く支持されたのは、物語の豪快さと悲哀の相対、リズムが単調で繰返しが特に馴染みやすかったのだろう。
中世期は古典芸能が乱立し、開花・融合する時代であり、その栄枯盛衰は各々の芸能同士絡み合い、宮中・幕府など時の権力者の庇護の有無と密接であった。幸若舞は前述のように演目に多くの軍記物を含み、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康など武将の愛顧を受けるのだが、要望とともに内容を変容し、特に当時権力のあった戦国大名との結びつきを強めたものと考えられている。
織田信長の幸若好きは逸話も多く、殊に有名である。敦盛の一節
「人間五十年、化天(下天)の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり ひとたびこの世に生を受け 滅せぬもののあるべきか」
は自らも好んで舞い、桶狭間の合戦前も舞ったという。信長は安土御山惣見寺に家康を招き、幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)の舞と梅若大夫(猿楽)の能を見た。梅若の能が不出来で折檻され、次の幸若で信長の機嫌が直り、黄金10枚を賜わったという。この時の幸若先・猿楽後という格式・序列は江戸幕府にも踏襲された。江戸城内での年頭(正月)の将軍拝謁御礼席の着座は、観世太夫より幸若太夫の方が二間も上席にあったとの記載もある。諸大名が幸若家に所領を与えた記録も多く、1574年、信長が幸若太夫(6代)八郎九郎(義重)に対し、越前朝日村周辺に100石、幸若領としての知行領地の朱印状を下賜したのを初め、続く柴田勝家・丹羽長秀・豊臣秀吉らも倣って知行安堵状を与えている。徳川時代もそれに倣い、1600年に幸若太夫(8代)八郎九郎(義門)には、家康から知行230石が交付されている。幸若流が権力者との繋がりの中で諸流派の家元的存在となり、舞曲を管理する家として君臨したようだが、権力者との結びつきは逆に、江戸時代に入り、芸能の寿命を短くした原因となる。その話は後にして、幸若以外の流派について触れてみる。

近江(滋賀)・摂津(大阪)・三河(愛知)・若狭(富山)・加賀(石川)などで曲舞の記録が残っているが、「幸若舞曲」の諸舞本は、大別すると幸若系・大頭系に分かれる。この舞本は、幸若が大きな力を持っていたため幸若以外の曲舞も含まれている。まず幸若の次に大きい流派であった「大頭流(だいがしらりゅう)」を取り上げる。
初代幸若の子・弥次郎の弟子に山本四郎左衛門という人がおり、幸若舞の一流派である「大頭流(だいがしらりゅう)」を起こした。その孫弟子・大沢次助幸次が、1582年に九州・福岡に渡り、舞を教えたと伝えられている。当初転々としたが、大名の庇護を受けて大江に定着し、家元制度の下に農民に伝えられた。大江近くの甘木市秋月郷土館には元禄以前の写と思われる舞本が10冊(39曲)現存しており、曲舞を嗜むこと、読むことが当時大名家では教養とされていたことが窺える。大江地区には現在8曲が語り継がれているが、2008年には「敦盛」が復元され披露されることになっている。
この大頭流の3人立の幸若舞のみが現存し、福岡県みやま市瀬高町大江の重要無形民俗文化財の民俗芸能として唯一伝承・保存しており、毎年1月20日に大江天満神社で奉納されている。
曲舞は幸若と大頭の二大流派のほかに、京都の北畠・桜町の唱門師の流派などがあったが、いずれも大頭以外は消滅してしまい特筆できる資料も残されていない。明治維新後、禄を離れた各地の幸若舞はその舞を捨ててしまい、現存しないのである。
幸若舞の歴史は、それを支えた武家層の歴史と重なり、各々武将の栄枯盛衰を垣間見ることが出来る。しかし武将が現存しないのと同様、幸若舞が一流派しか残っていないのは皮肉なものである。