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仏像・日本刀・和紙

ぶつぞう・にほんとう・わし(工芸・芸道・美術)


[仏像・日本刀・和紙]
本項は、仏像、日本刀、和紙を各項目ごとに簡単にまとめてみた。

「仏像」

仏教では釈迦を“悟りを得た者、真理に目覚めた者”という意味の仏陀といい、釈迦をモデルとした仏像の“如来像”には「釈迦如来」「阿弥陀如来」のほか「薬師如来」「大日如来」などがある。また、仏像には如来像のほかにも、「観音菩薩」「勢至菩薩」「文殊菩薩」「弥勒菩薩」などの“菩薩像”、「不動明王」「愛染明王」「孔雀明王」などの“明王像”、「毘沙門天」「梵天」「帝釈天」「弁才天」などの“天部”の四つのタイプがある。以下、時代を追って仏像の特徴をまとめてみた。[飛鳥・奈良時代]我が国に仏像が伝わったのは六世紀、飛鳥時代のことという。“飛鳥仏”は唇の両端が少し上がった「アルカイック・スマイル」と呼ばれ、アーモンド形の目、衣のヒダが左右対称であることが特徴で、仏像は全般にスリムである。また、“白馬仏”は童子顔で明るい雰囲気をもっているが、この時代の代表的な仏師は奈良・法隆寺の釈迦三尊像を彫った止利仏師(とりぶっし)である。[天平時代]仏教への深い帰依で知られる聖武天皇によって東大寺の大仏象が造られ、全国各地に多くの寺院が建立されて仏像もまた数多く彫られた。特徴は表情や体付きが自然でゆったりしていることだが、その後、鑑真が来日すると、同行した仏師によって当時の中国における最先端のスタイルが持ち込まれ、豊満な体型の仏像が作られるようになった。[平安時代]平安期に入ると、豊満型に加えて異様に手が長い仏像や頭部が大きくふくらんだ仏像が作られるようになった。806年に空海が帰朝して真言密教を開くと、曼荼羅や不動明王に代表される明王像といった密教美術が開花した。また、この時代の仏像は木彫仏が主流であったが、仏師・定朝(じょうちょう)が登場して画期的な“寄木造”と呼ばれる技法が完成させた。この様式を「定朝様式」は呼ばれ、完成した仏像スタイルとして今日に受け継がれてきた。[鎌倉時代]運慶・快慶という、師弟関係にあつた二人の天才仏師が活躍した時代。二人が共同制作した東大寺の金剛力士像(仁王像)はこの時代を代表する傑作で、写実的で力強い仏像が数多く作られた。また、目に水晶をはめ込む玉眼という技法が取り入れられてリアルな表現がいっそう可能となったのもこの時期である。[室町時代~江戸時代]仏像は鎌倉時代がピークといわれ、それ以降に作られた仏像はそれまでの様式を踏襲したものであったという。江戸時代に入ると全国を修行行脚した円空が、荒々しいナタやノミの跡を残した斬新な仏像を各地に残したが、このほか、微笑を浮かべた作風で知られる木喰五行明満や、仏像の美を追求した木喰養阿などが活躍した。[仏像作りの技法]①鋳造:土や蝋を使って型を作り、その型に銅などの溶かした金属を流し込んで作る方法。東大寺の大仏もこの技法の応用で造られたという。②乾湿造:土で作った原型に、桧の挽き粉などを混ぜたコクソ漆を塗った麻布を重ね貼りしていき、乾いたところで中の土を取り除く方法。つまり「張り子」を作る要領。最後に表面に漆などを塗りつけて仕上げをした後に目鼻を彫刻する技法。③塑造:木組みの芯に土を貼り付ける方法。造形は自由であつたがひび割れを防ぐ必要があり、3種類の土を重ね塗りした。欠点は重量があることと壊れやすいこと。④木彫:平安期初期に、頭から体までを一本の木で作る一木造が多く作られたが、大きな仏像を作れないという難点があった。これを解決したのが仏師・定朝が完成した寄木造である。像を部位ごとに作って組み上げるために大型の像も容易に制作することが可能となった。

「日本刀」

日本刀は「銃刀法」によって所有を制限される「武器」ではあるが、神器としての位置付けや家の守護を願う家宝でもあり、また、美しさも求められる工芸品としての側面もある。かつての武士社会では精神的な拠り所の象徴でもあった。世界の刀剣のなかには金や宝石でまばゆいばかりに飾られたものもあるが、日本刀の美しさは簡潔で強靭なイメージと鉄そのものの美にあるという。熱く焼いた鉄を幾度も折り畳みを繰り返して鍛え上げ、折れず、曲がらず、しかも美しい日本刀が作られてきたのである。[日本刀の工程]①玉鋼(たまはがね);砂鉄を“たたら式製鋼法”で低温還元(1300℃~1500℃)して作った鋼のうち、含有炭素量が0.3~1.5%程度のもの。刀剣の主たる材料となる。②水圧し(みずへし):玉鋼を3mm程度の厚さに薄く圧し、適当なサイズに小割りにした材料。③積み沸かし(つみわかし):小割りにした玉鋼を選別し、積み重ねて1300℃程度で加熱して塊とする。④鍛錬(たんれん):熱した鋼を鉄槌で打ち据えることを繰り返して鍛える。⑤切り鏨(きりたがね):打ち延ばし広げた地鉄の真ん中にたがねを入れて二つ折りにして重ね、1300℃ほどに加熱して鍛接する。この工程を繰り返すことで幾層にもなった強い地鉄となる。⑥火造(ひづくり):練り上げた地鉄を組み合わせ、鍛接して打ち延ばして刀の形にする。⑦土置き(つちおき):成形した刀身に強度と切れ味を出すために焼入れをするが、その際、刃の部分に土を塗ることによって日本刀独特の美しい文様が現れる。⑧焼入れ(やきいれ):土置した刀身を730℃ほどで加熱し、冷水で急冷する。経験と勘頼りだが、作刀工程の山場の一つ。⑨鍛冶押(かじおし):焼入れの済んだ刀身の形を整え、線と肉置を決める。⑩樋かき(ひかき):形の整った刀身に彫刻すること。⑪銘切り(めいきり):研ぎ師の手で研ぎ上げられたものに刀師が自分の名を刻んで完成させる。[日本刀と慣用句]今日、私たちが日常で用いる言葉のなかに日本刀に関連したものが幾つもあるが、これらは[日本刀と慣用句]日本刀の存在の大きさと歴史の確かさの証明にほかならないのではないかと思われる。たとえば次のような言葉である。①しのぎをけずる(鎬を削る):「しのぎ」は刀の稜線のこと。互いに相手の打ち込みを受けたり刀を摺り合わせて戦う様子からきた言葉。②つばぜり合い(鍔迫り合い):刀身と柄の境目にあって持ち手をガードしているものが「つば」。戦いのとき、互いに打ち込んだ刀をつばで受け止めて押し合う緊迫した様子。③せっばつまる(切羽詰まる);「せっぱ」は刀身を固定するために鍔の上下にはめ込んだ金具。しっかり止めて動かないことから進退がままならないとか身動きできないという意味で用いる。④めぬきどおり(目抜き通り):「めぬき」は柄に差し込んだ刀身が抜けないように、柄と刀身に空けた穴に打ち込む釘又は金具のこと。刀身のシンプルさに比べて柄は刀の飾りの華やかな部分であり、めぬきはその中心部であることから今日の「繁華街」の意味となった。⑤おりがみつき(折り紙付き):名刀の鑑定書は奉書紙を横に二つ折りしたものに書かれていたことから、優秀なものという評価を折り紙付きといい、逆にあまり良い出来ではない刀には小さな札をつけたことから、良からぬものを「札付き」という。⑥そりがあわない(反りが合わない):刀の反りはそれぞれの違いがあり、ほかの刀の鞘にきっちり収めることは難しい。このことから、気持ちや性格が合わないケースを指していうようになった。また、同じような意味で「元の鞘に納まる」という言葉もある。

「和紙」

1986年、中国甘粛省の古い墓から山、川、道などと文字が書かれた、草の繊維で作られたものと推定される紙片が発見された。これが現在世界で最も古い紙と考えられることから、紙は中国で発明されたとされる。我が国には、朝鮮を経て600年ごろに伝わり、製法に改良を重ねて優れた品質の“和紙”へとつながった。[和紙の歴史]飛鳥時代には「唐紙」と呼ばれる中国や朝鮮で漉かれた紙が輸入されていたが、本格的な紙の国内生産は製紙技術がもたらされて100年を経たころから始まったといわれる。天平年間には、筑紫、近江、越前、美濃、常陸などの地方でも紙が漉かれ、現存する我が国最古の印刷物といわれる『百万塔陀羅尼』もこの時代の作といわれる。平安時代に入ると官営の紙漉き場はいっそう拡充されて「紙屋院」という官営の製紙場が造られた。このころになると、手漉きの際に揺すりながら紙層を形成する現在の“流し漉”と呼ばれる方法も確立され、室町時代までには“備中の檀紙”“楮(こうぞ)を用いた厚手の美濃紙”“越前の奉書”“雁皮を原料とし鳥の卵色をした鳥の子”“播磨の杉原紙”“雁皮に初めて三椏(みつまた)を混ぜて作られたという修繕寺紙”“大判の間似合紙”“泥入り鳥の子の名塩紙”など和紙の産地は更に各地方へと広がった。ちなみに、“流し漉”の技法は静置して脱水する“溜め漉き”と異なり粘性物質を併用するもので、日本画で絵の具のにじみをコントロールする「ドウサ引き」の技法もこの時期に発達したものだという。江戸時代に入ると、和紙は文化面だけでなく生活の必需品ともなり、襖、障子、傘、提灯、扇子、団扇、帳簿、浮世絵、などに多用されるようになった。しかし、明治時代に入って洋紙の製造技術が発達し、官公庁で洋紙とペンの使用が始まると共に衰退が進むようになり、大正時代には洋紙に完全に取って代わられた。[和紙の材料と製法](1)材料:和紙は“わがみ”とも呼ばれるが、非木材繊維を原料とし、桑の仲間の楮、ジンチョウゲの仲間で枝がすべて三叉になっている三椏、それに、同じくジンチョウゲの仲間の雁皮の三種がその代表的な素材である。これらの枝や幹の表皮の内側の繊維を取り出して原料とする。(2)和紙の製法:現在では機械で漉かれる和紙が多いが、手作業で漉く方法をまとめてみた。①刈り取った楮や三椏の場合、水を張った釜鍋の上に束ねて積んで蒸し、蒸し終わったものにすぐに水をかけて幹を縮ませ、熱いうちに手早く皮を剥ぐ。②次に原料を一つまみずつ取って丹念に表皮やゴミを取り除く。きれいになった原料を木製の台の上に乗せて木の棒で叩いて伸ばす。折り曲げては叩き、折り曲げては叩きを繰り返す。③綿のようになった繊維を大きな容器に入れ、黄蜀葵(とろろあおい)の根や糊空木(のりうつぎ)の皮などで作った粘性物質と水を加え、馬鋤(まんが)で均一になるまでよく混ぜ合わせる。④簣を挟んだ“漉き桁”で手前から薄く汲み上げながら紙を漉き、回数を重ねて厚い紙に仕上げる。⑤出来上がった湿紙は紙床の上に耳をそろえて重ね、自然に水を切り終わった後に圧搾して残りの水分を絞る。⑥慎重に1枚ずつ剥がして板に刷毛で貼り付け、太陽にあてて乾燥させる。[終わりに]1200年にも及ぶ長い歴史のなかで育まれてきた和紙は、衣食住や冠婚葬祭など我々日本人の生活のさまざまな場面に取り入れられ、重用されてきた。洋紙が一般化した今日ではあるが、依然として日常生活の節目節目ではかけがえのない存在として認められ愛用されている。また、書や絵画など文化の分野はもちろん、現代アートの分野でも新たな魅力が発見され、その魅力は世界的にも注目されている。