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茶道・華道・書道・香道

さどう・かどう・しょどう・こうどう(工芸・芸道・美術)


[茶道・華道・書道・香道]
本項は、茶道、華道、書道、香道を各項目ごとに簡単にまとめてみた。

「茶道」

茶は稲作や仏教などと共に大陸文化の一つとして日本に伝えられたもので、禅の修行に用いられたことから最澄や空海、永忠、そして栄西禅師などがその伝来と普及に関わったと考えられている。なかでも栄西は持ち帰った茶の種を京都・栂尾(とがのお)の明恵上人に贈ったことから同地では上質な茶を得るようになったという。以下、“茶道の歴史”に関するものを挙げてみた。[闘茶]鎌倉初期に京都の栂尾(とがのお)で始まった茶の栽培が各地に普及すると、それぞれの産地によって異なる茶の比較が生じ、栂尾産を「本茶」、その他の産地のお茶を「非茶」として飲み比べをする遊びが上流階級の間に流行した。これを闘茶といった。「本茶」と十種類の「非茶」を飲み比べをする茶飲みゲームだが、会場を豪華に飾り付け、香木や砂金、鎧、太刀など高価な懸賞物と酒宴まである華美でぜいたくな遊びであったという。[茶の湯の誕生]こうした茶会の風潮に疑問を感じた僧・村田珠光が、栄西が広めた茶の薬効と味わいを楽しむ禅宗の質素で簡潔な喫茶法を主張し、禅と茶の精神を統一させた“侘び茶”を説いた。また、茶人としても高い見識を認められた珠光は、心の在り方や道具に対する態度を明確に示した。少人数の客を茶席に招き、心を込めてもてなすことを何よりとする侘び茶は当時の喫茶の世界に大きな影響を与え、後の“茶の湯”の発展につなげた。[武野紹鴎]わび茶は珠光に次いで世に出た武野紹鴎が完成させた。応仁の乱で京都が荒廃すると戦乱を避けた人々は自由都市堺の地へと集まるようになり、上洛して村田珠光の流れを継ぐ茶人について茶の湯を学んでいた紹鴎も31歳のときに堺に戻り、剃髪して紹鴎と号して茶の湯に専念した。大徳寺派南宗寺集雲庵主、南坊宗啓の書『南方録』によれば、「四畳半座敷所々あらため、張付を土壁にし、木格子を竹格子にし、障子の腰板をのけ、床のぬりぶちを、うすぬり、または白木にし、これを草の座敷と申されしなり。鴎はこの座に台子は飾られず。弓台をかざられたる時は、かけ物、置物、珠光同然。袋棚の時は、床に墨蹟、花入の外は置かれず。」とあるように、紹鴎は藁屋根の四畳半に囲炉裏を切って茶堂とし、日常品を配置する侘び茶の形を定着させた。このように、茶の湯は場所や道具よりも精神性が重視されるようになり、単なる遊興や儀式・作法でしかなかった茶の湯が、わびという精神をもった「道」に昇華していった。[千利休]信長、秀吉という2人の天下人に仕え、茶道千家流の始祖として“茶聖”と称される千利休は、天文7年(1538)、17歳で東山流の書院茶をくむ北向道陳に書院・台子の茶を学び、道陳の紹介で武野紹鴎の弟子となった。今井宗久、津田宗及とともに信長によって茶頭(さどう、茶の湯の師匠)に重用され、信長の没後は豊臣秀吉によって重用されて秀吉に感化された茶の湯好きの武将は競って利休に弟子入りした。しかし、後年秀吉の怒りをかって切腹して生涯を閉じた。「利休」の号は、63歳のとき、秀吉が関白就任の返礼で天皇に自ら茶をたてた禁裏茶会を取り仕切った際に天皇からを賜ったもので、彼の名は天下一の茶人として全国に知れ渡った。[天下人の茶の湯]16世紀後半から17世紀前半にかけて、茶の湯はすこぶる華やかな時代を迎え、その前半は、千利休によってわび茶が大成された。永禄11年(1568)に上洛した織田信長は、名物狩りを行って茶の湯の名物道具を蒐集したり、「御茶湯御政道」と称して、特定の家臣に茶の湯を許可したりした。こうして茶の湯は信長によって正式の武家儀礼としての資格を担い、茶の湯に政治的権威が与えられるようになった。茶の湯の政治化は、豊臣秀吉政権のもとで最高潮を迎え、天正13年(1585)の禁裏茶会、同15年の北野大茶の湯は、秀吉の政治の舞台を茶の湯が華々しく飾った象徴的な出来事であった。こうした秀吉の大茶会を演出したのが茶堂の利休であった。徳川幕府の時代になると茶の湯の政治性は希薄になり、利休なきあと、古田織部、小堀遠州、片桐石州が徳川将軍家の茶の湯指南として活躍したが、遠州の死によって天下人の茶の湯の時代は終わりを告げた。茶の湯は明治時代に入ると衰退の一途を辿ったが、昭和15年(1940)ごろから数奇者に代わる家元を中心とする流儀の茶の湯が大きな発展を見せ始め、近代の女子教育のなかで茶の湯がとり入れられたこともあって隆盛となった。

「華道」

生け花は仏に対する信仰心から自然に咲く草花を室内へと持ち込んだものといわれるが、生け花を単なる技芸としてではなく、人間としての修養の面を重視した呼び名が華道である。世阿弥(室町前期の能役者・能作者)の言葉に「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」というように、花を植物としての美しさだけでとらえるのではなく、「美」として昇華させた“美意識”がなければ「華道」は成立しない。古代のわが国では、自然を崇拝する原始宗教(アニミズム)によって大きな岩や樹木などに「神」が宿る(依代ーよりしろ)という信仰が芽生え、なかでも松はその樹形や一年中枯れない(常緑)ことから神の依代として特別に扱われてきたが、こうした信仰によって神木が戸外から庭へ、そして室内へと移され、仏に捧げる花が生活を彩る生け花へと変遷してきたのである。[生け花の歴史]現在の生け花の原型は奈良時代の供花(くげ)に始まるといわれる。神仏へ供えていた花が平安時代に入ると観賞の対象ともなり、室町時代では、建築形式の変化もあって仏は大きな伽藍から書院造の床の間の掛け軸へと移されるとともに、供花も信仰とは無縁の観賞を目的とした“たてはな”と呼ばれる形式が成立した。“たてはな”は桃山時代には構成理論を確立し、“真(しん)”“副(そえ)”“請(うけ)”“真隠(しんかくし)”“正真(しようしん)”“見越(みこし)”“流枝(ながし)”“前置(まえおき)”の七つ枝によって自然界の景色を表現するものとなった。しかし江戸時代中期の元禄年間には衰退し、代わって新しい様式の“生花(せいか)”が誕生した。更に、江戸時代後期になると一般の人々にも普及し、同時に、それまで男性が独占していた生け花が女性の芸事の一つとして定着することになった。明治時代に入ると自由思想が広く浸透し始めるとともに、その気風を取り入れた“盛花(もりばな)”が一気に普及し、第二次大戦後は時代を反映した前衛的な生け花が脚光を浴び、海外にまで認識されるようになった。[茶花・盛花・投入れ]①茶花:茶室の構成要素として誕生したもの。山野草の素朴な一輪挿しなど、茶道の“侘び”の精神に沿ったものが特徴で、派手さを競う華道とは対照的である。たて花が立花として大型化したのと対照的に、茶花は投げ入れ花が小型化したものでもあった。②盛花:明治時代、後に小原流を創立した小原雲心が池坊の要職にあったときに考案したもので、水盤という新たな花器を使って注目を集めて盛花と名づけられた。当初、はっきりした花型を持たなかったが、いけばな人口の増加に伴って花型が規定されるようになって今日に至った。③投げ入れ花: 江戸時代になると、単純に瓶にさす投げ入れが華麗な立花に対して普段着のいけばなとして再評価されるようになり、その後、大正、昭和にかけて盛花と共に、“傾斜型”“直立型”“下垂型”などやさしい花型が規定された。④自由花:大正から昭和初期に登場したもので、創造力や自由な感覚に満ちた造形的な表現を盛り込んだいけばな。[華道の流派]生け花が広がるとともに技巧の達人や名手が数多く登場し、それが多くの流派に分かれていくきっかけとなり、今日では、池坊から枝分かれした流派の数は日本いけばな芸術協会に登録されているだけで400流派近いという。主な流派としては池坊(いけのぼう)、古流(こりゅう)、遠州流(えんしゅうりゅう)、未生流(みしょうりゅう)、小原流(おはらりゅう)、草月流(そうげつりゅう)などがある。

「書道」

書道は毛筆と墨によって漢字や仮名文字を書くことだが、単に文字を書くということではなく、精神を集中させ、心の内面を書体によって表現しようとする日本の伝統的な芸術の一分野である。古代の日本にはさまざまな文化が中国からもたらされたが、“書”もその一つであり、飛鳥から奈良時代にかけて遣隋使や遣唐使によって伝えられた。[黎明期の書]当時の中国では端正な楷書体で書かれた「王義卿(おうぎし)」の書法が盛んなころで、我が国もまず最初にその書法を学んだ。次いで留学生として唐で学んだ空海が持ち帰ったのが「顔真卿(がんしんけい)」の新しい書法である。顔真卿の書風は感情を表に出した大胆なものであり、空海は『風信帳』などにその書法を取り入れた。[和様書]遣唐使の派遣が中止されたころから我が国独自の文化が発展し、延喜5年(905)の『古今和歌集』に代表される“和様の書”や“仮名文字”が発展・定着した。取り入れた中国風の文化から我が国独自文化への転換である。その後、和様書は我が国の書の本流として多くの流派を形成しながら継承されていったが、鎌倉期から室町期に禅僧の交流によって中国の宋・元時代の書法が流入し、精神的な奥行きを加味した“墨跡”という日中混合の書法が生まれた。“墨跡”は桃山・江戸期を通じて僧侶や漢学者らに受け継がれて唐様という流れを作り、和様と唐様は互いに影響し合うことない我が国の書の二大潮流となった。和様は筆をやや寝かせて構え、穂で紙面を払うように運筆することから字形が丸みをもって柔らかであり、一方の唐様は筆を立て気味に構え、穂を紙に突き刺すような運筆が多く、両者は対照的である。今日の書道界が「漢字」と「仮名」に分かれて存在するのも“和様”“唐様”の思考が底辺にあったからではないか、といわれる。[漢字の五体]“楷書”“行書”“草書”“篆書”“隷書”の五種の書体を漢字の五体という。①篆書:紀元前13世紀ごろの甲骨文字から、秦の始皇帝が制定した小篆と呼ばれる書体までのすべての文字をいうが、文字は縦に長く曲線的で、左右対称の字が多い。現在では印鑑に用いられる文字として知られる。②隷書:紀元前3世紀ごろに生み出され、漢代には公用書体となり、2世紀中ごろの後漢時代に完成された。木材を組むような感じで文字が構成され、字形はやや扁平。横画の収筆をはね上げるのが特徴で、身近なところでは紙幣に用いられている。③草書:紀元前2世紀ごろに篆書や隷書の速書体として生まれたといい、点画が省略されたり続け書きされたりする書体。行書に近いものから判読が困難なほど崩されたものまで多様である。④行書:隷書の速書体として草書と前後して発生したと考えられる。点画が連続的に書かれ、日常最も広く使われる書体。速く書けて読みやすい実用書体である。⑤“楷書”:中国・三国時代に生まれ唐の初期に完成されたとされるが、点画を省略することなく一画一画を区切って書かれた謹厳な書体で、今日の活字のモデルでもある。[三筆・三蹟]平安初期の三人の能筆家、『風信帖(ふうしんじょう)』の空海、『光定戒牒(こうじょうかいちょう)』の嵯峨天皇、『伊都内親王願文(いとないしんのうがんもん)』の橘逸勢のことを“三筆”といい、同じく平安中期の三人の達筆家、『智証大師諡号勅書(ちしょうだいししごうちょくしょ)』を書いた小野道風、『離洛帖(りらくじょう)』の藤原佐理、『白氏詩巻(はくししかん)』の藤原行成を“三蹟”と称する。

「香道」

辞書には“香木を焚いてその香りを鑑賞する芸道。組香・炷継香(たきつぎこう)・一炷(いっちゅう)・香合わせなどの種類がある。”とあるが、仏のための供香から始まった香は、その後、室内や衣装にその香りを移してもてなしや身だしなみのグッズとなり、詩歌や物語、あるいは季節の風情と結び付いて我が国独特の文化へと発展していった。以下、香の歴史を追ってみた。[奈良時代以前]聖徳太子が活躍した推古3年(595)、日本書紀に、淡路島に香木が漂着したという記述があり、これが“香”に関する最古の記事とされるが、それより更に50年ほど前、百済を経て仏教が我が国に伝えられた際に仏像や経典と共に唐文化の一つとして香が伝えられたという説がある。香料を直接火で焚いて仏前を清め、邪気を払い、厳かな雰囲気を醸し出す「供香」として用いられ、宗教儀礼としての意味合いが強かった。正倉院の遺物をみればそうした仏教と香との関わりの深さを知ることができる。[平安時代]香料が多種輸入されるようになると香料を選んで練り合わせてその香気を聞く「薫物(たきもの)」が主流になる。すでに 奈良時代の末期には、仏のための供香が貴族たちの住居に持ち込まれ、家庭でも香を焚く習慣が生まれていたというが、衣服に香をたき込めてその香りを楽しむ「移香(うつりが)」や「追風(おいかぜ)」「誰が袖(たがそで)」、部屋に香りをくゆらす「空薫(そらだき)」などが日常の生活のなかにみられるようになった。[鎌倉・室町時代]武士が台頭すると、それまで貴族が好んだ「薫物」に代わって香木の自然な香りが好まれるようになる。出陣に当たって、沈香の香りを聞いて心を鎮め精神を統一させたり、甲冑に香をたき込めて戦場に臨んだともいう。また、足利義政のもとで志野宗信や三條西実隆ら文化人の手によって「六国五味(りっこくごみ)」といわれる香木の判定法や組香が体系化されたのもこの時代である。六国とは沈香の分類の基準で、香木を産地別に分類した、伽羅(きゃら)、羅国(らこく)、真那賀(まなか)、真南蛮(まなばん)、寸門多羅(すまとら)、佐曾羅(さそら) のこと。五味は味によって香りの相違を知るもので、辛(からい)・甘(あまい)・酸(すっぱい)・苦(にがい)・鹹(しおからい)。[江戸時代]“組香”の創作やそれを味わうための香道具の製作などが大いに発展し、庶民の間にも香道が浸透していっ。数百種にも及ぶといわれる今日の組香の多くはこの時期に創られたという。また、線香の製造工程が伝わったのもこの時期で、その手軽さから国内に一気に広がった。[香の流派]活動を停止したものを含め、今日では、三条西実隆を流祖とする「御家流」(おいえりゅう)、志野宗信を祖とする「志野流」(しのりゅう)が主流となっているが、志野流の分流で米川常伯を祖とする「米川流」(よねかわりゅう)や、風早実種を祖とする風早流、古心流、泉山御流、翠風流などがある。[香席におけるマナー]①香炉の扱い方:香炉を左手の上に水平に乗せ、右手で軽く覆って親指と人差し指の間から香りを聞くようにする。②香の聞き方:香炉を水平に保った状態で背筋を伸ばし、深く息を吸い込むようにして三度香りを聞く。これを三息〔さんそく〕といい、吸った息は脇へ軽く逃がす。一人があまり長く聞き続けていると良い香り末席まで保てないので、一人三息は必ず守らなければならない。③香席に入るときは香水・オーデコロンなど匂いのあるものはもちろん、指輪や時計なども外す。服装は、男性はネクタイ着用、女性はスカート着用が好ましいとされている。