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器楽「管弦・筝・尺八・三味線」

きがく「かんげん・こと・しゃくはち・しゃみせん」(雅楽・邦楽・浄瑠璃節・唄)


[器楽「管弦・筝・尺八・三味線」]
本項のお題は少々解し難いのだが、一般に「器楽(きがく)」とは声楽の対語であり、西洋音楽分野での楽器演奏による音楽を指す。よって本来は管弦・筝・尺八・三味線のみならず全ての楽器を含める語であるが、本項では邦楽器の中でも特に伝統楽器として名の上がる「管弦・筝・尺八・三味線」を主体に触れてゆこうと思う。

まず日本の音楽全般である純邦楽の起源を振り返ると、日本が独立国家らしい姿となる大和政権あたりから、中国・朝鮮半島等から外来音楽が輸入された影響が大きい。最初に朝鮮の音楽「新羅楽(しらぎがく)」「高麗楽(こまがく)」「百済楽(くだらがく)」が渡来し、次に中国の音楽「唐楽(とうがく)」が渡来し、更に7世紀、推古天皇の頃には今日の能楽・歌舞伎等の土台となった「伎楽(ぎがく)」が伝来した。8世紀半ばにはヴェトナム南部地方の音楽「林邑楽(りんゆうがく)」と仏教の「声明(しょうみょう)」が伝えられた。最後に平安時代初期、中国・満州から「渤海楽(ぼっかいがく)」が伝来した。渤海楽は現在高麗楽に含まれている。「日本物語-雅楽」を参照していただけると詳細が分かるかと思うが、鎌倉時代に消滅した伎楽以外、主に宮中・貴族・有力社寺等で「雅楽(ががく)」となって伝承され、今も宮内庁式部職楽部に継承されている。日本の伝統音楽としての「雅楽」の存在は大変重要で、現存の楽曲が限られているものの1200年以上も前から演奏されてきた古い形態を留めて保存され、当時の姿のまま歴史的・音楽的価値を現在に伝えているという。以下、管弦から順に、その楽器と楽曲について触れてゆこうと思う。

今日「管弦楽」と言えばオーケストラを指すが、日本の伝統音楽「雅楽」における「管弦(かんげん)」は、大陸(中国・唐)系の雅楽器である管楽器・絃楽器・打楽器による器楽合奏、いわゆる「三管両弦三鼓」の楽器編成での演奏を指す。「三管」は笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)の3種の管楽器を各2人、「両弦」は琵琶(びわ)・筝(そう)の2種の弦楽器を各1人、「三鼓」は鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)の3種の打楽器を各1人が担当し、これら8種類の楽器を計16人で演奏するのが基本のようだ。管弦以外の雅楽曲では、高麗笛(こまぶえ)・神楽笛(かぐらぶえ)・大太鼓(だだいこ)、大鉦鼓(だいしょうこ)・三ノ鼓(さんのつづみ)・笏拍子(しゃくびょうし)・和琴(わごん)等の雅楽器も用いられている。分類方法は色々あるようだが、起源系統によって雅楽を大別すると「国風歌舞(くにぶりうたまい)」「大陸系の楽舞(がくぶ)」「歌物(うたいもの)」の3つに分けられ、演奏形態により楽舞は「管弦(かんげん)」「舞楽(ぶがく)」とに分けられる。今日は主に「管弦」が演奏されているため、使用される楽器も管弦のものが主体であるが、歌物である「催馬楽(さいばら)」「朗詠(ろうえい)」が管弦演目の中に含まれて演奏されることもあるという。
管弦の音楽的構成を見ると、人数的にも一番多い管楽器が主役となって主旋律を担当し、打楽器・弦楽器がリズムを取ることで、力強い舞楽曲に対して管弦曲はゆったりと奏される。すなわち篳篥が主旋律を奏で、龍笛が主旋律を少し装飾的に奏でて彩り、笙が和音を付して幅を出し、打楽器・弦楽器が主にリズムを担当して、全体のバランスを整える。
演奏の構成で言うと、演奏会等の形式は第一に「音取(ねとり)」と呼ばれている、1分程度の短いチューニングを目的とした曲で始まる。各楽器の主奏者(各1人)と鞨鼓のみで演奏され、主に絃楽器との調音・調律と演奏する曲の調子を観客に提示する目的で行われるという。ちなみに管楽器の主奏者は「音頭(おんど)」、絃楽器の主奏者は「面琵琶(おもびわ)」「面箏(おもごと)」と呼ばれ、指揮者がいない代わりに曲全体を統率する役目を鞨鼓の奏者が担うことになっている。音取の次に、プログラム楽曲である「当曲(とうきょく)」の演奏が始まる訳だが、龍笛のソロに始まり、笙・篳篥・琵琶・箏の順に参加してゆく。当曲は「序(じょ)」「破(は)」「急(きゅう)」を有し、各々が西洋音楽でいう楽章のような役目を持ち、序・破・急を通して演奏されることを「一具」と呼ぶが、通常は1つの調子の曲のみ(序破急のうちの1つ)が演奏され、2つ以上の調子の曲が演奏されることはあまりないという。
以下、管弦に登場する楽器について触れてみたいと思うが、先に提示した管楽器・絃楽器・打楽器順に、雅楽等で使用される管弦以外のものも併せて触れてみることにする。

「吹奏楽器」の呼び名が現在一般的である管楽器は、雅楽においては「吹物(ふきもの)」と呼ばれ、その音色から天地を表現し、各々の響きを重なり合わせ、また相互に補い合って旋律を作り出す。管の側面に吹口を有し、水平に持って奏する「横笛」と、管の上端に吹口を有し垂直に持って奏する「縦笛」の2種類があり、横笛は「龍笛」「神楽笛」「高麗笛」「能管」「篠笛」等、「縦笛」は「篳篥」等である。

「篳篥(ひちりき)」  その音色は大地に響く人の声を表すと言われるように特有の非常に存在感のある音色で、小さい管から想像できない程の大きな音を奏でる。長さ18センチ程度、表7穴・裏2穴の指孔を有するやや楕円形の竹製の縦笛で、オーボエ等の仲間であるダブルリード類だが、廬舌(リード)は葦(あし)を潰し、「責(せめ)」と呼ばれる竹製の輪をはめ込み、反対側は図紙(ずがみ、和紙)を巻いて管に差し込むという独特のリードを使用する。廬舌が大きいため、息の吹き込み具合・廬舌の咥え方により、同じ指遣いでオクターブ異なる高さの音を出す「塩梅(えんばい)」という独特の奏法がある。塩梅は音程が非常に不安定であるため高い技術を要するが、旋律を表情豊かに滑らかにすることができる。演奏前に舌(リード)を茶(シブのあるもの)で湿らせて吹きやすくする等、管理が難しく初心者には悩ましい楽器だが熟練者の音色は聴く人の芯に響く音色となる。主旋律を担当する最も使用遜度が高い雅楽器で、誄歌を除く全ての楽曲に用いられるが、楽器の位は最下位で、平安時代中期以降は地下の楽人が奏する楽器として扱われたが、古くより名器としてその名を残すものも多い。

「笙(しょう)」  鳳凰を模した姿と音色に由来する「鳳笙(ほうしょう)」という美しい別名を有し、その音色は天から射し込む光を表すと言われる。通常長さが50センチ程度、17本の竹管を束ねた形状の管楽器で、竹管の指孔を塞ぎ、数本の簧(リード)にまとめて息を通すことで「合竹(あいたけ)」と呼ばれる様々な和音を奏でることが出来る。吹奏楽器でも和音を奏することができ、吸う・吐く双方で音が出せるというハーモニカに似た発音原理を有するアコーディオン等の仲間(フリーリード類)で、パイプオルガンの原型とも言われている。雅楽では主に管絃と左方(唐楽の舞楽)に用いられ、演奏時は主に伴奏楽器として主旋律に彩りを添える装飾部分を担当する。催馬楽・朗詠では単音で主旋律を奏する「一竹(いっちく:一本吹き)」と呼ばれる演奏法を用いる。和音を変化させる時は数音ずつ音を変化させる「手移り」と呼ばれる決まりがあり、この楽器の音色の特徴でもある。現在17本中の2本にはリードがなく音が鳴らない構造になっているのは、継承の間に使用されなくなり退化したものとみられている。内部の水滴付着による不良(調律・音源)を防ぐため、演奏の前後に炭火で焙って温める必要があるという繊細な楽器である。

「龍笛(りゅうてき)」  その音色は天地を自在に行き来する龍を表すと言われており、主に管弦の中の唐楽に用いられ、歌謡や国風歌舞の数曲にも用いられる。通常長さが40センチ程度、指孔が7穴ある竹製の横笛で、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。フルートの原型となった古くから存在する笛であり、運指もフルートと大差がない。平安時代まではほぼ龍笛が用いられていたが、後に2種の管楽器「能笛」「篠笛」に分化するので、雅楽器の横笛の源流である。尺八と同じエアリード(ノンリード)なので音を発するだけでも熟練を要し、音の安定感に欠けるというが、吹き方を変えることで2オクターブ出すができる音域の広い管楽器である。雅楽では龍笛の主管奏者の演奏から始められ、曲中では通常は副旋律を担当して篳篥が奏する主旋律に絡み、補うように旋律を奏でるのだが、主旋律を奏すこともある。古くは単に「横笛」(おうてき)と呼ばれており、龍の声に喩えられる透き通った音色は古くから上流階級に好まれ、雅楽器の中でも群を抜く人気度だったという。武将等に愛好され大切に扱われたこともあって「大水竜」「小水竜」「青葉」等の名器が多く生まれており、中でも平家物語で有名な「青葉の笛(小枝)」は伝説が全国に残り、現在は正倉院宝物殿にあるとも言われている。文部省唱歌にもなっている。

「神楽笛 (かぐらぶえ)」  通常長さが45センチ程度、指孔が6穴ある竹製の笛で、「太笛」「大和笛」とも呼ばれている。邦楽器の笛の中で最も長く、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。古い組曲「神楽歌(かぐらうた)」等の演奏に用いられ、親である龍笛より管が長く、1音低いのが特徴である。龍笛と同じく2オクターブ出すができる音域の広い管楽器で、静かで落ち着いた太い音色を有する。雅楽の神楽笛は地方の祭囃子等で用いられているものとは違うらしい。

「高麗笛(こまぶえ)」  通常長さ37センチ程度、指孔が6穴ある竹製の笛で、「狛笛」「細笛」とも呼ばれている。神楽笛と構造が似ているが管が細く、吹口・指孔以外の菅に樺・藤の蔓で巻きが施され、内部には漆を塗ってある。新羅楽・高麗楽・百済楽と共に朝鮮半島から伝来した楽器で、雅楽の右方(高麗楽の舞楽)や東遊等の演奏に用いられる。管が細い分だけ音が高く、鋭くはっきりとした音色を奏でることができ、他の横笛と同様に息の違いでオクターブ違う音を出すことができる。古くは東遊用の「歌笛(東遊笛)」「中管」が存在していたが廃れ、高麗笛で代用するようになったと考えられている。

「能管(のうかん)」  能笛(のうてき)とも呼ばれ、観阿弥・世阿弥父子の時代以降、前述の龍笛から派生して生まれた竹製の横笛の1つで、主に能楽で「笛」と呼ばれて用いられる他、歌舞伎の長唄伴奏等に用いられる。能管の長さは出所等で個差があるが、大体龍笛と同じ程度、見た目は龍笛と見分けが付かないほど似ているのも龍笛を改造して誕生した背景から分かる。歌管(歌口と第一指孔の間)に「喉(のど)」と呼ばれる細い竹筒が仕込まれたことで、他の横笛のような息の違いでオクターブ違う音が出ず、「ひしぎ」と呼ばれる高音が出やすくしてある。「ひしぎ」は西洋音楽にはない特殊な甲高い、叫び声のような音で、これにより能管特有の雰囲気を醸し出し、また能の幽玄・日本的音楽性を表現することを可能にした。

「篠笛(しのぶえ)」  大陸から「伎楽」と共に日本に伝来した竹製の横笛が、製法等が簡単なことから一般庶民にも広がり、大衆芸能の笛として確立したものと言われている。「竹笛」「里笛」とも呼ばれ、篠竹(女竹)で作られ、樺巻きせず竹のまま漆塗りが施される程度の素朴な姿のもので、指孔は6孔・7孔があるが原型は6孔で、7孔に変化して後に主に7孔の歌用篠笛が使用されるようになったと考えられている。主旋律として歌舞伎の囃子・黒御簾、里神楽・獅子舞・祭囃子・長唄・民謡等、幅広く用いられ、雅楽器の中でも特に清澄な美しく上品な音色を持つと言われる。音域は約2オクターブ半程度と広く、しかし歌・三味線等に合わせて演奏する為に低い音階を持つ「一本調子」から高い音階を持つ「十三本調子」まで合計13種類の笛があり、曲により笛を使い分けるという。一般的に、六~八本調子が多いようである。

弦楽器(絃楽器)は雅楽では「弾物(ひきもの)」と呼ばれ、琴・琵琶等の総称である。旋律を奏でる他の弦楽器とは異なり、雅楽ではリズム楽器としての役割を果たす。管弦で用いられるのは主に「琵琶」「筝」の2種の弦楽器である。

「楽琵琶(がくびわ)」  主に管弦に使用される雅楽の琵琶は、他の琵琶と区別するために楽琵琶と呼ばれており、ペルシャを起源とし、西域から中国を経由して伎楽と共に日本へ伝来したと言われる。現在の楽筝は大体110センチ程度が標準的な大きさで、絹糸でできた弦が4本、小型で低い柱が4つ付され、撥(ばち)で撫でるようにして音を奏でる。槽(胴)の材質は花櫚・紫檀・桑等、槽の上端の「海老尾(かいろうび)」は黄楊・白檀、「鹿頸(ししくび)」と呼ばれる槽の頸の部分は唐木・桑、腹板は沢栗、長さ20センチ程度の薄い撥は黄楊、と全体に様々な木材が使用されている。他の楽器と同様に多くの逸話を持ち、美しい絵が描かれた「銘」があるものや、「玄上(玄象)」「青山」等は名器として有名である。

「楽筝(がくそう)」  古くから「箏の琴」の名で表される雅楽の筝は、他の俗箏と区別して特に楽筝と呼ばれている。全長は標準1.9メートルあり、絹糸でできた13本の太い弦、高さ4、5センチの象牙の琴柱(駒)、竹の爪を用いる点で近代の琴(こと)とは音色も大きく異なるという。間をとる為の打楽器に近い役割を持ち、主に演奏の流れを作る役割を果たす。胴は桐材、頭部・尾部・足・駒は唐木を使い、その上に象牙の細長い筋を付けてある。しっとりとリズムを刻んでいく役割のみで、楽琵琶と同様に旋律は奏でない。古くは左手で柱の左側を押さえる奏法があったようだが現在の奏法に伝わっていないという。

「和琴(わごん)」 古墳時代の埴輪に和琴を演奏する人を象ったものが出土しているほど起源の古い、純日本製の楽器であり、中国から伝わった箏(そう)とは構造・奏法等が全く異なる。長さ約1.9メートルの桐製の胴は表面全体を火で焼き焦がし、絹糸の6本の弦を「葦津緒」と呼ばれる太い紐で止めて張り、琴柱(ことじ)には楓の二股の小枝を自然のまま利用する。右手で「琴軋(ことさぎ)」と呼ばれる水牛の角でできた細長いピックを用いるか、左手の指で弾いてゆっくり奏する。古来は天皇の楽器と呼ばれるほど楽器の位が高く、現在は主に宮中での神楽歌・東遊・久米歌等の古の純日本歌曲である「国風歌舞」にしか用いられないが、古くは管絃にも用いられていたようだ。純日本製楽器として古くから存在したことから別名が非常に多く、「六絃琴」「倭琴(やまとごと)」「御琴(みこと)」「神琴」「天詔琴」「鵄尾琴(とびおごと)」「東琴(あづまごと)」「むつのを」等があり、古くから祭祀儀礼において重要な楽器であったと考えられている。

琵琶は大衆的な楽器ではなく、歴史を辿っても庶民に愛された「平曲」の盲僧琵琶が、史上最も有名ではないだろうか。分類するなら、インド伝来の「五弦琵琶」・雅楽で用いる前述の「楽琵琶」・盲僧語りの「盲僧琵琶」・平曲語りの「平家琵琶」・盲僧琵琶から派生した「筑前琵琶」「薩摩琵琶」等がある。

「筑前琵琶(ちくぜんびわ)」  琵琶は専ら盲僧達が担い手であり、彼らの手作りであったため当初は様々な形態の琵琶が用いられていたというが、奈良時代末~平安時代初期、福岡県博多の「玄清」という筑前盲僧が北九州各地に筑前琵琶を広めたのが始まりともいう。しかし今日のものは明治時代中期に筑前盲僧・琵琶奏者の橘智定(たちばなちじょう)が薩摩琵琶を改良して新しく琵琶音楽を創始したとされ、四絃五柱と五絃五柱があるという。五絃は薩摩琵琶に一絃高い音を加えたもので、四絃は小型なので音も繊細であり、女流演奏者に人気があるという。

「薩摩琵琶(さつまびわ)」  室町時代末期、島津忠良が「淵脇了公」に命じ、古くから薩摩にあった盲僧琵琶を改良し、琵琶音楽を作らせたのが起源と言われる。四絃四柱の大形のもので、大形の撥で自由闊達に勢い良く奏するものであったが、現在では筑前琵琶と同様の五絃五柱と、旧来の四絃四柱の双方が並立している。人気が高く町人に広まった江戸時代の合戦語りは「町風(まちふう)琵琶」、武士に広まったものは「士風(しふう)琵琶」とも呼ばれ、明治時代には全国に広がりをみせるほどの人気を呼んだ。

打楽器は雅楽では「打物(うちもの)」と呼ばれている。大半が中国大陸からの由来のものであるが、日本に伝来して独自の進化を遂げたものも多いという。雅楽では太鼓・鞨鼓・鉦鼓が用いられる。

「楽太鼓(がくだいこ)」  「釣太鼓」とも呼ばれるように、大型の木製の円形の枠に直径50センチ以上もの大型の平太鼓を釣るし、2本の桴で打つもの。桴で打つ革面には色彩も豊かな三つ巴・唐獅子・鳳凰等の模様が描かれており、また太鼓の中では薄い類なので、一見するとドラのように見える。バスドラムと同様、低く響く音色で基本のリズムを担当し、演奏全体を底から支える。楽太鼓は管弦の合奏に用いられる。下記の大太鼓の他に、「船楽用太鼓」「荷太鼓」等も用いられるという。

「大太鼓(だだいこ)」  「火炎太鼓」とも呼ばれる、火炎の装飾を施された非常に大きくて派手な太鼓であり、舞楽で用いられる。高舞台を組んでの正式の舞楽の場合、大太鼓が左右一対になるよう設置される。奏法は楽太鼓と全く同じ、また用途も同じく演奏全体を支える役割を担う。通常は直径55センチ程度、薄くて非常に大きい太鼓であり、楽太鼓同様、桴で打つ革面にも色彩も豊かな模様が施されている。最大のものは大阪・四天王寺に重要文化財として保存されているもので、直径2.48メートルもあるという。

「鞨鼓(かっこ)」  雅楽では統率楽器として演奏全体のペースの管理を担う重要な役割を担当するので、熟練者が奏するものだという。直径20センチ強の牛革張りの両面の太鼓を、「調緒(しらべお)」という牛皮の紐で締め、装飾が施され、木の桴(ばち)2本を用いて演奏する。唐楽の中でも「新楽」を奏する時に用いられており、古く「古楽」を奏する時は「壱鼓(いっこ)」という楽器を用いたが、現在は鞨鼓を用いるようになったという。

「鉦鼓(しょうこ)」  雅楽では唯一の金属製楽器、かつ体鳴楽器であり、シンバルに近い。直径15センチ程度の青銅製の皿を、長さ42センチ程の2本の桴(ばち)で擦るように叩いて硬い音を鳴らす。管絃の演奏には「釣鉦鼓(つりしょうこ)」を用い、他の演奏には「大鉦鼓(おおしょうこ)」「荷鉦鼓(にないしょうこ)」等が用いられるようだ。釣鉦鼓は木製の枠に鉦鼓を下げて鳴らすもので、宮内庁のものは漆や金箔で木枠が装飾され、楽太鼓と対の文様や装飾が施されているという。祭囃子等で用いられる簡素なものは単に「鉦(かね)」と呼ばれている。

以下、「打物」以外の和太鼓について触れておく。
「締太鼓(しめだいこ)」  古くは「猿楽太鼓」と呼ばれていたもので、和太鼓の1つに挙げられ、現在は主として能楽・長唄・民謡・神楽等を始め、広く用いられている。推古天皇の時代、百済から伝わった伎楽で「腰鼓(ようこ)」として使用されていたものであり、後の田楽・猿楽、室町時代には能楽に用いられて改良され、能の囃子である「四拍子」の1つとして発達してきた。木製の胴は中央がやや膨らんだ円筒形で、革面の直径は35センチ、革面の周りに8個の孔があり、調べ緒でかがって締め上げて張りを整える。古くは別の者に持たせて打ったともいわれるが、現在は「挟台」に固定して用いる。

「大鼓(おおつづみ)・大皷(おおかわ)」  能楽・長唄の囃子に用いられ、古く存在した「壱鼓」に似た鼓(つづみ)であり、小鼓(こつづみ)と対になって用いられる。木製の胴の長さは28センチ程度、革面は直径23センチ程度、奏者は和紙の指袋を着用し、右手の人差し指と中指で打つ。良い音を出すためには演奏前に革面を1時間半程度火で焙り、乾燥させておく必要があるそうだ。

「小鼓(こつづみ)」  一般に「鼓(つづみ)」と言われるもので、能楽・長唄囃子・歌舞伎の下座音楽・郷土芸能等、広い用途に用いられている。古く「壱鼓」から変化した鼓であり、平安時代末期には「白拍子」、室町時代の「猿楽」に用いられ、「能楽」の「四拍子」の1つとして「大鼓」と同様に発達してきた。木製の胴の長さは26センチ程度、「乳袋」と呼ばれる両端の椀形の端に直径20センチ程度の馬皮の革が張ってある。胴に黒い漆を塗り、蒔絵等の美しい装飾を施したような美術品としても貴重な鼓や、小鼓各流儀の宝と言われるような名器も数多く存在する。奏者は、鼓を右肩の上に構え右手で皮面を打ち、左手で調べ緒の握り方を変えて音を操作するのだが、演奏前は大鼓とは逆に革に湿気を含ませて音の調子を整えて用いるという。打面の皮は50年未満は新皮と呼ばれ、製作してすぐ柔らかい良い音が出るものではなく、また現在の舞台で用いられる小鼓の胴の大半は室町~江戸時代に製作されたものであり、江戸期以降は名胴がほとんどないという。

「三ノ鼓(さんのつづみ)」  「三鼓」とも呼ばれる鼓で、雅楽の右方(高麗楽の舞楽)の演奏に用いられるもので、長さ45センチ程度で形は鞨鼓と似ており、また全体をリードする役割を担うのも鞨鼓と同様であるが、演奏は片面だけを用い、右手に太い桴、左手は楽器の調緒を持って奏する。大きさにより「壱鼓」「二ノ鼓」「三ノ鼓」「四ノ鼓」と名が付けられた「古楽鼓」は奈良時代に日本に伝わったらしいが、二ノ鼓と四ノ鼓は雅楽に用いられず、現在は残っていないという。軽い音色の鞨鼓に比べるとやや鈍く重い音で、鞨鼓のように連打することはなく、単調なリズムである。雅楽に使われる三ノ鼓は胴に漆・金箔で華やかな文様を描いた装飾が特徴として上げられるのは他の鼓と同様である。

「笏拍子(しゃくびょうし)」  雅楽器の中では作りが最も簡素な、長さ35センチ程度の木製の打楽器で、平安貴族の束帯という装束や神社の神官が持つ「笏(しゃく)」を縦2つに割ったような形で、独唱者が歌いながら打ち鳴らすことで拍子を定める。拍子木と似た類のもので、両手に1つずつ持ち、左手は切り口を手前向き、右手は切り口を左向き持ち、扇を閉じる要領で強く打ち鳴らすことで乾いた音を鳴らす。雅楽の謡物である「国風歌舞」や御神楽で用いられる。

雅楽の管弦はここまでとして、次に「筝(そう)」に入る。既に管弦の弦楽器のところで少し触れたが、雅楽器の楽筝とは形も歴史も全く異なっている。

「筝(そう)」  奈良時代、中国・唐から伝来した弦楽器であり、長胴チター属撥絃楽器に分類される十三絃の琴で、「筝の琴(そうのこと)」とも呼ばれている。雅楽の管弦で用いられている「楽筝」を原型として継承され、嵯峨天皇の頃に全長約197センチと規定されて以来、現代の筝(いわゆる「お琴」)までほとんど同じ形状で継承されてきた。日本では今日も変化なく使われているのに対し、本家・中国では弦数が増加、今では21本程度のものが用いられるという。一般に「琴」とも表記されるなど混同しがちであるが、元来は筝(そう)と琴(きん)は全く別のものであった。木製の本体に絹糸を撚った太さが同じ13本の弦を張り、可動式の「琴柱(ことじ)」の位置を変えることで調弦し、調弦にない音は左手で弦を押さえ、音を変化させつつ象牙等でできた爪を着けた右手3本の指で奏する。江戸時代には室内用の独奏楽器として発達し、現行の生田流・山田流を始め、八橋流、筑紫筝(つくしごと)等の音楽が誕生した。他にも宮城道雄が考案した低音用の「十七絃」や「八十弦」、中能島欣一の考案した「十五弦」、初代・宮下秀列の「三十弦」、野坂恵子の「二十五弦」等も後の時代に考案されている。
筝曲が発達する中で時代・流派の変化に伴って筝本体・柱・爪等がサイズ・形状・構造・素材等において様々な改良が行われた結果、「十三弦筝」が定着し、今日広く普及している。また洋楽の要素を取り入れた斬新な筝曲の創作が増大するにつれ、本家・中国と同様に高低両面へと筝の多弦化傾向が生じているという。
「筝曲(そうきょく)」とは、筝を主奏楽器とする音楽全般を指す用語であるが、一般には狭義の、近代に始まった八橋検校以降の箏曲「俗箏(ぞくそう)」による音楽を指す。その歴史の発祥は筑紫流筝曲(筑紫筝)にあると言われ、室町時代末期、「越天楽歌もの箏曲」など箏が歌謡の伴奏に用いられるようになり、戦国時代末期~江戸時代初頭には九州・久留米の僧侶・賢順が雅楽と琴曲(きんきょく)の影響を受けて筑紫筝の組歌「賢順十曲」を生み出すなど筑紫流筝曲を大成させ、始祖となったという。その後の江戸時代初期に登場する「八橋検校(やつはしけんぎょう)」が八橋流筝曲を興こし、改革・発展させつつ当道座へと伝えて当道箏曲を誕生させたことで近世筝曲の礎を確立し、三味線同様に色々な流派が誕生することとなったので「近世筝曲の開祖」と呼ばれている。更に八橋門下の北島検校の門人の「生田検校(いくたけんぎょう)」が、筝曲と地歌(じうた)を合流させ筝と三味線の合奏を加えた生田流筝曲を創始した。三味線の伴奏として用いられていた箏を、江戸中期の箏曲家で生田流の長谷富検校の弟子「山田検校(やまだけんぎょう)」が江戸浄瑠璃の曲風を取り入れつつ独奏楽器としての箏曲を作り、山田流箏曲の始祖となった。彼は類稀な美声の持ち主で江戸で人気を博したと言われ、同時に琴師・重元房吉(しげもとふさきち)が山田流に合わせて爪・箏本体の改良を行い、現在の「山田琴」の原形を作ったという。彼の製作技術は今日まで伝承され、流派を問わず広く用いられている。
江戸浄瑠璃を取り入れた歌本位の江戸の山田流、地歌を基盤にした器楽的筝曲の上方(関西)の生田流と、2大流派の流れが現在まで続いており、今日もこの二流のみとなっている。

「尺八(しゃくはち)」  尺八の渋い音色から純日本製楽器のような錯覚を起こすが、その起源は古代エジプトまで遡るという輸入楽器である。エジプトからペルシャ、インドを経て中国に入り、中国で長さ一尺八寸となり、最初は6孔(前5・背1)のものが日本に伝来したという。尺八の名で呼ばれる楽器として「雅楽尺八」「普化尺八」「一節切」「多孔尺八」「天吹」等があるが、そもそも尺八の名の由来は楽器の長さを表しており、長さ54センチ程度(一尺八寸)、真竹という大型の竹の根に近い部分を利用した縦笛である。4~5年以上経過した硬くて古い竹を火で焙って油分を抜き、天日乾燥して更に数年保存してから製作され、管の中は防水のため漆塗りが施されている。他に練習用の木製・プラスチック製等があり、竹製のものは製造直後は白いが、年月を経て茶色が濃くなってゆくという。現在一般的な尺八には、中継ぎという中央のジョイント部分があり、上管・下管に分解することができるという。標準54センチの「八寸」以外に色々な長さがあり、短いものは33センチ程度の「一尺一寸」、長いものは75センチ程の「二尺五寸」があるという。現在使用されている尺八の起源は、中世の頃中国から伝来した「普化尺八」で、江戸時代、仏教の一派である普化宗の虚無僧(こむそう)が托鉢して吹奏していた楽曲が尺八楽の起源だという。楽器自体もその製法も普化尺八と同じものが伝承されており、竹の節7つをそのまま生かした竹管に前面4つ・背面1つの孔を設け、舌(リード)が付いていない歌口に直接息を吹くことで音を出す。5つの孔を半開・微開等の4通りの細かな押さえ方で音程を調節し、更に唇の開き具合や顎の角度(メリ・カリ)等で律・音色を調整するなど、顎を楽器の一部と見なして使用しなければならないため「首振り3年、コロ8年」と俗に言われているほどに奥が深く、演奏が非常に難しいという。

「雅楽尺八(ががくしゃくはち)」  現在の雅楽には使われていないが、正倉院には最古の尺八が残っているらしい。平安時代初期まで使用されていた「古代尺八」とも呼ばれるもので、中国・唐で作られ奈良時代に日本に伝来したが、平安時代末期頃には消滅したという。中国でも同様に宋の時代には消失してしまったようだ。後の江戸時代、管絃合奏用の雅楽曲の尺八譜を作らせたが、既に雅楽尺八は全滅していたため当時存在した普化尺八で代用したと考えられている。

「普化尺八(ふけしゃくはち)」  鎌倉時代の禅僧・覚心が中国・宗で尺八曲を学び、日本に伝えたのが起源とされる。普化宗(ふけしゅう)が盛んになるのは江戸時代に入ってからのことで、江戸時代初期、多く世に生じた浪人に組織された普化宗(禅宗の一派)が読経の代わりに法器として普化尺八を使用し、瞑想の手段としたことによる。今日の尺八の直接の起源となっており、標準寸法は54センチ程度、指孔は前面4孔・背面4孔の計5孔である。普化宗の徒は虚無僧と称したことから「虚無僧尺八」とも呼ばれる。京都・明暗寺を総本山に定め、普化宗寺には武士以外の入門を禁じていたが、庶民への尺八指南は古くから行われていたようだ。江戸時代中期、普化宗が公認の宗教となり虚無僧の地位が「普化宗徒」として安定した後、琴古流の源となる虚無僧・黒澤琴古(くろさわきんこ)等の名手も出て日本各地に伝わる尺八曲を集めて集大成させたという。琴古流・明暗流の2派が存在したが、明治初頭の普化宗の廃止により一般大衆も普化尺八を手にすることができるようになるのと同時に「尺八」として一般楽器の仲間入りを果たした。古典尺八曲は大半が独奏曲だったが、明治中期に中尾都山(なかおとざん)達により本曲という新しい分野を開拓し、芸術的音楽として発展させ「都山流(とざんりゅう)」を大阪に誕生させた。なお尺八のために作曲された尺八の独奏曲を「本曲」と呼び、それ以外は「外曲」と呼ばれ、箏・三絃(三味線)と合奏する曲は外曲に相当する。今日は琴古流・都山流の2派が現存し、流派により「歌口(うたくち)」に埋め込んである物の形状が異なるという。近年では更に改良・工夫された7孔以上の尺八もあるようだ。

「一節切(ひとよぎり)」  一節分の長さ(一尺一寸一分)の竹で作られているのが名前の由来であり「一節切尺八」「短笛」等とも呼ばれていた。室町時代中期頃、一節切という尺八が南方中国人の廬安(ろあん・芦安)によりもたらされ、吹奏行脚をして歩いたことが薦憎(こもそう=虚無僧)の起源となり、江戸時代中期頃まで一般大衆に愛好されたという。一節切は文字通り節が1つしか無い真直な竹で作られ、指孔は前面4孔・背面1孔、他の尺八とは逆に根に近い方が歌口になっている33センチ程度の短い尺八である。江戸時代には三味線や琴と合奏されたり唄の伴奏にも使われていたが、明治時代以降衰退して現在は使用されていないという。
ちなみに虚無僧という名は、薦僧(菰僧・虚妄僧)という前述の廬安の様子から出たもので、室町以前は「徒然草」に登場するように「ぼろぼろ」「暮露」等と呼ばれていた乞食僧を指す言葉である。なお天蓋(頭を覆う笠のようなもの)で顔を覆い隠す風習は徳川4代目将軍の治世以降の事であるようだ。

「天吹(てんぷく)」  細く短い尺八であり指孔は一節切と同じ、一節切のように根竹は用いられず、節は中間に3つ、歌口は尺八に似た切り方になっている。一節切と尺八の中間のようなものであり、研究が進むと尺八の伝播・発展の解明に繋がるかもしれないが、現在は滅亡寸前である。鹿児島県にのみ現存する薩摩地方の郷土楽器である。

さて最後に三味線(三弦)について触れることにする。三味線の起源等は「日本物語-地唄・長唄・端唄・小唄・都々逸」でも紹介しているので参照していただければ幸いである。

三味線の起源は安土桃山時代の永禄年間(1558~1569年)、中国の三弦(さんげん、三絃とも)が本土に伝わり、琵琶法師がそれを改良して三味線が誕生したとする説が一般的である。具体的に誰が三味線を誕生させたかは定かではないが、石村検校(いしむらけんぎょう)が三味線音楽興隆の祖と称されているように、三味線の考案・改良のみならず三味線音楽を芸術的に高めるべく楽曲を作成し、弟子へと伝授したことにより三味線が世に広まったため、地歌を始めとする三味線音楽の誕生に大きく貢献したものと考えられている。江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」を生んだ功績も大きく、「当道座」の盲人音楽専門家である検校らに非常に尊重され、この組歌を基本として「地唄」が大成された。
この「三味線組歌」は現在「本手(ほんで)」「本曲(ほんきょく)」等の通称で呼ばれ、本手組(7曲)と破手組(端手組)の総称となっている。本手組7曲は石村・虎沢検校の手により作られ、破手組14曲は虎沢・柳川検校により作られたと言われているが、現在の野川流三味線組歌の全32曲に定まるまでの伝承過程において、京都の柳川流・大阪の野川流の2つの三味線流派に分かれた。本手は、免許皆伝でも伝授されない秘曲とされ、かつて職格取得(プロ)のための必修曲であったが、音源として全曲残されているものの、生きた継承者は非常に少ないという。明治期の「当道座」の解体に伴って遠い存在となっていたが、秘曲としての格式を保ちつつ伝承され、現在は本手奨励会を組織して正確な伝承と普及のための活動を行っているという。
ちなみに古典であった本手組に対する新風であった破手組の奏法・テンポの緩急の自在さ等から「派手」という言葉が生まれたとも言われている。
三味線は歌舞伎音楽と共に発達してきた。中でも「長唄(ながうた)」は江戸で歌舞伎舞踊(所作事)専用の伴奏音楽(地謡)として誕生、発展した三味線音楽であり、歌舞伎の初期の頃に存在した「踊歌」、元禄期(1688~1704年)頃に江戸に伝わった「上方長唄」の2つを母体として各種の音曲の曲節を摂取しつつ、享保年間(1716~1736年)、長編で物語性を有する「長唄」が誕生したという。17世紀初頭に起こった「お国歌舞伎」の頃は踊歌の伴奏音楽は能楽の4拍子のみであり、三味線が使用されるようになったのは1615年~1630年頃に最盛期となった「女歌舞伎(遊女歌舞伎)」の時である。1629年の遊女歌舞伎の禁止に続いて起こった「若衆歌舞伎」の時代、三味線の地位が主奏楽器として確立されるのに伴って今日と同じような基礎形態に整えられたというので、長唄は歌舞伎の歴史と密接に関わりつつ発展してきたと言える。上方の元禄歌舞伎の第一人者である初代・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始され流行したことを背景に、18世紀前半の享保年間、上方の初代・瀬川菊之丞、初代・中村富十郎らの名女形と長唄演奏者が江戸に進出し、和事特有の女性的な長唄三味線が江戸にもたらされ、流行した。18世紀後半には、長唄に浄瑠璃を取り入れた「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」が作曲家・唄方として名高い初世・富士田吉次によって創案された。唄浄瑠璃とは歌物(うたいもの)的傾向の強い浄瑠璃流派のことであり「座敷浄瑠璃」の別称の通り、室内音楽として三味線歌を楽しむものである。長唄三味線は分化・多様化しつつ人気を博すると共に曲風も多彩になって定着してゆき、19世紀前半辺りに全盛期となる。文化・文政期(1804~1829年)、早替わり等ケレン味ある演出に合わせた「変化物(へんげもの)」や豊後節浄瑠璃との「掛合物(かけあいもの)」が歌舞伎界に流行して全盛期になると、長唄三味線も各々の舞踊に合わせた伴奏音楽として目立って内容の多様化が起こり、高い音楽的完成度を持つものとして大成し始めた。幕末~明治期にかけて、歌舞伎そのものを芸術的に高めようとの指向を反映して能・狂言の歌舞伎化が活発になるにつれ、長唄三味線の守備範囲は益々広がり、また浄瑠璃流派の1つであった「大薩摩節」を吸収し、舞踊音楽として首位を占めるに至った。
同時に、歌舞伎や舞踊から離れ、大名屋敷・料亭等で演奏する「鑑賞用長唄(お座敷長唄)」が創始され、長唄三味線は新しい局面への場が開かれることになり、本来は舞踊曲であり派手な芝居唄であったものが、庶民の習い事として浸透して劇場を離れ、室内楽として音楽の1ジャンルの地位を得た。20世紀初頭、四世・吉住小三郎と三世・杵屋六四郎(きねやろくしろう)が「長唄研精会」を創設し、定期的な演奏会を開催することで「鑑賞用長唄」を一般庶民に普及する働きかけを行い始めた。そうして長唄三味線の長い歴史の中で謡曲・狂言・浄瑠璃・地歌・流行歌・民謡等の様々な種目が有する旋律・題材・曲節を吸収して発展した為、極めて多様性に富んでおり、現代、純邦楽の中で最も親しまれている音楽となった。
次に三味線の構造を見てみることにする。三味線は「棹」と「胴」の部分に分けられる。「棹」は上から海老尾(転軫)、棹、それに棹の下の棒状部分は胴内部分の中子(中木)、胴の下に突き出る部分の中子先で構成される。材質は、紅木が最高級、次に紫檀、樫・桑の木等も使用される。棹の長さは62センチ程度で、太さは細棹・中棹・太棹がある。持ち歩きに便利なように「継ぎ棹」と呼ばれる「二つ折」「三つ折」になるものや、5箇所も継ぎ目のある「六つ折」という珍しい棹もあり、逆に継ぎ目の無い棹は「延べ棹」と呼ばれている。「胴」は四面の四角形の箱型で、材質は花梨・桑・欅等があり、胴の枠の上には蓋状の胴掛を付け、皮は胴の両面に張り、猫・犬の皮が使用されるが、最近では合成ビニール等も使用されている。「弦」は絹糸を撚り合せて作られるが最近はナイロン製の糸もあるようだ。単に糸と呼ばれており、「一の糸」は太く、「二の糸」は中間、「三の糸」は最も細い。「駒」は糸の振動を直接皮面に伝えるので三味線の音質を決める大事な部分であり、材質は象牙・水牛角・鯨の骨・竹・紫檀・黒檀等、様々である。義太夫・地唄三味線では水牛が多く、長唄三味線では象牙が使用されるという。中には「忍び駒」と呼ばれている、音量を抑える目的の竹製のものがあり、江戸時代中期から用いられ始めたそうだ。当時、皇室・将軍御三家等の凶事の際には長いと一年間も鳴物が禁止されたため、その間は内密で三味線を弾くために用いられていたことからこの名が付いたという。
「撥」は少し開いた扇のような形状で、上は「ひらき」、下は「才尻」と呼び、間の握り部分を「手の内」と呼ぶ。材質は地唄三味線では水牛角、長唄三味線は象牙、義太夫三味線では双方使用されている。
三味線演奏者は正座し、胴を右膝に乗せて棹を左手で握り、左の人差し指・中指・薬指の主に爪で「勘所(かんどころ・ツボ)」を押さえ、右手の撥を糸に当てて弾く。撥は皮に当てる程度に強く叩かないように弾くもので、様々な奏法があり、左手の押さえも「はじき」「こき」「すりあげ」「すりおろし」等があり、各々の音楽に特有の世界を生み出している。この他にも「小唄」のように撥を用いず、右手の人差し指で「爪弾き(つめびき)」する奏法もある。

総論
邦楽器(和楽器)と呼ばれるものは大変魅力的な音を出すものが多いと感じるのも、日本人たる所以かも知れない。演奏する側にとって時間と労を要するような技巧的な奏法が多いのも確かだが、音を出すという最初の一歩にも天候・温度等を計算し、楽器の下準備にも経験を要するようで、いずれも初心者向きと言える類ではなさそうだ。しかし努力と技巧追求の上で編み出された繊細で美しい音色、侘寂(ワビ・サビ)を醸す変化に富んだ音色こそ、日本人の美意識や心情に強く訴え、日本文化を根底から支え、育んできた。文化・芸能は担い手・受け手の双方の共有感覚が必要であり、どのようなものを生み・育んでゆくかは、双方の共有部分にかかっているはずである。長い歴史を振り返り、各々の時代に特有の文化を見るにつけ、今後どのような日本文化が育ってゆくのか、筆者は内心穏やかではないのが寂しい限りである。