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地唄・長唄・端唄・小唄・都々逸

じうた・ながうた・はうた・こうた・どどいつ(雅楽・邦楽・浄瑠璃節・唄)


[地唄・長唄・端唄・小唄・都々逸]
本項の表題に「唄」が並んでいることからも予想できると思うが、唄の付かない「都々逸」も唄の一種であり、「歌」ではなく「唄」が付いていることから察せられるとおり、最近誕生したものではなく、近代邦楽に含まれるので「声楽」の項も参照して頂けると流れが分かりやすいかと思う。大体表題の並びのままで年代順になっているため、先に全体の流れを追った後に各々の詳細に触れてゆこうと思う。※注 「歌」「唄」双方の標記があるが、表題の名称に対しては統一して「唄」を用いた。

まず邦楽の中の「声楽」の2大系統として「歌物・謡物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」があり、「歌物」は一般に流行歌・民謡・童謡・俗謡などの総称を指し、「語り物」は音楽性を伴う韻文形式の作品かつ歌詞と曲とが一体のものと定義されている。「歌物」と呼ばれるものには古くは神楽歌・催馬楽・今様・宴曲、近代は長唄・端唄・地唄・うた沢・小唄・都々逸などがあり、本項の5つは全てこちらに含まれ、かつ近世、江戸時代に日本で誕生したものである。これらの土台となる地唄は三味線の伝来とほぼ同じ時期、当初は三弦音楽として始まったと考えられているので、戦国時代末期頃から歴史が始まると言えるだろう。地唄は当道座の検校らにより作曲・伝承され続け、江戸・元禄年間(1688~1703年)には一貫した内容を持つ「長歌」を誕生させた。それに伴い、短いものを「端歌(はうた)」と呼ぶようになったが、端唄の流行は天保年間(1830~1843年)以降と言われている。長唄は上方から江戸へ伝わり、歌舞伎専用の劇場音楽として江戸で発達したことから「江戸長唄」とも呼ばれるが、19世紀初頭には観賞用長唄(お座敷長唄)も誕生し、庶民にも愛好されるようになる。一方端唄は一般庶民の娯楽の流行歌でしかなく、家元制がなかったため衰退してゆく。端唄をゆったり渋く上品に歌う「歌沢」「うた沢」が安政期(1854~1859年)頃に誕生した後、端唄が撥を使うのに対し、爪弾き(つめびき)で三味線を弾き、端唄のテンポを早くし、すっきり・粋にした小唄が派生するが、当初は「端唄」と呼ばれていた。いわゆる現在の小唄「江戸小唄」の流行の先駆は清元と密接で、幕末~明治期にかけて発達し、大正時代には流派が数多く現れ、現在は100以上にも上るという。最後に「都々逸」は江戸末期に一世を風靡した寄席芸人・都々逸坊扇歌が始めたもので、三味線音楽でも俗曲に属する。天保年間(1830~1844年)に寄席で都々逸を披露し始め、節回しが単純で馴染みやすかったことにより庶民に大流行したという。
現在最も人気があるのは小唄ではないだろうか。昭和初期、小唄の歌い手であった芸者達が多数レコードデビューしたことで国民的人気を集め、更に戦後、民放テレビ・ラジオの開局を背景に、「小唄ブーム」と呼ばれるほど人気が高まったようだ。

さて各々の話へと入ろうと思うが、近代邦楽において重要なものとして三味線の普及がある。三味線が誕生しなければ表題の声楽ジャンルは一つも起こり得なかったとも言える。よって少し三味線の話に触れておこうと思う。

三味線の起源はと言えば、安土桃山時代の永禄年間(1558~1569年)、中国の三弦(さんげん、三絃とも)が本土に伝わり、琵琶法師がそれを改良して三味線が誕生したとする説が一般的である。具体的に誰が三味線を誕生させたかは定かではないが、石村検校(いしむらけんぎょう)が三味線音楽興隆の祖と称されているように、三味線の考案・改良のみならず三味線音楽を芸術的に高めるべく楽曲を作成し、弟子へと伝授したことにより三味線が世に広まったため、地歌を始めとする三味線音楽の誕生に大きく貢献したものと考えられている。江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」を生んだ功績も大きく、「当道座」の盲人音楽専門家である検校らに非常に尊重され、この組歌を基本として「地唄」が大成された。
この「三味線組歌」は現在「本手(ほんで)」「本曲(ほんきょく)」等の通称で呼ばれ、本手組(7曲)と破手組(端手組)の総称となっている。本手組7曲は石村・虎沢検校の手により作られ、破手組14曲は虎沢・柳川検校により作られたと言われているが、現在の野川流三味線組歌の全32曲に定まるまでの伝承過程において、京都の柳川流・大阪の野川流の2つの三味線流派に分かれた。本手は、免許皆伝でも伝授されない秘曲とされ、かつて職格取得(プロ)のための必修曲であったが、音源として全曲残されているものの、生きた継承者は非常に少ないという。明治期の「当道座」の解体に伴って遠い存在となっていたが、秘曲としての格式を保ちつつ伝承され、現在は本手奨励会を組織して正確な伝承と普及のための活動を行っているという。
ちなみに古典であった本手組に対する新風であった破手組の奏法・テンポの緩急の自在さ等から「派手」という言葉が生まれたとも言われている。

さて話は地唄に入ろう。「地唄(じうた)」は近年「地歌」の表記が増えてきたようだが、意味が2つあり、俗謡や土地の伝承歌の意と、上で触れた江戸初期に発生した三味線声楽曲で、三味線の弾き歌いの形式を原則とする歌曲様式で上方歌・法師歌・京歌等の別称を持つ類のものである。これは江戸に対する上方(地元)の歌なので地唄と呼ばれて上方(関西)で愛好されたためで、江戸では上方唄(かみがたうた)と呼ばれていたことによる。地唄の発生は前述したように上方で三味線の誕生に伴って起こり、江戸時代初期、現存する最古の芸術的三味線楽曲「三味線組歌」が誕生した後はこれに倣い、盲人の琵琶法師達、主に職業盲人演奏家・当道座の検校らの手により独自の発達を遂げ、作曲・伝承され続けた。その中で能楽の題材・詞章を取り入れた「謡物(うたいもの)」、浄瑠璃の移入、滑稽な内容の「作物(さくもの)」等も作られ、江戸後期には地歌を代表する楽曲形式である、歌と歌の間に三味線のみの間奏部分を有する「手事物(てごともの)」という形式も生まれた。現在の分類によると前述の組歌・謡物・作物・手事物の他、新しい工夫を加えた「端唄物(はうたもの、本項端唄とは別)」・「語物(かたりもの)」・京物(きょうもの)等の多彩な内容となっており、上方舞の伴奏としても知られている(「日本物語-上方舞」参照)。
その後発生した箏曲(そうきょく)の中でも生田流と主に密接に関わりつつ座敷・家庭音楽などの室内音楽として発達し、一般庶民の間にも普及する。地唄から派生して歌舞伎等と結びついた長唄とは異なり劇場音楽の伴奏等の場所の制約もなく、純音楽的芸能として繊細かつ叙情的な美しさを有する芸術的側面を発展させ、三味線・声楽共に独特の芸を育んできた。元禄期(1688~1704年)頃から三味線と筝の合奏が盛んに行われるようになり多様な曲種を生む等、筝曲と地唄が次第入り混じり、結合した結果、今日にあっては筝の流派において地唄(三味線)はほぼ兼業する形になっているという。
江戸時代中期あたりから地唄三味線・筝曲・胡弓楽の総称として、又は3種の楽器の総称として「三曲(さんきょく)」という名称が用いられ始めたようで、主に地歌や筝曲が演奏されていた。江戸時代末期から尺八が参入し、現在三曲と呼ぶ場合は地唄三味線・箏曲・胡弓楽・尺八楽を総合した名称となっているようだ。地唄三味線と表記したが、三曲・箏曲・胡弓楽・尺八楽において地唄の三味線は「三弦(三絃)」と呼ばれている。これらの4種の楽器のうち、三種の楽器の合奏形態を「三曲(さんきょく)合奏」と呼んでいるが、近年尺八との合奏が多く行われるようになったためか、現在は三味線・筝・尺八の3種の楽器の合奏が一般的になっている。また現在は三味線・尺八等の合奏曲であっても「筝曲」と呼ぶことが多くなった。
地唄の三味線について少し触れておこうと思う。一口に三味線と言っても色々な大きさ・種類があり、「地唄三味線」と呼ばれるものは、中棹で一分五厘大の胴が多く用いられている。地唄駒・糸巻き・大きめの撥・犬皮張り等の説明に入ると止まらなくなってしまうので、おおまかな特徴だけ挙げておく。技巧が繊細で、左指を使って弦を複雑に奏でることにより繊細でデリケートなしっとりとした音色が特徴的である。琴と共に発展してきたことにより、当初は細棹も使用していたようだが音量を合わせて「中棹」で定着した。代表曲に「ゆき(雪)」「八千代獅子」「黒髪」「袖の露」等がある。
最後に、地唄の人間国宝について触れて次に移ろうと思う。人間国宝とは、国が指定する重要無形文化財のうち、ある技術を個人が有するもので、地唄の場合は人間国宝不在の状態である。生田流地歌箏曲で宮城道雄に学んだ「藤井久仁江(ふじいくにえ)」氏が2006年、地歌箏曲の第一人者で富筋流「富山清翁(とみやませいおう)」氏が2008年に亡くなって以来である。

「長唄(ながうた)」は江戸で歌舞伎舞踊(所作事)専用の伴奏音楽(地謡)として誕生し、発展した三味線音楽で、歌舞伎の初期の頃に存在した「踊歌」、元禄期(1688~1704年)頃に江戸に伝わった「上方長唄」の2つを母体として各種の音曲の曲節を摂取しつつ、享保年間(1716~1736年)、長編で物語性を有する「長唄」が誕生したという。17世紀初頭に起こった「お国歌舞伎」の頃は踊歌の伴奏音楽は能楽の4拍子のみであり、三味線が使用されるようになったのは1615年~1630年頃に最盛期となった「女歌舞伎(遊女歌舞伎)」の時である。1629年の遊女歌舞伎の禁止に続いて起こった「若衆歌舞伎」の時代、三味線の地位が主奏楽器として確立されるのに伴って今日と同じような基礎形態に整えられたというので、長唄は歌舞伎の歴史と密接に関わりつつ発展してきたと言える。「長唄」の名称が初めて登場するのは18世紀初頭のことで、それまで存在した上方長唄に対して「江戸長唄」とも呼ばれるが、本来的にはこれが正式名称である。上方の元禄歌舞伎の第一人者である初代・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始され流行したことを背景として、18世紀前半の享保年間、上方の初代・瀬川菊之丞、初代・中村富十郎らの名女形と長唄演奏者が江戸に進出し、和事特有の女性的な長唄が江戸にもたらされ、流行した。18世紀後半には、長唄に浄瑠璃を取り入れた「唄浄瑠璃(うたじょうるり)」が作曲家・唄方として名高い初世・富士田吉次によって創案された。唄浄瑠璃とは歌物(うたいもの)的傾向の強い浄瑠璃流派のことであり「座敷浄瑠璃」の別称の通り、室内音楽として楽しむものである。一中節の出であった富士田吉次により創始されたものであるが、河東節・一中節・宮薗節・新内節・常磐津節・清元節等、現存する義太夫節以外の諸流の総称となっている。明和期(1764~1771年)頃には豊後節系統での常磐津・富本の歌舞伎浄瑠璃(舞踊劇)が誕生し、それまで舞踊は女形の独断場であったが立役(男役)のための舞踊曲が数多く作られ、天明期には初代・中村仲蔵等の立役の名優が舞踊を演じるようになった。
長唄は分化・多様化しつつ人気を博すると共に曲風も多彩になって定着してゆき、19世紀前半辺りに全盛期となる。文化・文政期(1804~1829年)、早替わり等ケレン味ある演出に合わせた「変化物(へんげもの)」や豊後節浄瑠璃との「掛合物(かけあいもの)」が歌舞伎界に流行して全盛期になると、長唄も各々の舞踊に合わせた伴奏音楽として目立って内容の多様化が起こり、高い音楽的完成度を持つものとして大成し始めた。幕末~明治期にかけて、歌舞伎そのものを芸術的に高めようとの指向を反映して能・狂言の歌舞伎化が活発になるにつれ、長唄の守備範囲は益々広がり、また浄瑠璃流派の1つであった「大薩摩節」を吸収し、舞踊音楽として首位を占めるに至った。
同時に、歌舞伎や舞踊から離れ、大名屋敷・料亭等で演奏する「鑑賞用長唄(お座敷長唄)」が創始され、長唄は新しい局面への場が開かれることになり、本来は舞踊曲であり派手な芝居唄であったものが、庶民の習い事として浸透して劇場を離れ、室内楽として音楽の1ジャンルの地位を得た。20世紀初頭、四世・吉住小三郎と三世・杵屋六四郎(きねやろくしろう)が「長唄研精会」を創設し、定期的な演奏会を開催することで「鑑賞用長唄」を一般庶民に普及する働きかけを行い始めた。そうして長唄の長い歴史の中で謡曲・狂言・浄瑠璃・地歌・流行歌・民謡等の様々な種目が有する旋律・題材・曲節を吸収して発展した為、極めて多様性に富んでおり、現代、純邦楽の中で最も親しまれている音楽となっている。
次に長唄の音楽様式に触れておこう。
唄と三味線が同数で構成されるのが基本にあり、独吟から十挺十枚以上まで規模は変幻自在であり、小鼓・大鼓・太鼓・笛等の囃子を伴う場合もあるが、4挺(丁)4枚(三味線4人・唄4人)が定番である。一番小さくて軽い「細棹」三味線を用い、左指の技巧は他に比べると単純であるものの、右手(撥)の技巧は非常にテンポが速いのが特徴で、総じて淡泊で歯切れが良い。歌舞伎伴奏としては細棹は高い音色で繊細な音を出すため「勧進帳」「連獅子」等の舞踊要素の強い演目で演奏されることが多く、また囃子を伴うと賑やかで派手である。出囃子の場合、端にいる三味線は別の旋律である「替手(かえで)」、高く調律した「上調子(うわぢょうし)」を担当することもある。長唄は歌舞伎のBGM・伴奏・効果音を担当するので、黒御簾(くろみす、舞台上の専用の場所)で情景や情緒描写を行う重要な役割を持つため「黒御簾音楽」「下座音楽」と呼ばれている。歌舞伎舞台・演目への深い理解、役者の所作(演技)や舞踊の型などの熟知を要するため、鳴物・唄・三味線別々に「人間国宝」と呼ばれる国の重要無形文化財に指定される奏者が存在する。

「端唄(はうた)」は地歌(じうた)とも呼ばれる三味線小歌曲の1つで、小唄・うた沢・俗曲との区別が以前は明確でなかったため混同されることもあるが、現在、端唄は小唄・うた沢・俗曲に属さない「江戸端唄(えどはうた、江戸期の小曲)」のことと定義されている。端唄には「上方端唄」「江戸端唄」の2種類があり、一般にいう端唄は、「江戸端唄(えどはうた)」と呼ばれるもので、京阪地方で流行した「上方小唄(かみがたこうた)」が江戸に移入され、その影響下、江戸時代末期に江戸で流行した短篇の三味線歌曲、いわゆる江戸の流行唄のことである。上方・江戸いずれの端唄も、小唄との違いは三味線の弾き方にあり、小唄が爪弾き(つめびき)であるのに対し、端唄は撥を用いて華やかに演奏するものである。内容的には家庭音楽として伝承されたものと、酒宴席など外部で広く演奏された娯楽性の強いものとの2つに大別できる。江戸時代、流行歌として小曲が数多く歌われ、地方民謡の他に端物の唄が多く作られて流行したのだが、江戸末期の安政年間(1854~1859年)、それまでの端唄に品位を与え芸術的な歌曲として整えた「うた沢」が確立され、幕末から明治にかけて、うた沢の発生に続いて「江戸小唄」が誕生する。江戸小唄は清元の浄瑠璃(文楽)の新曲に多く挿入された端唄を、流行しやすいアップテンポで粋な曲調に改編したものであるが、後に単に「小唄」と呼ぶようになり、明治中期以後、一般庶民に流行したことは後に各々の項で触れることにする。一方の「上方端唄(かみがたはうた)」は地唄の中の端唄であり、平曲(へいきょく)を伝承していた当道座(とうどうざ)の盲人演奏家達の最上位である検校(けんぎょう)や勾当(こうとう)が、座敷で三味線を弾き語りするのが本来の姿で、彼らの研ぎ澄まされた聴覚により音曲が洗練され、芸術性が非常に高まり、繊細な音楽を作り上げた。三味線の爆発的流行とともに、身近な芸能として武家・町人階級を中心に一般に広く受け入れられるようになり、江戸にも移入されて上方唄と呼ばれ流行を見せるが、男性的な武家文化を尊ぶ江戸では次第に消滅したようだ。端唄は、小唄と同様に「中棹(ちゅうざお)」三味線を用い、曲調には特別な傾向・味を持たない素朴な素直さがあることが特徴とされ、主な曲目に「紀伊の国」「夕暮れ」「びんほつ」「さつまさ」等がある。

「小唄(こうた)」は江戸時代末期の安政年間(1854~1859年)、「うた沢」に続いて端歌から派生した三味線音楽の1つであり、現在小唄と言うと一般には室町小歌に対する「江戸小唄(えどこうた)」、早いテンポの「早間小唄(はやまこうた)」を指す。歌舞伎・日本舞踊の伴奏に用いられる長唄・義太夫節等に比べるとテンポが良く短い曲であることに特徴があり、三味線の伴奏に合わせて洒落・風刺・皮肉の効いた粋な歌が歌われる。誕生の背景としては、江戸末期の安政年間(1854~1859年)、前述の「江戸端唄」の愛好者であった旗本隠居・笹本笹丸らが、端唄に品格を付して芸術的歌曲として整えた「うた沢」を確立した頃、清元の浄瑠璃(文楽)の新曲に多く挿入された端唄を、流行しやすいアップテンポで粋な曲調に改編・洗練させた「江戸小唄」を誕生させた。当時の浄瑠璃は、家元しか曲を作ることが許されず、家元以外が作った場合、正式な作曲者名義は家元のものとされた為、作曲の才のある者は小唄を作るようになった。幕末~明治期、最初の動きが清元で起こり、後には単に「小唄」と呼ばれ、明治中期以後は一般庶民に流行し、明治時代後期に今日のような形になった。
小唄は「中棹(ちゅうざお)」三味線を用い、三味線のリードに合わせ、間に唄をはめ込むように歌うものであるが、声を極端に抑制する歌唱法には熟練の技術を要すと言われる。小唄の三味線は「撥(ばち)」を用いず爪弾き(つめびき)と呼ばれる指で直に演奏する手法のため、サビのある柔らかい音色が特徴であり、通人好みの渋味を持つ。
演奏形態は1人で弾き唄い(独吟)、又は「1丁1枚」「2丁1枚」と少人数であり、「2丁1枚」の場合は一人は「替手(かえで)」と呼ばれる別の旋律を演奏する。
次第に小唄人口は増加して、戦後小唄の愛好者が急増して盛んになり「小唄ブーム」と言われるほどにもなり、今日なお甚だ盛況であり現在では家元が数多く存在する人気ぶりである。しかし、手軽に披露できる宴会芸としても庶民的人気を誇る小唄の流行に押されて端唄・うた沢・都々逸などの俗曲が下火となってしまった背景には、家元制度が無かったため、芸の伝承がスムーズに行われなかったことなどが挙げられる。

「都々逸(どどいつ)」は江戸末期の天保年間(1830~1844年)、寄席音曲師・都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が江戸の寄席で流行させた7・7・7・5の4句を重ねる26文字の定型詩で「俗曲」の1つとされている。俗曲とは庶民的な唄を指す言葉で、端唄との明確な区分はないのだが、観賞用というより寄席芸能として扱う場合は「俗曲」の名称を用いるようだ。都々逸は主に寄席・座敷等で演じられ、風刺・粋・艶を有し、男女の恋情・四季・心境などを題材とした町人文芸であり、雅語を用いず口語で歌われるのだが、都々逸坊扇歌のお題頂戴の即興謎解き歌が大人気となったことで一般に知れ渡った。その後の都々逸はお題を与え、客が当意即妙に答えるという方式で普及したようだ。「度々逸」「都々一」等の表記もされており、その起源は文献によると、1800年に名古屋・熱田神宮の門前にある神戸(ごうど)町の宿場遊里の女中が歌い始めた調子の良い囃し詞の歌「神戸節(ごうどぶし)」が流行したものとされる。江戸・明和期(1764~1772年)頃に江戸で流行した「潮来節(いたこぶし)」を母体とした「よしこの節」に似た曲調のもので、地元で廃れた後に江戸・上方に流れて「名古屋節」と呼ばれたようだ。人情の機微に触れるような庶民感情を表現する内容が多いことで庶民に愛好され大きな支持を受け、また酒席での座興として歌われることも多かったという。古典都々逸は三味線に合わせて唄う流行歌の側面を有しており、戦前までは都々逸といえば芸者が座敷で三味線を弾き唄う余興の芸というのが主な認識で、明治期以降になって純粋に「文芸」「詩」の形態となったようだ。その背景として明治末期、「二十六文字詩運動」が新聞記者により起こり、彼らを撰者とした新聞の都々逸欄が評判となり、一時は「都々逸披露会」に毎回4、500人の来会者があるほど盛んであったという。その後、26文字の定型詩を「俚謡正調」「街歌(がいか)」と呼ぶ動きも出、結局のところ江戸調・明治調・都調・街歌調などの分類体系に収まった。有名なところで「立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は 百合の花」「ザンギリ頭を 叩いてみれば 文明開化の 音がする」等があるのだが、都々逸だとは知らずにも、意外と知られている唄が結構多い。都々逸の面白さを説明するよりも手っ取り早いと思うので、もう2、3紹介して終わろうと思う。「信州信濃の 新そぱよりも あたしゃあなたの そばがいい」「嫌いなお方の 親切よりも 好きなお方の 無理がよい」「わしとお前は 羽織の紐よ 固く結んで 胸に置く」「君は吉野の 千本桜 色香よいけど きが多い」

総論
近代の「唄」を本項では扱ってみたが、当時の江戸町民達が面白いと感じていたものは現代に至っても同様に面白い訳で、かなりの歳月を経た現代社会の我々は当時の庶民と何ら変わりがないように思われ、筆者は少々ガッカリなような、安心したような判然としない思いである。しかし、全体的に直球表現ではない部分で粋や風情を楽しむという感覚が現代社会では薄れてきているように思う。庶民が楽しむものは披露するまでに労を費やさずに即興でできるものに走りすぎて下積みがない、薄っぺらいものが増えた上、即興の当意即妙の面白さを披露できるような素地がない者が、単純な物真似芸で自己完結してしまって発展性がないように思われる。また新たなジャンルを開拓する発想も良いが、その前に素地を養い、伝統芸能の一つでも修得して世界を広げ、新ジャンルを開花させた方がより斬新なものが生み出せるのではないだろうか。歌舞伎の「世界」の発想と同様、鑑賞者側の我々にも共有できる文化的教養が世代交代に伴って失われつつある。単に素地と表現してしまったが、伝統芸能の類には先人の知恵や特有の趣・風情等、貴重な財産が多く眠っていることを忘れてはならず、またそれらは継承者が居なければ途絶えてしまうものも多いことを忘れてはならない。