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浄瑠璃節「義太夫節・常磐津節・清元節」

じょうるりぶし「ぎだゆうぶし・ときわずぶし・きよもとぶし」(雅楽・邦楽・浄瑠璃節・唄)


[浄瑠璃節「義太夫節・常磐津節・清元節」]
○○節と名が付くものがずらっと並んでいるが、浄瑠璃節以下いずれも浄瑠璃系統の流派の名前である。浄瑠璃系統の音曲とは日本の伝統音楽の1ジャンルであり、三味線を伴奏として語り手である浄瑠璃語り(太夫)が詞章を語り、人形を加えない流儀も多いが本来は操り人形が加わる、いわゆる人形浄瑠璃(文楽)の音楽である。その詞章は単なる歌ではなく、登場人物の台詞・仕草・演技の描写をも含むために語り口が叙事的な力強さを持っているため、浄瑠璃の口演は「歌う」ではなく「語る」という用語を用いており、一般的に浄瑠璃系統の音曲は「語り物(かたりもの)」と呼ばれている。太夫により節(ふし)の語り口が違ったため、演者の名前を付けて「○○節」と呼ばれるようになった。その起源から浄瑠璃の歴史を追ってゆこうと思う。

日本の声楽は「歌い物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」の2つに分けられ、そのうち語り物は、物語に節を付けて語り聞かせるものであり、最古のものは琵琶法師が琵琶の伴奏に合わせて平家物語を物語る「平曲(へいきょく)」だとされる。平曲は「雅楽」「声明」と琵琶を弾く盲目の僧体(僧門の出ではなく寺社に所属する賎民)が担った天台声明系の「盲僧琵琶」の影響を受けて成立したのち非常に流行し、徐々に題材を増やしてバラエティに富む語りになった。中でも特に人気を博したのは室町時代中期(15世紀末)に三河地方で誕生した「浄瑠璃」であり、本項の題目となっているものである。浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を題材とした御伽草子の一種「浄瑠璃姫十二段草子」から出たものであるが、曲節が愛好され、物語が違っても、その節回しは「浄瑠璃節」と呼ばれた。史実上初めて「浄瑠璃」の名が登場するのは1531年、小座頭に浄瑠璃を歌わせたと連歌師・宗長の日記に書いてあるそうなので、人形浄瑠璃として昇華するまでにはまだ百年ほど熟成期間があった訳である。この頃は扇・鼓での拍子取りや、琵琶の伴奏で語られていたようであるが、この後の16世紀中期、三味線が誕生して流行すると、琵琶法師たちは琵琶から三味線に持ち替え、浄瑠璃に使用し定着するのだが、浄瑠璃語りを「○○大夫」という芸名で呼ぶようになったのは、三味線と結び付いてからのようである。流行音楽は大衆の耳に留まり易かったため、この浄瑠璃が人形劇の地の音楽(地歌)となったのは自然の流れであったようだ。
三味線を浄瑠璃に用いるようになったのは慶長年間(1596~1614年)、沢住検校(さわずみけんぎょう)が最初だといわれる。沢住検校は室町末期~江戸初期、京都で活躍した琵琶法師であった。ちなみに検校とは中世・近世の盲官の最高位であり、音楽家として優れた者が多く、近世の邦楽の発展において大きな原動力となったという。琵琶に準じて撥を用いることが出来たために細かい技法が可能となり、三味線の演奏術は長足の進歩を遂げた。

「操り浄瑠璃(人形浄瑠璃)」の誕生は江戸時代初期のことであり、上方(京都)での上演は慶長19年(1614年)、京都御所で夷かきが「阿弥陀胸切」という浄瑠璃を見せたのが史実上初めてであると言われている。元々浄瑠璃は始めは京都、後に三都(江戸・京都・大阪)に流行した芸能である。江戸幕府の開府と共に江戸に流れ、その後の江戸中期にもなると大変盛んになり、数十もの江戸浄瑠璃の流派があったとの記録があるという。浄瑠璃節の開祖・滝野検校に弟子入りして節付けを修得し、繊細かつ柔らかい伝統的な京風の語り口の「杉山丹後掾(すぎやまたんごのじょう)」、と豪放な芸風の薩摩節の始祖・「薩摩浄雲(さつまじょううん)」が江戸浄瑠璃の開祖と言われている。江戸を中心に流行・発達した「金平浄瑠璃」と呼ばれる作品群は、歌舞伎の荒事(隈取・見得・六方等を特色とする豪快な演出)に大きな影響を与えた。
人気が高まると名人・上手が数多く誕生し、互いに芸を競うことで益々人気が集中するのは、いかなる芸能でも同様に起こるもので、浄瑠璃も例外ではなく江戸時代には多くの名手を排出し、各々が一派を興して派を競った。初期の頃は、江戸の金平節・土佐節、京都の加賀節、大阪の播磨節等、いわゆる古浄瑠璃が興隆したが、後に義太夫節が誕生すると浄瑠璃の異名とされるほどの大盛況となり、豊後節系統の常磐津節・清元節等の歌舞伎浄瑠璃や一中節・新内節等の唄浄瑠璃(座敷浄瑠璃)等の諸浄瑠璃流派が誕生する。浄瑠璃最盛期となる義太夫の興隆について少し掘り下げて見てゆくことにする。

江戸で流行中の金平物を得意とした大坂の播磨節の始祖・井上播磨掾の門下に清水理太夫と名乗る弟子がおり、理太夫は農家の出であったが播磨節を修得した後に京都の加賀節の始祖で当世の名人であった宇治嘉太夫(宇治加賀掾)に弟子入りし、硬軟両様の浄瑠璃語り(大夫)となった。大坂・道頓堀に竹本座が櫓揚げしたのを機に竹本義太夫と名を改め、「初代・竹本義太夫(たけもとぎだゆう)」が誕生した。生来の声質の豊かさと播磨節の豪快・明快な語り口に加え、三味線の竹沢権右衛門と組んだことで義太夫節を確立し、浄瑠璃史上記念すべき1686年、売れっこ作家・近松門左衛門作の「出世景淸」の竹本座上演を境に、浄瑠璃と言えば「義太夫節(ぎだゆうぶし)」と言われるほど一世を風靡し、それ以前の各派浄瑠璃は「古浄瑠璃」と呼ばれるようになったほどである。1701年、竹本筑後掾を名乗ることで名実ともに「義太夫節」の始祖となった。その後「曽根崎心中」の大成功と続き、没するまでの10年余りは近松門左衛門を座附作者に迎えることで人形浄瑠璃を舞台芸能として発展させ、浄瑠璃全盛期を第一人者として支えた。義太夫節は播磨節の語りを基本としつつ、他派の長所のみならず平曲・謡曲・説経節・祭文等を幅広く取り込んだことから表現が多彩であった。義太夫は自らの浄瑠璃を「当流」と呼び、語りの天才とも称され、現在も親しまれている名作を多く生みつつ絶大な人気を博した。近松門左衛門、竹本義太夫らが演劇の一様式として人形浄瑠璃を確立して以来、「文楽」として現在伝承されているのはこの流れである。歌舞伎を凌ぐほどの人気を博し、また歌舞伎に与えた影響は大きく、歌舞伎演目の多くが人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を「丸本」と称したため、移入された歌舞伎演目を「丸本物(まるほんもの)」と呼んでいる。

「時代物」と「世話物」という歌舞伎にも転用されている2つの分類体系も出来、その後「福内鬼外(ふくうちきがい、平賀源内)」が江戸で初めて人形浄瑠璃を上演して以来、「江戸浄瑠璃」が起こる。また19世紀後半、「文楽」の名の由来となった大阪「文楽座」が人形浄瑠璃の中心的劇場であった時代、人形浄瑠璃文楽という現在の正式名称となり、それから遅れて昭和期の1953年以降「太夫」としていた表記を「大夫」に改め、現在に至るわけだが、最高位の大夫「櫓下(やぐらした、紋下とも)」は、歌舞伎役者の第一人者・市川団十郎よりも芸事的地位は高いものとされる。最後の櫓下は、近代の名人と謳われ1967年に没した豊竹山城少掾(とよたけやましろのしょうじょう)で、人間国宝(重要無形文化財保持者)で文化功労者でもある。浄瑠璃語りが「太夫」から「大夫」となったのは彼の意図によるとされ、古典資料・故事の研究にも努力した人としても知られている。現在「文楽」は世界無形遺産・国の重要無形文化財に指定されている一派であり、人形浄瑠璃の代名詞ともなっている。

さて、ここから個々の浄瑠璃流派に触れてみようと思う。表題の義太夫節と常磐津節以外にも数多くの流派が存在し、あるいは存在していたので、それらも併せて触れて見ようと思うが、主として誕生地・派生流派等で分類されるようだ。

まず義太夫が誕生するまでの「古浄瑠璃(こじょうるり)」の流派をかいつまんでみることにする。杉山丹後掾と薩摩浄雲が興した江戸浄瑠璃は、その弟子達により多くの流派に分化し、江戸半太夫(半太夫節)・十寸見河東(河東節)・薩摩外記太夫(外記節)・大薩摩主膳太夫(大薩摩節)・都太夫一中(一中節)・竹本筑後掾(義太夫節)等を生んだ。以上のうち義太夫節以外の総称として「古浄瑠璃」と称する。

「金平節(きんぴらぶし)」  江戸で流行した「金平浄瑠璃」を指し、金平浄瑠璃の主人公である超人的な勇者「金平(公平)」から付いた名称で、大夫の名ではない。1655年頃から薩摩浄雲の高弟の江戸の和泉太夫(桜井丹波少掾)が作者・岡清兵衛と組んで金平の武勇談を豪快な曲風で語り出し、頂点に立ち、江戸を中心に爆発的ヒットとなった。特に技芸に優れ、人気があった者として大阪・井上播磨掾(播磨節)がいる。

「肥前節(ひぜんぶし)」  古浄瑠璃の一。杉山丹後掾(たんごのじょう)の子の杉山肥前掾(江戸肥前掾)が江戸で語ったもので、1665年頃に流行した。父・丹後掾を継いで堺町で興行して名人となるが、どんな曲節だったのかは明確ではない。門弟に半太夫節の祖・江戸半太夫(はんだゆう)がいる。

「半太夫節(はんだゆうぶし)」  江戸半太夫が始め、肥前節から続く江戸浄瑠璃を河東節へ繋ぐ役割を果たしたが、河東節の流行で衰え、現在ほとんど残っておらず、また初代~七代までの代々の半太夫についても動向が明確でない。説経節・歌祭文(うたさいもん)の名手であったが、江戸肥前掾(ひぜんのじょう)に弟子入りし、半太夫節の祖となり、座敷浄瑠璃で主として活躍した。門下に河東節の祖・江戸太夫河東(十寸見河東)がいる。

「播磨節(はりまぶし)」  1660年頃に井上播磨掾が語り始め、大阪で盛行した。江戸で流行していた「金平浄瑠璃」(金平節)を取り入れ、大阪で金平節の名人と言われたほどである。音声を使い分けた巧みな節回しと豪快・明快な語り口で、愁いと修羅を得意としており、初期の義太夫節の基礎ともなり浄瑠璃界に大きな影響を与えた。

「永閑節(えいかんぶし)」   江戸古浄瑠璃の1つで、虎屋永閑(とらやえいかん)が創始した。1670年頃から江戸・堺町で興行・活躍し、金平風の豪快な芸風であったようだが曲節は明確ではない。1680年には将軍の上覧にも供しているが、現在「寛闊一休」のみ地唄に伝えられている。

「文弥節(ぶんやぶし)」  大阪・難波浄瑠璃の1つで、1675年頃、岡本文弥が始めたもので「泣き節」といわれ、哀調を帯びた語りは京阪で流行したが間もなく衰えた。悲哀に満ちた節付けが上手く、霊験物・因果物等を多く語り、聴衆が大いに涙したという。義太夫・一中・豊後節の中にその節付けが僅かに残っていると言われる。

「外記節(げきぶし)」  江戸古浄瑠璃の1つで、薩摩外記(藤原直政)が1650年頃に語り始めたとされる。荒事風の豪快・痛快な語り口で人気を呼び、人形浄瑠璃、歌舞伎の荒事の双方に用いられ、正徳年間(1711~1716年)まで流行したという。衰滅してしまったため、現在は河東節・長唄の数曲中にその面影が伝わるのみである。

「角太夫節(かくたゆうぶし)」  京都の古浄瑠璃の1つで、山本角太夫(土佐掾)が語り出すが、哀婉な曲風で「うれい節」と呼ばれた。伊藤出羽掾の「出羽座」で修業し、文弥節にも学び、京都に出て虎屋(とらや)源太夫らにも学び、1670年代に京都で口演を始めた。からくりや糸操りを多用した芸風は、名人・宇治加賀掾(かがのじょう)と人気を分かつほどの盛況ぶりであったという。門弟に「治太夫節」の松本治太夫、「一中節」の都一中らがおり、曲節の一部は義太夫に取り入れられた。

「加賀節(かがぶし)」  京都の古浄瑠璃の1つで、「嘉太夫節(かだゆうぶし)」とも呼ばれる。1670年代に宇治嘉太夫が語り出したもので、謡曲・流行唄(はやりうた)の曲節を取り入れ、繊細で多彩な節を考案して人気を博した。芸論や節事に関する著述も多く、また義太夫節への影響が大きい。

以上は古浄瑠璃に入り、義太夫節成立以降は在来の各派浄瑠璃(古浄瑠璃)はすっかり衰退してしまったという。また全ての大夫が人形浄瑠璃舞台で活躍していた訳ではなく、今日の「素浄瑠璃」の形でお座敷芸として展開したり寄席で演奏したりする者もあったようだ。特に大阪では有力な町人衆の教養として浄瑠璃が定着していた時代が長く、また素人上がりの太夫も多くいたようで、いわゆるプロの大夫が素人の大夫に稽古を付けてもらう事もあったようだ。
現在、浄瑠璃音楽として残っているのは、義太夫・常磐津・清元、河東・一中・宮薗・荻江・新内・富本節の8つであり、全て国の重要無形文化財に認定されている。

「義太夫節(ぎだゆうぶし)」  浄瑠璃の代名詞であり、義太夫本人に「当流」と言わしめたほど最も大成した流派である。京阪では現存の浄瑠璃流派は義太夫節だけなので、浄瑠璃を義太夫節と呼ぶようだ。初代・竹本義太夫(別名・清水理太夫)が創始・大成させた。江戸時代後期、人形浄瑠璃から離れ、日本の伝統音楽の1つとして座敷・寄席などで純粋に音楽として盛んに演奏されるようになった。太棹三味線を用いた重厚で迫力ある演奏と併せて各場面の情景・雰囲気・登場人物の言葉・喜怒哀楽の心情等を語り、表現するものとなっている。歌舞伎では三大義太夫狂言「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」をはじめ、人形浄瑠璃から移入した「義太夫狂言」の音楽となっている。

「一中節(いっちゅうぶし)」  都太夫(みやこだゆう)一中を始祖とする浄瑠璃の1流派で、1690年頃に京都に始まり、先行諸浄瑠璃(古浄瑠璃)の妙を取り込みながら大成した。曲風は温雅な語り口で繊細な情感を表現する優雅なもので、常磐津・富本・清元・新内節等、諸浄瑠璃の母体となっている。歌舞伎にも用いられたが、同系統から分派した豊後節系統の流派に押され、舞台を離れ「素浄瑠璃」専門の芸態となった。初代の没後、京都で早くに廃れたため主に江戸で伝承され、江戸時代末期に再興して現在に至る。

「豊後節(ぶんごぶし)」  1720年代、一中節から分派した京都の国太夫節の始祖・都国太夫半中が宮古路豊後(豊後掾)と改名して興る。江戸に進出して「心中もの」で大流行したが、風紀上の理由で弾圧を受けたことより、狭義には一代で途絶えた。しかし他派への影響は大きく、常磐津節・富本節・清元節・新内節・薗八節・繁太夫節などの諸派が派生し、広義には総称して豊後節(「豊後諸流」とも)と呼ばれる。豊後節の子・孫・曾孫に当たる常磐津・富本・清元は「豊後三流」と呼ばれている。

「常磐津節(ときわずぶし)」  豊後節の分派として1747年に初代・常磐津文字太夫が江戸で開流したことに始まる江戸浄瑠璃の1つで、語り物である義太夫に近いが、歌い物の要素を加味した曲風で、中棹三味線を用いた重厚・軽妙を兼ね備えた音色である。艶麗さの反面、古浄瑠璃の名残の素朴で豪放な部分を持ち、更に歯切れの良い語り口を兼備え、主に江戸歌舞伎の舞踊劇の伴奏音楽として現在まで盛行している。成立当初は豊後節の芸風を残していたものの歌舞伎に相応しいものに変化・発展し、現在では歌舞伎の付随音楽として重要な位置を占める。

「清元節(きよもとぶし)」  江戸浄瑠璃の1つで、江戸時代後期の清元延寿太夫(豊後路清海太夫)を祖とし、常磐津節と同様に豊後節系の流派であり、成立は最後だったが江戸浄瑠璃の精髄とも言われている。裏声による大変高い音域を多用した繊細で情緒的・技巧的な語りは極めて派手・粋・軽妙で、洗練され過ぎた故に美しさと脆さを併せ持つ。富本と長唄から生じたことにより最も歌い物に近く、常磐津節と同じ中棹三味線を用いるが、豪壮さが全くなく、「歌」の要素が濃厚である。主に歌舞伎の伴奏音楽として発展したが、純粋な音楽として「素浄瑠璃」の作品もある。

「新内節(しんないぶし)」  江戸浄瑠璃の1つで、江戸中期の1755年頃、鶴賀若狭掾(鶴賀新内)が創始した常磐津節と同じ豊後節系の流派である。クドキ・ウレイと呼ばれる哀婉な曲節と、美声で人気を博した鶴賀新内(つるがしんない)から名が付いており、心中物を得意とし、独特の情緒を有する流派である。座敷で語る「素浄瑠璃」として発展した後、遊郭の流し芸「新内流し(夏の夜、新内を語って町を流して歩く)」も発生した。

「河東節(かとうぶし)」  代表的な江戸浄瑠璃の1つで、江戸中期の享保年間(1716~1736年)、江戸半太夫(えどはんだゆう)門下の江戸太夫河東が「十寸見河東(ますみかとう)」を名乗り、半太夫節から分派して創始した。三味線音楽の1つ「古曲」に含まれ、曲風は優美な反面渋さを持ち、生粋の江戸風であり、細棹三味線を用いた語り口は豪快でさっぱりしている。初期には歌舞伎音楽として庶民に広く愛されたが、後に歌舞伎の人気浄瑠璃に押されて地位を奪われ、主に座敷での「素浄瑠璃」として人気となり庶民に浸透した。「助六由縁江戸桜」は現在も歌舞伎で演奏される名曲だが、基本的に演奏時間が短い「端物」が中心である。河東節の曲想は、後に江戸の山田流箏曲に影響を与えている。

「荻江節(おぎえぶし)」  江戸中期、市村座の長唄唄方であった初代・荻江露友(おぎえろゆう)が、劇場引退後に遊郭で演奏活動を再開し、長唄を座敷唄風に歌い始めたのが始まりとされる。長唄をベースに生まれ、座敷唄として工夫・洗練され独自のものとして確立し、吉原の男芸者によって継承され、幕末には地唄をも取り入れた。明治中期以降は女流により今日まで継承されている。長唄が派手で囃子を伴うのに対し、荻江節は控え目で、囃子を用いないのが原則であり、三味線も複雑な技巧を避けて唄の伴奏として存在する。大正時代以降は一中節・河東節・宮薗節と合わせて古曲と呼ばれる三味線音楽である。

「宮薗節(みやぞのぶし)」  江戸中期、京都で初代・宮古路薗八(みやこじそのはち)が語り始めたものを2世・薗八が1766年に初世・宮薗鸞鳳軒(みやぞのらんぼうけん)と名を改めて継承・大成させた。上方では劇場での出語り等で活躍していたが、2世薗八没後は衰亡し、江戸では3世薗八・宮薗春太夫が広め、三味線方であった初世・宮薗千之が継承した。同系の常磐津節等と比べると中棹三味線は重厚で渋く地歌のような音色、語りは情緒纏綿で艶麗な曲節が特にしめやかであるという。後に千之派と千寿派に分かれたが、いずれも古曲を基本に伝承して現在に至っているものの、現在わずか10曲伝えられるのみである。

「富本節(とみもとぶし)」  常磐津文字太夫の門弟・富本豊前掾が創始した流派で、常盤津・清元の中間として艶麗・古雅を共存させ、当時大流行を見たが、やはり中間的であるが故に独自性が発揮できず、現代ほぼ滅亡寸前の状態である。寂びた風情は捨て難く再興の動きもあるが、全盛を極めた頃の富本は再現できないと言われている。豊後系浄瑠璃の中でも常盤津・富本・清元の三浄瑠璃は血のつながりの最も濃い間柄であり、豊後三流とも呼ばれる。

総論
浄瑠璃節と義太夫節、今では義太夫節の方が認知度も高いのかもしれない。それほど竹本義太夫・近松門左衛門の功績は大きく、義太夫と言えば人形浄瑠璃としてよりもむしろ歌舞伎音楽としての知名度が高いほど、芸術的に高められ、芸能として大成した訳である。浄瑠璃の語源は先に触れたように「浄瑠璃姫」から来ており、その名の由来は仏教用語の「極楽浄土」のように美しく清澄な娘ということらしい。浄瑠璃は「浄瑠璃姫」物語を離れて人形浄瑠璃全般の名称となり、後に歌舞伎に移入されて、歌舞伎音楽の名称となった。芸能とともに姿を変えつつ、しかし名称だけは現在も生きており、愛されているというのは何とも不思議な感じがする。長い時代を生き抜いた「浄瑠璃」は、日本の伝統芸能として、その名のとおり美しく、清澄な三味線の音色に昇華した。