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わらべうた・童謡・唱歌・子守歌

わらべうた・どうよう・しょうか・こもりうた(雅楽・邦楽・浄瑠璃節・唄)


[わらべうた・童謡・唱歌・子守歌]
表題の「童歌・童謡・唱歌・子守歌」の違いはご存知だろうか。いずれも子供向けの歌であり、歌の目的として子守歌は他と異質であることがすぐに分かるだろう。しかし他の3つ、筆者から見るとどこに線引きがあるのか判別し難く、唱歌は若干新しい響きであるように感じる。まずこの違いについて触れた後で、各々の項目に入ろうと思う。

童謡という語が歴史上初見されるのは奈良時代に成立した「日本書紀」の中だというのだが、当初は童謡という語は現在言われる「子供の歌」を意味しておらず、近世以降になって現在と同じような意義付けがなされたようだ。古来日本では、子供の歌と言えばいわゆる「童歌(わらべうた)」を指していた。例えば「ねんねんころりよ…」の歌詞で有名な「子守歌」は、江戸時代頃から歌い継いできたとされるし、手遊び歌や数え歌など、子供が遊びながら歌うものの総称と定義付けられている。こうした伝承が伴う全ての歌は民謡のジャンルにも入るようであるが、歌を入れる箱の違いで呼び方が変えられてきたということにもなる。どうやら今、子守歌のジャンルに入っているものも、当時は童歌ともされていたようなので、厳密にいえば「わらべうた」は今日の童歌と子守歌を包含していたようだ。その後の明治初期、明治維新によって西洋の近代音楽が紹介されて日本に伝わると、学校教育用として多くの「唱歌(正式には文部省唱歌)」が作られ、そして大正時代後期以降、子供が歌うことを前提として創作された歌を「童謡」と呼ぶことにした訳である。歴史的に古いのが「子守歌」「童歌」、最も新しいのが「童謡」ということになるが、以下、各々の定義と歴史について触れてみることにする。

「童歌(わらべうた)」とは昔から子供により歌い継がれてきた、子供が遊びながら歌う歌であると定義される。親から子へと伝えられた口承遊びで、数え歌・唱え歌等、言葉・数字・行事等の導入を遊びながら学べる類も多い。ペンタトニック(五音音階)等の平素なメロディと単純なリズムで、古くから一般庶民の子供たちによって伝承されてきた歌であり、民謡の一種とみなす分類もある。大正時代に誕生した「創作童謡(いわゆる童謡)」と区別するため、わらべうたを「伝承童謡」、文学詩人の創作によるものを「文学童謡」と呼び分けるようになったようだ。室町時代以降、主として徳川期から明治末期にかけて発生・流行したものが多く、ほとんど作成年代や核となった地域等が明確でなく、誰が作ったのか分からない謎の歌ばかりで、流行り・廃りがあるという。従って中には時代の流れとともに衰退していったものもあるし、今でも変わらずに人々に愛され、歌い継がれているものもある。中には労働者の間から自然発生したような労働歌の類もあるという。
わらべうたの集大成として北原白秋と弟子らが著した「日本伝承童謡集成」という書籍がある。あらゆる方法で日本全国のわらべうたを蒐集し、昭和22年~25年に成立させた書だというのだが、その分類は子守唄・遊戯唄・天体気象/動植物唄・歳事唄・雑謡とあるので、どのような子守歌か分からないが、当時の白秋が子守歌もわらべうたのジャンルとして扱ったことは興味深い。
さて最後に、音楽的立場から「わらべうた」を考察してみよう。明治以前から伝わるとされる童歌や民謡の中でも「陽旋法(ようせんぽう、日本の伝統的な音階のうち田舎節(いなかぶし)と呼ばれる俗楽の音階)」のものは、全て「ヨナ抜き長音階(ドレミの音階からファ・シを除いたもの)」と同じ音程を使う。教科書掲載の「どじょっこふなっこ」の元歌である東北のわらべうた「どじょっこふなっこ」等がこれに該当するらしい。なお明治維新以前の古い童歌は、西洋音楽の影響を受けていないため「ド」で終わるという考え方がないので、ラ(陽音階)かレ(律音階)で終わる曲が多いといわれる。現在まで歌い継がれている古いわらべうたがいずれも侘しいような独特の響きを持つのは、これらの音階の違いによるところが多いので、聞き比べて見ると面白いだろう。

「童謡(どうよう)」とは、大正時代後期以降、子供に歌われることを目的に作られた創作歌曲の総称で、子供向けに大人が作った歌と定義される。子供たちに芸術的価値のある歌・物語を提供することを目的として、大正7年、鈴木三重吉(すずきみえきち)が創刊した児童雑誌「赤い鳥」に掲載されて多くの童謡が誕生した。成田為三が作曲した「かなりや」が日本で最初の童謡とされ、北原白秋・西条八十・野口雨情らの詩に、成田為三・山田耕筰・中山晋平らの作曲家たちが曲をつけ、現在も数多くの歌が歌い継がれている。この児童文学の潮流の発端は、子供の視点で心情を描き、子どもたち子供たち自ら楽し童謡・童話を子供たちに与えたいという鈴木三重吉の思いにあった。当時一流の作家らの賛同を得、童謡・児童文学運動が興隆したことにより、「赤い鳥」の後に続いて「金の舟」「コドモノクニ」など多くの児童文学雑誌が出版され、最盛期には数十種にも上ったという。この時期、優れた童話作家、童謡作家、童謡作曲家、童画家らも世に輩出し、児童尊重の教育運動が高まっていた教育界にも大きな反響を呼んだ。「赤い鳥」は近代児童文学・児童音楽の創世期に最も重要な影響を与えたとされ、鈴木三重吉は日本の児童文化運動の父と呼ばれている。
もう一つ、上の童謡の定義に入らないが日本国外の子供向け歌曲を「童謡」と呼んでいるので、外国から来た童謡について少し触れておきたい。日本に伝わり、日本語の歌詞が付けられ、長く日本に馴染み人々に愛されている類のものとして「ロンドン橋」「ドナドナ」「アビニヨンの橋の上で」「線路は続くよどこまでも」等がある。「ロンドン橋」などは「ロンドン橋落ちる~」と二人の子供がアーチを作って他の子がその下を次々にくぐり抜ける遊び歌として日本でも愛されているのだが、「落ちたよ」と歌い終わった時に捕まる子供は、橋を作る時の人柱として選ばれたという意味を本来持っているという。イギリスでは17世紀頃から歌い継がれているというが、もちろん遊び歌で子供の人柱が立てられた訳ではなく大人の話を聞いて子供が遊びにしたのだろうけれど、子供の歌は概して意味深なものが多いので、素直に笑えないのも悲しいものである。

「唱歌(しょうか)」は、学校の音楽の時間に教わる歌、というのが一般的な定義ではないだろうか。明治維新以降、主に小中学校等の音楽教育の為に作られた歌を指し、1872年の学制発布後の1881年から3年を費やし唱歌の時間の教科書が3冊にまとめられて誕生したことに始まる。明治政府が近代国家形成のために最重視した「学制」の一環として作られた経緯から、日本国家としての意向を色濃く反映し、徳育・情操教育を目的として文語体で書かれたものや日本の風景・風俗・訓話などを歌ったものが多く、日本民族・天皇・家夫長制道徳賛美や軍歌等が数多く採用されている。よって現在も愛唱されている唱歌には、本来の意味を意図的に隠して文部省唱歌として採用されているものも多く、また欧米で広く親しまれている民族歌謡や賛美歌等を焼き直したものも多い。
「唱歌」という語の起源は、学制で小学校の授業の1科目として「唱歌科」が設けられたことに始まり、学校の音楽の授業のことを「唱歌」と呼ぶようになり、更に授業で使われる教科書も「唱歌」と呼ばれるようになった。このように戦前まで小学校の教科の名称の1つであったが、その唱歌の時間に歌われた曲の多くが戦後の教科書に引き継がれ、今日まで「文部省唱歌」として用いられ続けてきたのである。ちなみに明治43年に文部省唱歌が制定される前は「小学唱歌集」「児童唱歌」「ヱホンシャウカ」など民間発行の唱歌集が使用されており、この文部省制定の「小学唱歌集初編」「小学唱歌集第二編」「小学唱歌集第三編」の3冊が、日本初の官製の音楽教科書である。
この「文部省唱歌」は、当初作曲者名を挙げず「文部省著作」とだけ記されていたために「文部省唱歌」と一般に呼ばれるようになったため、公的な正式名称ではない。よって正式には、1911年、学年別に編集された「尋常小学唱歌」、1932年に全面改訂した「新訂尋常小学唱歌」などと名称を変え、1941年まで長く授業で用いられた。また「蛍の光」「むすんでひらいて」「庭の千草」等、日本の歌と思われがちな代表的な唱歌の故郷はスコットランドやアイルランド、スペインなど、様々な国であり、唱歌の多くが外国曲だった。初の音楽教科書に採用された最初の3曲は「見わたせば(フランスの哲学者ルソー作)」「蛍の光(スコットランド民謡)」「喋々(スペイン民謡)」であり、日本の伝統的な歌が1つも入っていないことからも当時の世情が伺える。
その後、音楽教科書なのに子供にとって意味が取りずらいような難解な歌が多いのは教育的にどうか、と疑問を呈したのが鈴木三重吉であり、先述した童謡の中の「童謡運動」に繋がっていった。また当初、唱歌は戦意高揚の目的で軍事的にも利用されたが、戦後は戦争を肯定するような内容の歌は削除され、日本人の心象を描いたもの、多くの人々に愛唱されるものへと移行していった。例えば「蛍の光」の歌詞は現在2番までしか知られていないが、本来は4番まであり、晴れ着姿の学生達の歌ではなく、当時日本の生命線を守るべく出兵する兵士の為の歌である。文部省唱歌が誕生した社会的背景を考えると、教育そのものに支配階級側の社会思想(イデオロギー)の影響が強く、国民の思想に強い方向付けをなしていることが見てとれる。
ところで「唱歌」には2通りの意味・読みがあることをご存知だろうか。雑学程度に触れておくが、本項で採り上げた「唱歌(しょうか)」とは別に「唱歌(しょうが)」が存在し、こちらは雅楽・祭囃子等で音階を覚えるための歌の一種を指す。楽器で演奏する前に「唱歌(しょうが)」として曲を暗記し、メロディーで奏でるものらしい。
最後に音楽的立場から「唱歌」を考察して次に移りたい。唱歌には「ふるさと」「朧月夜」「村祭り」など、日本的なイメージが強いにも関わらず「洋音階」のものが多く、わらべうたに見られるような「ヨナ抜き音階」のものでもドで終止している、というのも、文部省唱歌は明治維新後、文部省の監督の下で西洋音楽の理論で作られたために長調の曲は全てドで終止しているらしい。中でも「ふるさと」「朧月夜」は、3拍子の曲で曲想はあまり日本的ではないが、歌詞が日本人の心に合っているようで1世紀余り経た今でも変わらず愛唱されている。

さて次は「子守歌」であるが、子供が生まれてから一番最初に耳にすると思われるものであり、世界中に様々なものが歌い継がれている。その継承手段は極めて単純明快、記憶を頼りに親が幼少の頃歌ってくれたものを我が子に歌って聞かせて歌い継がれる…と現代の生活からは想像してしまうのだが、日本の子守歌は大別して3つあり、それこそが邦楽のどのジャンルに入るか一概には言えない複雑な部分でもある。以下、3つの違いが分かりやすいように紹介してみる。
まず最も一般的な子守歌が、子どもを寝かせるための 「寝かせ歌」であり、世界的に広がりを見せる子守歌でもある。親に抱擁されながら親子が互いの絆を確かめる歌であり、自分では歌を歌えない幼児のための歌であり、生まれて初めて覚える歌である。恐らく即興で歌い出したような子守歌は無数に存在するのだろうが、最も有名なものが「江戸子守唄(えどこもりうた)」である。
「江戸子守唄」は「ねんねんころりよおころりよ」で始まる最も伝統的な子守唄で、日本の子守歌の起源であるという。江戸時代・文化文政期以前の成立と見られ、原曲は1820年に編纂された行智の童謡集に見ることができる。江戸で誕生して各地に伝えられたとされる歴史の長い歌で、「ねんねん」の囃子詞が仏教の「念念」から来ている等の見方から、和讃(仏教の声明の一つ)の形式を採り入れた歌とも言われるが定かではない。

「遊ばせ歌」は寝かせ歌同様、世界的に広がりを見せる子守歌であり、わらべうたや民謡のジャンルにも入る。眠らせるより目覚めさせておくような月齢の子供を手遊びなどで遊ばせたり、動植物を取り込んだり、物語を挟んだり、知恵付けを試みたりする。わらべうたとして成長した子供たち自らが歌うものもある。また親のみならず子守をする周囲の人々-祖父母等に伝承者が多いのが遊ばせ歌の特徴だという。

「守子歌」は子守奉公に行った守子たちが歌ったもので、口説き歌、嘆き歌等とも呼ばれる日本独特の子守歌で民謡のジャンルにも入るようだ。子供に歌ってあげるための歌ではなく、幼くして故郷を離れた子守娘ら自らが慰めに独り歌った子守歌であり、歌詞・曲調共に暗く、世間を辛辣に皮肉り、恨みを吐き出すものなども散見されるので「寝かせ歌」「遊ばせ歌」とは歌詞内容もかなり違っている。子どもが子守として労働するようになったのは16世紀末頃からのようで、守子歌は江戸末期から明治時代にかけて数多く作られたという。戦後役目を終えた歌というのも、子守奉公が当時独特の環境下にあり、戦後その存在が消えていったことが歌の発生・消失の背景にある。
日本人が好きな歌ベスト3に入る「赤とんぼ」(作詞・三木露風、作曲・山田耕筰)は、この子守奉公の女の子を歌ったものだという。身近なところに守子歌はあるかも知れないので、年配の方に聞いてみると面白いかもしれない。

日本の伝統的な子守唄に歌われている世界は封建時代の暗い部分が陰を落とし、短調で悲哀に満ちた節が多い。「ブラームスの子守唄」「シューベルトの子守唄」など世界で歌われている子守唄は、中産階級の豊かで幸福な家庭での子守唄であり、親が子を優しく寝かしつける歌であるのに比べ、日本の子守歌は子供が眠れなくなりそうな曲調である。そんな悲哀を帯びる日本の歴史を歌い込んだ有名な子守歌を少し紹介したい。教科書には載らないものも多いので、次世代に是非伝えていかねばと思う。

「五木の子守唄」  山村の厳しい生活の中から生まれたもので、熊本県民謡で球磨郡五木村に伝わる子守り奉公をする娘たちの嘆きの歌「守子歌」に入る。戦後の農地改革まで、地主である「だんな衆」以外、大半が「名子(なご)」と呼ばれる小作人であり、地主から山・土地を借りて細々と焼畑や林業を営んでの生活は大変厳しく、子供は7歳余りで食い扶ち減らしのために奉公に出されたものの給金はなく食事の支給のみの状態で働いていたようだ。五木の子守歌には正調が一つではないとも言われ、様々な歌詞が存在するようだが、概して「おどまいやいや 泣く子の守りにゃ 泣くといわれて 憎まれる」のフレーズが入り、子守奉公生活の悲しく辛いことを詠んだ歌詞が最後まで続く。

「島原の子守り歌」  宮崎康平が作詞・作曲した長崎県島原・天草地方を詠んだ子守歌であり、1957年に発表・レコード化した戦後の創作子守唄で歴史は浅い。「おどみゃ島原の…」で始まり、貧しさ故に異国へ売られた娘達を哀れむ一方、少数ながら成功して帰る「からゆきさん」を羨む貧しい農家の娘の心を描写している。植民地の外国人相手の売春婦として密出国させられ過酷な運命に遭った「からゆきさん」は当時20万人に上ったとも言われ、その歴史の真実味を如実に物語り、今に伝える歌である。

「竹田の子守歌」  京都・大阪にある複数の被差別部落に伝わる子守歌であり、守子歌である。脚光を浴びるのは尾上和彦が京都・竹田地区で老婆の歌を採譜し、フォークグループ「赤い鳥」の後藤悦治郎が1969年に歌ったことによる。当時、レコードが百万枚余り売れて全国的に知られるようになった大ヒット曲であり、以来放送禁止歌とされ封印された時期もあったが、近年再び脚光を浴びてカバーされている。「復興節」「ヨイトマケの唄」と同様、秀逸な歌でも、歌詞に何ら引っかかる部分があったために放送自粛・放送禁止になった歌も多く存在するが、子守歌などの伝承歌謡に対してナンセンスこの上ない気がする。

なお有名な日本の歌「さくらさくら」は童謡のジャンルに入らず、児童の演奏・鑑賞を目的として作曲された曲「童曲」、あるいは「日本古謡」というジャンルに入る。原曲は江戸時代、「咲いた桜」という筝の手ほどき曲・入門用の曲であり、宮城道雄が作曲した「さくら変奏曲」が有名であるが、明治21年に出版された「筝曲集」の中で「桜」として現行の歌詞「桜さくら弥生の空は…」が付された。後の昭和16年、「さくらさくら」と題名で「さくらさくら野山も里も…」の歌詞が付されて小学校の教科書に掲載されるようになった。ちなみに筝曲「咲いた桜」の歌詞は「咲いた桜花見て戻る…」だったので、3通りの歌詞(厳密に言うとそれ以上)が付された経緯を持つ。ちなみに現行の教科書では、小学校では「野山も里も」、中学校では「弥生の空は」と2通り掲載されているというので、ご自分の歌がいずれか、口ずさんでみたらよいだろう。

以下、大正時代に起こる童謡運動の中心にあった作詞家・作曲家を主に取り上げ、日本の童謡界に名を残す人物像に触れてゆこうと思う。

北原白秋(きたはらはくしゅう)  「雨降りお月」「ペチカ」「揺籠(ゆりかご)のうた」等を作った童謡詩人・詩人・歌人であるが、むしろ「明星」「スバル」などに短歌・詩を発表した歌人として有名である。野口雨情・西條八十と並び大正期を代表する三大童謡詩人と称された。鈴木三重吉の「赤い鳥」の童謡面を担当したことから、創作童謡に新分野を開拓した。代表作に歌集「雲母集」、童謡集「からたちの花」等がある。

西條八十(さいじょうやそ)  「かなりや」「かくれんぼ」等の多くの童謡を発表し、北原白秋・野口雨情と並び大正期を代表する三大童謡詩人と称された。童謡のみならず象徴詩の詩人として、「青い山脈」「東京行進曲」等の歌謡曲の作詞家としても活躍し、数多くのヒット曲を生み出した。

野口雨情(のぐちうじょう)  「七つの子」「赤い靴」「しゃぼん玉」等数多く作詞した童謡詩人で、童謡の他にも日本・樺太・朝鮮・満州・台湾と幅広く地方民謡を作った。北原白秋、西條八十と並び三大童謡詩人と呼ばれており、児童文化運動の流れに乗って児童雑誌に童謡の発表をし、作曲家・本居長世、中山晋平、藤井清水等が雨情の試作に曲譜を付けたこともあって、現在も愛される有名な曲を数多く生み出した。63歳で亡くなるまでに2千余編もの詩を残した。

高野辰之(たかのたつゆき)  作曲家・岡野貞一と組み「春が来た」「故郷」「日の丸の旗」「紅葉」「春の小川」「朧月夜」等を生んだ作詞家で、歴史的な国語・国文学者でもある。現在も愛唱されているこれらの歌には故郷を想う優しさが込められ、歌に触れた者に親しみと叙情への深い共感が湧く名曲ばかりである。

岡野貞一(おかのていいち)  作詞家・高野辰之と組み「故郷」「朧月夜」等を作った作曲家で、音楽教育の発展に大きく貢献する一方で熱心なクリスチャンでもあった。40年間教会で毎日曜に礼拝のオルガンを弾き、聖歌隊の指導を続けるなど信心深く誠実な人格者であったという。63歳で亡くなるまでに市歌や校歌等、心に残る美しい歌を数多く残した。

中山晋平(なかやましんぺい)  野口雨情らと共に「しゃぼん玉」「背くらべ」「てるてる坊主」等の童謡を作った作曲家で、日本の民謡を研究した人。島村抱月の書生になり芸術座の旗揚げに参加し、劇中歌「カチューシャの唄」「ゴンドラの唄」を発表して人気を博し、全国的に名を知られるようになった。「波浮の港」「出船の港」「東京行進曲」など多くのヒット曲を手がけ、日本の大衆歌謡に大きな影響を与えた作曲家である。

清水かつら(しみずかつら)  「叱られて」「靴が鳴る」「雀の学校」等の童謡を作った童謡詩人で、関東大震災により埼玉県和光市に避難した後、53歳で亡くなるまで過ごした。生涯を過ごした武蔵野の自然と、子供達の純真さをこの上なく愛し、両親が離婚したため4歳で実母と離別した経験より、実母を慕う心や寂しさ等、彼の人柄を映した数々の童謡は、現在も変わらず愛唱されている。

総論
親が子に歌って聞かせる時に選ぶ歌はどんな歌だろう。子供が喜ぶ歌、子供に知ってもらいたい歌(一般的に言われる良い歌)、子供のためになる歌(数え歌や道徳的なもの)…色々基準はあるかも知れない。でも歌を子供のために作るとしたらどうだろう?赤ちゃんに作るなら愛情溢れる優しい歌、幼児なら身近な題材で面白い歌や子供が喜ぶ歌、小中学生だったら?少し難しい気もするが、旋律が美しいような音楽的な歌とか、心情や風光を詠んだ歌といったところか。親の意図がそのまま出た歌になるかもしれないが、それは自分の家庭の話だから許される。童謡のところで「支配階級側の社会思想(イデオロギー)」の影響に触れたが、軍国主義にあり、西洋化に焦る日本が推奨した歌は無論、そのような歌になって当然かと思う。しかし戦後長い年月が過ぎ、修正(部分的削除)はあったにしろ、そうした色の強い歌が残され、訳の分からぬ理由により教科書から消えた歌が多数存在することを注記して、本項を終えたいと思う。訳の分らぬ理由とは、全国の市町村合併で村が消えた県があるから「村」が付く歌はダメとか、「汽車」は存在しないからとか、「狸」と和尚が一緒に演奏するのは良くないとか、そんなレベルである。それ以上に大切なものと筆者が考える歌の心や歴史的価値・背景などを吟味され、文部省唱歌を見直したらどうかと思う。