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漆器・陶芸・織物「振袖・着物」

しっき・とうげい・おりもの「ふりそで・きもの」(工芸・芸道・美術)


[漆器・陶芸・織物「振袖・着物」]
本項は、漆器、陶芸、織物(振袖・着物)を各項目ごとに簡単にまとめてみた。

「漆器」

“漆”は、辞書によれば「ウルシ科の落葉高木の樹液のことで、採取したままのものを生漆(きうるし)といい、成分の80パーセントはウルシオール。これを加温して水分を除き顔料などを加えたものを製漆(せいうるし)といい、塗料として用いる。」とある。漆器は今日では人々の生活に深く溶け込み、上質な日常器具として位置付けられている。[漆の歴史]日本で最も古い漆器具は縄文時代前期(約5,500年前)のもので、福井県三方郡三方町の「鳥浜貝塚遺跡」から漆を塗った土器や木器の断片が出土した。縄文時代後期になると、是川遺跡や亀ヶ岡遺跡(ともに青森県)から椀・鉢・装身具や装飾太刀・弓など各種用途の漆製品が出土し、竹を編んで黒漆や赤漆を塗った“籃胎漆器もこの時代に出現した。その後、布を貼り重ねて漆を塗る“夾紵(きょうちょ)”の技法が中国から伝わると漆工芸技術は飛躍的に発展して金属や皮も素地に用いるようになった。蒔絵のもととなったとみられる“末金鏤(まっきんる)”の技法の伝来もこのころだといわれるが、この時代を代表する「法隆寺の玉虫厨子」は発掘による出土品以外では日本最古の漆工芸品である。平安時代に入ると日本的で優雅な文化が興隆して研出蒔絵や平蒔絵、螺鈿などの技法が発達し、鎌倉時代には朱漆が普及して寺社を中心に什器に用いられるようになった。室町時代から戦国時代にかけては、中国の沈金や彫漆を取り入れた作品が出現し、また、漆器が日本を訪れた宣教師や船員の手によって海外にも紹介されると、漆は「ジャパン」と呼ばれて輸出されるようになった。漆器生産が盛んになったのは江戸時代のことだが、幕府や各藩がこぞって漆工芸を奨励したことから本阿弥光悦や尾形光琳などの手による、今日に残る絢爛豪華で優れた工芸品が数多く作られた。[漆の性質]ウルシノキの分泌液には、水分のほかにウルシオール、ラッカーゼ、ゴム質などが含まれているが、主成分は天然のフェニール基をもったウルシオールである。粘液質の樹液が時間の経過によって固形化するのは、酸化酵素の一種であるラッカーゼが空気中の酸素を吸収するためにウルシオールが酸化作用を起すもの。漆は摂氏20度~25度、湿度75%~85%でラッカーゼが最も活発に働いて最良の皮膜が得られるという。[塗料]漆の特徴は極薄の皮膜を作ることができることと、乾燥すると強い接着力が生まれることである。そのために漆は塗料として優れた特性を有し、漆塗りを施したものは見た目が美しいだけでなく、酸やアルカリ、塩分やアルコールなどによる侵食に強く、漆の薄い膜が素地をしっかり保護するのだという。漆のもう一つの特徴として知られているのが「漆かぶれ」である。過敏に反応する人はウルシノキの下を歩いただけで皮膚にかぶれを起すこともあるというが、原因はまだ乾ききっていないウルシオールのせいである。[漆器の産地]全国各地に散在する産地のうち、「伝統的工芸品」の指定を受けた産地は次の22か所である。津軽塗(青森県)、秀衡塗(岩手県)、浄法寺塗(岩手県)、鳴子漆器(宮城県)、川連漆器(秋田県)、会津塗(福島県)、鎌倉彫(神奈川県)、小田原漆器(神奈川県)、村上木彫堆朱(新潟県)、木曽漆器(長野県)、飛騨春慶(岐阜県)、高岡漆器(富山県)、輪島塗(石川県)、山中漆器(石川県)、金沢漆器(石川県)、越前漆器(福井県)、若狭塗(福井県)、京漆器(京都府)、紀州漆器(和歌山県)、大内塗(山口県)、香川漆器(香川県)、琉球漆器(沖縄県)。

「陶芸」

辞書によれば、“陶器”は「素地(きじ)に吸水性があり光沢のある釉(うわぐすり)を施したもの。粗陶器と、磁器に近い精陶器がある。」“磁器”は「陶器より高温で焼成。素地(きじ)はガラス化し、透明または半透明の白色で硬く、吸水性がない。軽く打つと澄んだ音がする。中国宋代末から発達し、日本では江戸初期に有田で焼き始められた。」とある。“やきもの”は、土で形を作りそれを高温で焼き固めたものの総称である。原料の土づくりから焼き上がりまでの工程はやきものの種類や窯場での技法の違いもあって必ずしも一定ではないが、標準的な工程は次のとおりである。[やきものが出来るまで]①土作り:採土したものを天日で乾燥させ、小石やごみなどの不純物を取り除いた後に小豆大に砕き、粘土の硬さを均一にし、更に土中の気泡を完全に抜くよう丁寧に練り上げる。②成形:「ろくろ」を使用する場合は円盤の中心に置いた土を両手で挽き上げと挽き下げを繰り返して(土殺しという)形をつくる。③素地加工:生乾きの状態で、高台を削り出したり文様を彫るなどする。④乾燥:成形が終わったものを、風や直射日光を避けながらゆっくり乾燥させて水分を抜く。⑤素焼き:下絵付けや施釉をしやすくするために700~800度で焼く。⑥下絵付け:素焼きした器に呉須・鉄・銅などで直接絵付けを施す。⑦施釉:絵付けをした器には透明な釉薬を、絵付けしない器には各種の釉薬をかける。⑧本焼:陶器と磁器では焼く温度など異なるが、高温で長時間かけて焼き上げる。⑨上絵付け:本焼した器に色絵具で更に絵文様を描く。⑩低温焼付:専門の絵付窯を使って700~800度で焼く。⑪窯出し:火を止めた後、十分に窯の熱を下げてから取り出す。[成形法]①手づくね(手びねり):ろくろや型に頼らずに手先だけで形を作る方法。楽焼茶碗が代表例。②紐づくり:粘土を延べてつくった底の部分の外輪に沿って、平らにした紐状の粘土を順次積み上げていく方法。長い一本の紐を螺旋状に積み上げるのを「巻き上げ」といい、輪状にして一段ずつ積むものを「輪積み」という。③タタラづくり:タタラとは板状にスライスした粘土のことで、同じ厚さのタタラを必要な大きさと形に切って何枚も継ぎ合わせる方法。④型づくり:石膏で作った型に粘土を押し当て、石膏の吸水性を利用して成形する方法。同種のものを多量につくるのに適した成形法。⑤ろくろ成形:粘土を回転台の中央に乗せ、遠心力を利用して粘土を挽き上げて形づくる方法。昔ながらの「手ろくろ」や足で蹴って回す「蹴ろくろ」もあるが、主流は回転の速さが調節できる「電動ろくろ」である。[施釉]“うわぐすり”ともいい、表面をガラス質の皮膜で覆う役割。①釉薬の種類:800度前後の低温で溶ける三彩・緑釉・鉛釉など主に色絵に使われる上絵具(低火度釉)と、1100度以上の高温で溶ける透明釉・灰釉・鉄釉・青磁釉・黄瀬戸釉・織部釉などを初め多くの釉薬がある。(高火度釉)②施釉の方法:器に釉薬をかける際の技法で「浸し掛け」「杓掛け」「流し掛け」「塗り掛け」「吹き掛け」などがあるが、掛ける釉薬の厚みによつて発色や趣が変化する。ほかにも「二重掛け」や二種類の釉薬を掛け合わせたりする技法もある。[窯の種類]原始時代は野焼きであったが、古墳時代に朝鮮からもたらされた穴窯を工夫改良した大窯・登釜へと変遷した。なかでも、小さな燃焼室が幾つも連なった登窯は熱効率が良いことから各地の窯場で使用されてきた。近年は「石炭窯」「重油窯」「ガス窯」「電気窯」など新しいエネルギーによる窯がよく使われている。[炎]窯の中に酸素を十分に送り込んで焼く「酸化炎焼成」と、酸素の供給を制限して燻すように焼く「還元炎焼成」の二種類がある。酸化炎焼成では素地土や釉薬に含まれる金属が酸化されることで特有の発色があり、鉄釉は茶系から黒褐色になる。一方、酸素の供給量が少ない還元炎焼成では素地土が含有する金属に還元反応が起こり、鉄釉でいえば青灰色から緑系の色となり、辰砂は酸化銅が還元されて紅色に発色するようになる。こうした作用からやきものの窯焚きを“炎の芸術”と称することもある。

「織物(振袖・着物)」

我が国では、3世紀ごろにはすでに養蚕が行われ、絹織物が生産されていたと考えられている。その後、大宝1年(701)の大宝律令によって錦や綾、羅、紬など織物を管理する「織部司」が設けられ、以降、宮廷文化を中心に発展した。今日、全国各地に名だたる織物産地が散在するが、よく知られた織物を幾つか取り上げると、北から順に次のようなものがある。[主な各地の織物] ① 結城紬:茨城県結城市や栃木県小山市が主産地で、撚りをかけない手紡ぎ糸で織り上げた丈夫な織物。20近い工程があり、うち「糸紡ぎ」「絣括り」「機織」の三工程は国の重要無形文化財の指定を受けた。②小千谷縮:越後麻布から始まった北国の代表的な織物で、主に夏の着物地として用いられている。白色の麻布を縮めたもので江戸中期からの歴史がある。③本塩沢:塩沢紬と同じように十字絣や亀甲絣など精緻な柄が特徴的な織物で、通常の7倍から8倍もの強い撚りをかけた「八丁撚糸」と呼ばれる御召糸を使う。④黄八丈:伊豆諸島の八丈島に古くから伝わる絹織物の総称。島に自生する植物染料で染められた艶やかで深みのある色と縞や格子柄が特徴。⑤西陣織:京都市の北西部にある約3平方キロのエリアの呼称で、室町期の応仁の乱の際に西軍が張った陣の後であることにちなんで名付けられた。平安期以前から織物にかかわっていたといわれ、高級な綾織や錦織、唐織などが高い技術で作られていたという。⑥博多織:福岡市を中心に織られている織物で、主に帯地として用いられる堅くてしなやかな絹織物。鎌倉期に中国に渡った博多商人が技術を持ち帰ったのが始まりという。⑦久留米絣:木綿絣の代表的な織物で、藍の濃淡と白の清々しいコントラストで知られる。福岡県久留米市や筑後市が主産地で、江戸後期に12歳の井上伝が藍染めの白い斑点に興味を抱いたのが始まりという。⑧本場大島紬:奄美大島が主産地で、一説によれば1500年の歴史があるといわれるが盛んになったのは江戸期のことで、精緻な絣柄と「泥大島」などの泥染で知られる。ソテツの葉や魚の目など奄美大島の自然を模様化した伝統的な絣柄が勇名である。[振袖]袖の袂(たもと)が長い着物のことで、今日では、裾模様の黒留袖や訪問着に相当する礼装として未婚の女性が着ることが多い。もともとは身頃と袖との間の縫い付け部分に振りのある袖をもつものの総称。室町時代から存在していたが、当時は子供が着用するもので袖も現在のもののように長くはなかったという。若い女性が長い袖の振袖を着るようになったのは江戸期以降のことで、袂を左右に振ったり前後に振ったりして異性に対する自らの意思表示のサインとする風習ができたのだという説もあり、既婚女性はその必要がないということで留袖を着るようになったとのこと。今日でも男女関係で「振る」、「振られる」、「袖にする」といった言葉にその名残があるという。[着物]我が国の民族衣装である着物は時代の変遷につれて形を変えてきたが、原形は平安時代の“小袖”である。弥生期での「貫頭衣」が日本の衣服の出発点といわれるが、高松塚古墳の「飛鳥美人図」で知られるように飛鳥・奈良時代の衣服は明らかに大陸の影響を受けたものである。また、養老3年(719)に出された「衣服令」で、衿は右を先に合わせる「右衿着装法」が用いられるようになった。平安時代に入って大陸との交流が途絶えると和風文化が形成されるようになり、貴族社会では日本の気候に合わせた重ね着の風習が生まれる一方、庶民は筒袖をもった小袖を着始めたという。鎌倉期に武士が進出してくると平安期の優雅な服装は影を潜め、動きやすく現実的なものとして小袖が主流となり、江戸期ではそれが定着するとともに意匠や染色技術の発達で華やかなものも登場するようになったという。小袖は明治維新以降に初めて“着物”と呼ばれるようになったが、「丸帯」「羽織」「紋付・羽織袴」「訪問着」など現在の着物や帯に通ずるアイテム類の多くは江戸期に続々と登場したものである。