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雅楽・舞楽

ががく・ぶがく(日本舞踊)


[雅楽・舞楽]
神前での結婚式や神社などで奏される、特殊な楽器が使われ、独特の音色の、ゆったりと優雅な格式を感じる音楽、というのが一番身近な雅楽(ががく)だろう。その音色は、内容は解らなくても、場の威儀を整え、荘厳にする役割を果たしていることは分かる。これは外来楽舞の1つ・唐楽(とうがく)というジャンルに含まれ、漢文帝が作ったとされる起源の古い管絃曲で、「越殿楽(えてんらく)」という名称のものである、と言って、ピンと来るだろうか?雅楽と聞いて、楽器の種類に始まり、起源、範疇に含まれる歌・曲・舞の種類・名称などを一通り説明できる方は、関係者か、ウルトラ級の雅楽ファンではないだろうか。雅楽と一言で言われるが、実に広いジャンルであることはあまり知られていない。
一方の舞楽(ぶがく)は、語からすると音楽を伴う舞全般のようだが、雅楽のうち舞を主としたものを指し、舞を伴う舞曲のことである。雅楽と舞楽は相関性が高いため、一緒に説明すべく同じ項目としたが、いずれも種類が多く、耳慣れない独特の語の羅列なので要する説明も長くなるため、全容を知りたい方は腰を据えてじっくり読んで頂き、どうでもよい方は、端的にまとめた最終行あたりに移動して頂きたい。

雅楽という語は、古代中国における礼楽思想に基き、俗楽に対し「雅正の楽」の意を持つものであった。この中国の雅楽が語と共に外来音楽の一つとして日本に伝わった。大和朝廷(4~7世紀頃)による大宝律令(701年)で雅楽寮(うたまいのつかさ)が創設され、そこで所管された外来楽舞のみを指したが、今日は宮中での祭儀に用いる楽舞を指している。時代により雅楽の範囲も内容も異なるが、宮中所管のもので、代々継承され、演じられてきた音楽を指すと考えれば間違いないだろう。
まず、その起源から触れてみる。
太古の日本において、歌舞は祭事儀礼の中で演じられる宗教歌舞として発展していったと考えられており、弥生時代・古墳時代には既に、楽器を伴った演奏が存在していたことが出土品から確認されている。こうした日本各地の風俗歌舞が雅楽寮で整備・統一されて宮廷の祭祀楽(式楽)となった。隼人舞・国楢舞・吉志舞・楯伏舞・久米舞・筑紫舞・諸県舞などが風俗歌舞として知られている。以下にその概要を述べる。
隼人舞(はやとまい)とは大隅・薩摩の国人及びその徴兵により伝えられる舞で、祖先の火照命(ほでりのみこと)が海で溺れ苦しむ様を模したとされる。現在は正確な姿が伝えられておらず、鹿児島県姶良郡隼人町・鹿児島神宮の「追儺式」での隼人舞に古の姿を想像できるのみである。また京都府京田辺市・月読神社で復活された「大住隼人舞」は、弓・松明・隼人特有の楯を持った少年の舞人が舞う、動きが激しくテンポが速い舞を現在見ることができる。一般的に隼人舞は勇壮な舞であったと考えられている。
国楢舞(くずまい)とは、応神天皇の吉野離宮の行幸の際、山奥の国栖の村人が一夜酒を作り歌い踊った故事が起源とされる。国楢村落は他と交流を絶ち古俗を継承しており、奈良・平安時代には宮中の祭事で土地の贄を献じ、歌舞を献ずる慣例があったという。国栖奏(くずのそう)・翁舞とも呼ばれ、口鼓(舌を鳴らす)を打ち風俗歌を奏する歌舞が奈良県吉野郡吉野町・浄見原神社に継承されている。
吉志舞(きしまい)とは神功皇后(仲哀天皇の皇后)が三韓征伐(新羅征討)から凱旋し大嘗会を行なった際に豪族・安倍氏が奏したという舞で、楯節舞(たてふしのまい)とも呼ぶので、楯伏舞(たてふせまい)と同じものと思われる。吉志氏は安倍氏と同じく朝鮮系の渡来人で、当時の戦闘で、先頭に立ち呪術を使用して敵を倒したという呪術集団(巫女集団)の家系といわれ、隼人舞同様、勇壮な舞であったと考えられている。
久米舞(くめまい)とは、初代天皇である神武天皇の即位(紀元前585年頃)以前の大和平定の時、倭王権の軍事集団であった久米部(くめべ)が歌った久米歌に大伴氏・佐伯氏が舞を付したもの。戦闘歌・祝勝歌であり隼人舞同様、勇壮な舞であったと考えられている。国風歌舞の「久米歌」参照。
筑紫舞(ちくしまい)とは、謎の芸能集団・傀儡子(くぐつ)により一子相伝の口伝で伝えられた芸能で、筑紫神舞(ちくしかんまい)とも呼ばれる。長らく絶えたと思われていたが、近年その継承者が見つかり復活の動きがある。
諸県舞(もろかたまい)とは、豪族の諸県氏が戦闘に敗れ、鎮圧を受けて服属を表すための歌舞で、天皇への服属儀礼で演じられたものとされるが、鎮魂歌説もある。
以上、全て舞曲で、舞楽の起源であり、また雅楽として集大成される以前の源流となっている。雅楽寮は4種の職に分かれており、そのうち3つでは、これら日本古来の歌舞の整理・継承が行われ、国風歌舞に分類され平安時代に完成されてゆく。雅楽とは、狭義には5世紀頃から仏教文化伝来とともに中国・朝鮮半島から日本に伝わってきたアジア大陸諸国の儀式用楽舞を融合し日本化したものを指し、広義には前出の日本古来の楽舞(国風歌舞)や平安時代の頃成立したとされる歌曲(催馬楽・朗詠・今様)と、狭義の雅楽である外来楽舞の双方が含まれる。上述の風俗歌舞の流れは、国風歌舞(くにぶりのうたまい)・上代歌舞(じょうだいかぶ)と呼ばれる雅楽となり、他の雅楽曲と違い外来音楽の影響を受ける以前から日本に存在した古来の歌舞のジャンルに含まれる。

以下に、次の流れとなる国風歌舞として雅楽寮で所管された歌舞を以下に述べる。各々の曲目は少ないが、現在も主に宮内庁式部職楽部により伝承されている。装束も他の雅楽に比べると簡素で、舞・振りも素朴だが、高雅で荘重な趣を持つ。歌の伴奏には和楽器・外来楽器が併せて用いられる。
「神楽歌」(かぐらうた)とは、広義には神事・神前で奏される歌謡全般を指し、狭義には宮廷神楽(御神楽)で奏される歌謡のことを指す。里神楽(宮中以外の神楽)にも神楽歌は見られ、内容はいずれも天岩戸(あまのいわど)の故事にまつわるもので、天照大神の神霊を慰める神事のための歌である。宮中賢所で毎年行われる「御神楽ノ儀(みかぐらのぎ)」が平安時代には制度が確立し、当時30曲余りの楽舞が奏されていたらしいが、そのうち10数曲のみ現在に伝承されている。「人長舞」「其駒」「榊」などが代表的。
「大和歌・倭歌」(やまとうた)とは上古に大和地方に発生した歌曲で、伴われる舞は大和舞・倭舞(やまとまい)と呼ばれる。新しい天皇が即位した年に行われる新嘗祭(にいなめさい)で、宮中賢所で行われる「大嘗会」(だいじょうえ)の際に大和舞と供に演じられる。現在は前奏曲としての「大直日歌(おおなびのうた)」と当曲である「大和歌」の二曲からなる。
「東遊・東游」(あづまあそび)とは、東国地方(当時の朝廷より東側)の風俗歌舞で、歌と群舞の双方があり、皇霊祭などで神事舞として奏されている。安閑天皇の御世(531~535年)、駿河国宇土浜(現・静岡県宇戸浜)に天女が舞い降りたという伝説から作られ、阿波礼・一歌・二歌・駿河歌(舞)・求子歌(舞)・大比礼歌からなる組曲として奏されている。
「久米歌」(くめうた)とは、初代天皇である神武天皇即位(紀元前585年頃)以前の大和平定の時、倭王権の軍事集団であった久米部(くめべ)が歌った歌が久米歌(来目歌)といわれる。兵士の戦闘ぶりを後世に残すために歌い継がれた戦闘歌とされ、大伴氏・佐伯氏が受け継ぎ舞を付した。大嘗祭・紀元節などに奏されてきたが断絶し、現在演奏されているのは江戸時代に再興されたものである。
「大歌」(おおうた)とは、五節舞(ごせちのまい)の伴奏として奏される歌曲で、天武天皇が在位中(673~686年)、吉野の離宮で箏を弾いていると天女が現れ、歌い舞ったという伝説から作られた群舞である。大嘗祭(だいじょうさい)の豊明節会で舞うと定められていたが南北朝時代に一度廃絶し、大正天皇即位の際、宮内庁楽部の当時の楽長が復元し再興したものが現在演じられている。
「誄歌」(るいか)とは、舞を持たず、和琴一つだけを伴奏に和歌を音楽化したもので、古事記に記載のある倭建命(やまとたけるのみこと)が東方平定後、病死の時に后(きさき)や子供が泣きながら詠んだ「四首の歌」に旋律を付けたものといわれ、天皇の葬儀に歌うことになっている。誄歌も長らく断絶し、明治天皇の葬儀に作曲し、復興したものが現在演じられるものである。
「田歌」(たうた)とは、天智天皇の時代(661~671年)に奏された歴史の古い歌舞で、大和歌の楽曲の1つとして大嘗会で奏されてきたが、近年は大歌と供に演じられなくなった。各地の田遊びや御田の奉納歌として伝承されている。
「悠紀・主基」(ゆき・すき)とは、大嘗祭の悠紀殿の儀・主基殿の儀で演じられる「悠紀地方の風俗歌舞」・「主基地方の風俗歌舞」の総称である。行事のために新しく作られる歌舞で、ほぼ再演されることがない特別なものである。創作の前にト占により場所が2つ選ばれ、その土地の風景・地名を詠み込んだ歌を4首づつ作り曲を付し、祭祀の中で歌われる。饗宴では更に舞も付され雅楽舞台で舞われる。

これら国風歌舞が成立を見る頃、並行して5~9世紀初頭の約400年間に日本に伝来したアジア大陸諸国の音楽舞踊について、次に触れる。現在の形は当初使われていた楽器が省略されたり、楽曲がアレンジされたりして一つの形式に統一され、改良されたものであり、伝来楽舞とはいえ日本独特の楽舞になっている。
狭義の雅楽ともいわれる唐楽・高麗楽など外来の大陸系の楽舞は、その伝来経路で大きく2つに分類される。
「唐楽」(とうがく)は、主に中国大陸から遣唐使や来日した僧侶によって伝えられ、その形式で日本で作られたものを指すのだが、中国ばかりでなく、インドの天竺楽・ベトナムの林邑楽などに起源を持つ古代アジア南方系の楽曲と舞を指す。100曲余りが現存し、250曲余りが失われたとされる。その音律により壱越調(いちこつちょう)・平調(ひょうぢょう)・雙調(そうぢょう)・黄鐘調(おうしきちょう)・盤渉調(ばんしきちょう)・太食調[たいしきちょう)の6つに現在分けられている。唐楽舞は左方(さほう)・左舞(さまい)と呼ばれ、舞人は左の方から進み出て舞台に登り、朱系に金の金具が用いられた三巴の装束で舞う。
「高麗楽」(こまがく)は、主に朝鮮半島(高句麗・百済・新羅)と旧満州(渤海国)に起源を持つ楽曲と舞で、三韓楽(韓国・朝鮮)と渤海楽(旧満州)がその起源とされる。主に朝鮮半島より伝えられ、その形式で日本で作られたものを指す。30曲ほどが現存し、15曲余りが失われたとされる。その音律により高麗壱越調(こまいちこつちょう)・高麗平調(こまひょうぢょう)・高麗雙調(こまそうぢょう)の3つに分けられる。高麗楽舞は右方(うほう)・右舞(うまい)と呼ばれ、舞人は右の方から進み出て舞台に登り、原則は青緑系に銀の金具が用いられたニ巴の装束で舞う。
また演奏形態によって分類される場合は、次の2つになる。
「管絃」(かんげん)は、楽器のみによる合奏で、楽(曲)を主とし、唐楽で主に用いられる。平安期の貴族の間で流行し、日本で独自に完成された形態のもの。3つの管楽器、笙(しょう)・篳篥(ひちりき)・龍笛(りゅうてき)と、3つの打楽器、鞨鼓(かっこ)・太鼓(たいこ)・鉦鼓(しょうこ)、2つの絃楽器、琵琶(びわ)・筝(そう)を用いる。高麗楽の場合は龍笛の代わりに高麗笛(こまぶえ)、鞨鼓の代わりに三ノ鼓(さんのつづみ)が用いられ、現在は絃楽器(琵琶・筝)を用いないことが多い。管が各3人、鼓が各1人、絃が各2人の計16人編成が一般的である。
「舞楽」(ぶがく)は、舞を伴う舞曲で、舞を主とし、唐楽と高麗楽両方に用いる。狭義の舞楽がこれにあたる。管絃で用いる楽器の伴奏で舞われるが、現在の形式では絃楽器は用いられていない。
更に舞により、左方・右方に関わらず表現方法・雰囲気・舞手などにより、以下の5つに分類される。
「平舞(ひらまい)」は、武具を持たずにゆるやかに舞うもので、文舞(ぶんのまい)とも呼ばれ、4人又は6人で舞われる。主に襲装束や蛮絵装束なと豪華絢爛な衣装が用いられる。ほとんどの大曲(長編曲)や楽(曲)が平舞である。
「武舞(ぶのまい)」は、鉾・盾などを持ち勇壮に舞うもので、4人で舞う。現行曲は「陪臚」(ばいろ)「太平楽」(たいへいらく)の2曲のみである。
「走舞(はしりまい)」は、一人又は二人が着面で剣印や拳を持ち、躍動的に舞うもので、主に裲襠装束が用いられる。
「童舞」(どうぶ)は、子供によって舞われる舞容のことで、4人又は1人で舞うものだが、現行の7曲以外は他の舞容に変容したとされる。
「女舞」(おんなまい)は、女性により舞われる舞容であるが、現在は行われておらず、他の舞容に変容したとされる。6人・8人・10人・12人などの多人数編成で舞われていたとされる。

楽(曲)と同時に多種の外来楽器も伝来したが、平安時代に取捨選択され、楽団編成は小規模な室内楽形式に変えられた。また本家中国宗廟で儀式に演奏されていた「雅楽」ではなく、俗楽的要素を持つ、酒宴の場などで奏される宴饗楽(燕楽)の方で日本雅楽として採用され、その骨格を形作った。平安時代に集大成されたといわれる雅楽であるが、その頃作られた歴史的には新しいジャンルの歌物について以下に触れる。
歌物・謡物(うたいもの)とは古代歌謡とも呼ばれ、狭義には上述した大陸系の音楽の影響を受け、平安時代に創り出され、唐楽器等の伴奏で歌われるようになった声楽曲のことであるが、広義には前述の日本古来の原始歌謡(風俗歌舞)の流れを継ぐ「国風歌」も含まれる。国風歌については先に述べたので、以下、狭義の歌物(催馬楽・朗詠・今様)について触れる。
「催馬楽」(さいばら)とは、平安時代に新たに作られた声楽で、当時の民謡や風俗歌の歌詞に外来の雅楽旋律を付したもの。各地の民謡・流行歌が貴族により雅楽風に編曲され、雅楽器の伴奏で歌われるようになると宮廷音楽として取り入れられ大流行した。笙・篳篥・龍笛・楽箏・楽琵琶という管絃に用いられる楽器で伴奏され、笏拍子を打ち、俗調の和文を拍節的に歌う。句頭の独唱に続き全員で斉唱し、伴奏も他の雅楽曲と異なり旋律部分を奏する。室町期には衰退したが古楽譜に基づき17世紀に再興されたものが現在奏されている。
「朗詠」(ろうえい)とは、漢詩に旋律を付け雅楽器のうち笙・篳篥・龍笛の伴奏で朗誦する歌曲のことで、大半の曲が訓読で歌われる。催馬楽と異なり拍節が無く、ゆるやかに流れる雅びやかな節で閑雅な漢詩文を歌うのが特徴的で、15作品が現在に伝えられている。催馬楽と同様、句頭の独唱に続き全員で斉唱し、伴奏も他の雅楽曲と異なり旋律部分を奏する。
「今様」(いまよう)とは、催馬楽・朗詠の後、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて流行した民衆の中から生まれた新興の歌謡で、貴族から庶民まで広く愛好された。京の流行風俗が語られたり、世評が諷刺される他、法文歌・仏歌・神歌・雑歌(物づくし)・長歌など内容的に多様で、他の雅楽と異なり庶民的である。現在は「越天楽今様(えてんらくいまよう)」が最も有名。

以上、雅楽に取り入れられた各芸能を追ってみたが、これらは主に平安時代に行われた楽制改革によって曲の分類や雅楽器の編成などが整理され、現在の雅楽体系になった。現在言われる雅楽はこれら各芸能が融合してできた芸術で、10世紀頃にこうして完成し、皇室の保護下で宮廷音楽として伝承されてきた。戦国時代に衰退をみたが、豊臣秀吉が京都に「三方楽所」を創設して宮廷音楽復興に努め、雅楽を再び祭式に用いて以来復活へと動き出した。江戸時代、徳川家が江戸に楽人を集め、楽所を造り演奏会などが行われるようになり、明治時代に入り首都が移転すると、京都の楽人たちも天皇家とともに都内に移動し、政府内には「雅楽局」が組織され、日本の雅楽の中心となった。残念なことに雅楽局が行った「明治選定譜」作成のための選定のため、過去の雅楽曲の多くを切り捨て、雅楽曲の整理をしたため、明治選定譜により千曲以上あったとされる雅楽曲が百数曲に絞られ、選定曲以外の演奏を禁止したために、除外曲は絶えてしまった。よって現在宮内庁式部職楽部に100曲余りが継承されているのみである。豊臣秀吉が創設した最古の様式を伝える四天王寺の天王寺楽所(大阪)、宮中の大内楽所(京都)、春日大社の南都楽所(奈良)の三方楽所は、東京に集められて現在の宮内庁楽部となったが、各々の楽所は各々の地で、現在も雅楽が伝承されている。
昭和30年、宮内庁楽部の楽師による雅楽は国の重要無形文化財に指定され、楽部楽師は重要無形文化財保持者に認定され、その伝統を正しい形で保存するよう努力がなされている。
現在雅楽は、宮内庁では儀式・饗宴・春秋の園遊会などの行事で演奏され、また昭和31年から広く一般公開するため、皇居内の楽部において毎年春・秋の2回演奏会を催している。文化庁や都道府県教育委員会の要請により毎年2回ほど全国各地で地方公演を行い、年1回程度、国立劇場において公演会を催している。更に外務省などの要請で昭和34年にはニュー・ヨーク国連総会議場で初めて海外公演を行い、その後は米国各都市・ヨーロッパ内の都市などで公演を行い、世界的にその歴史的・音楽的価値が認められている。

千数百年の時の経て、形を変えずに存在している伝統音楽・芸能として世界に誇るべき芸術文化であり、洋楽の五線譜より千年以上前に完成した「世界最古の楽典」である。音楽要素としても「三分損益法」による旋律は12平均律の音階より美しいとも言われ、現代音楽に多大な影響を与えている音楽的価値は大きいといわれている。

総論
雅楽という壮大なジャンルを書き終え、今振り返ってみると、筆者は時の大きさ・重さを今更ながら痛感する。有史時代以前のプリミティヴなイメージの人間像から現在の雅楽の姿を想像することはできないが、人間の文化的生活として歌や舞が当時から存在し、時の流れと共に人間も音楽も発展し、絶えることなく現在まで連綿と続いている事実が、とにかく驚異である。悠久の時の流れの中で、何人もの舞人が同じ舞を舞い、何人もの楽人が同じ楽典を奏し続け現在にその姿を残している…当時のまま再現することはVTRもないので不可能であり、当時の本当の姿は分からないが、その継承を背景に考えれば、雅楽の見方が少しであれ変わるのではないだろうか。今後は録音・録画によって口伝や史書が無くても簡単に後世に現在の姿が残される訳だが、伝承に携わる人間も省略され、簡単である反面、味気ない感もあるのは筆者だけだろうか。



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