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声楽

せいがく(雅楽・邦楽・浄瑠璃節・唄)


[声楽]
「声楽(せいがく)」と辞書で調べると、人間の声による音楽の総称として、伴奏の有無を問わず、独唱・重唱・合唱のほかオペラなども含むもの、と定義されている。主にクラシック音楽の声楽を指すようだが、広義には「器楽」に対する用語として現在も使用されている。本項は日本の伝統的な声楽にスポットを当ててみたいが、その前に、世界における声楽の歴史について軽く触れてみようと思う。

歌の起源を規定することは不可能ではあるものの、有史以前より古代人が原始的な打楽器を伴った歌を有したというのは想像に難くないだろう。当初の歌は歌詞を伴っておらず、言うなれば叫び声の類であったようだが、現在でも意味を有さない歌詞を用いた歌が存在するのだから何ら不自然はない。歌の誕生は、意味を有する言葉(いわゆる歌詞)からでなく、メロディやリズムを伴う音声から生じたというのも、言語の発達や人間行動学的を考慮すれば頷けるだろう。
歌われる場が広がり歌声が複雑化していく中、言語の発達に伴って歌詞となり、言語の種類に関わらず世界の各地で別々に歌が発達していったであろうことも想像できる。そうして単なる言葉の羅列より歌の方が伝達手段として効率が良いことや、社会構造の変化に伴う生活様式の変化などの様々な背景により、宗教儀礼と結びついて聖歌が誕生した。中でも現在、世界最大の宗教であるキリスト教の流布と共に誕生した「グレゴリオ聖歌」は、世界初の歌詞付きの歌であろうと考えられており、再現可能な歌として最古のものであるという。ちなみに1472年に日本の声明の楽譜集「文明4年版声明集」が高野山で出版・印刷されたのがグレゴリオ聖歌と1年違いで世界最古の印刷の楽譜集だそうだ。日本の「声明(しょうみょう)」とは仏教儀礼・法要の際に経文に一定の旋律を付して朗唱する声楽の一種であるが、現在、国宝・重要文化財にも指定されている。仏教が世界三大宗教の1つであることからも、声明がグレゴリオ聖歌と比較できるほどの広がりと文化的意義を有すると言われるのも不思議はないだろう。
現存のグレゴリオ聖歌の中心的なものはヨーロッパ中世期の8~9世紀に作曲されたと言われているが、長い年月の間に何度も改編され、各地の聖歌を統合、吸収して成立しているため誕生当時の姿は正確には分からない。それまで口承されていたものが記譜法が編み出されたことによって目に見える形で残されることになったのがこの時代であり、それ故に現在再現が可能となった訳である。ラテン語で書かれた歌詞の内容はキリスト教の教え、いわゆる聖書の詩篇に基づくものであるが、ローマ以外の各地に口承されていた聖歌は3世紀頃から誕生していたと考えられている。旧約聖書の原文の誕生は紀元前10世紀頃からとかなり古く、また古くは40余りの書の集合体であったことから全体的に成立した時期も明確にはできないし、聖歌の原点を探し出すのは不可能であろうが、以上のような流れが定説となっている。そしてヨーロッパ音楽の源流がグレゴリオ聖歌にあると言えるほど人々に浸透し、音楽的に強い影響力を有したことは確たる事実である。

次に日本での声楽を見てみることにする。邦楽の中の「声楽」の2大系統として「歌物・謡物(うたいもの)」「語り物(かたりもの)」があり、「歌物」は一般に流行歌・民謡・童謡・俗謡などの総称、「語り物」は音楽性を伴う韻文形式の作品かつ歌詞と曲とが一体のもののことと定義されている。「歌い物」と呼ばれるものには神楽歌・催馬楽・今様・宴曲・長唄・端唄・地唄・うた沢・小唄・都々逸などがあり、「語り物」と呼ばれるものには浄瑠璃や謡曲などが有名である。この大きな2つの流れを踏まえ、まず「歌物」の歴史を追ってみよう。
「歌物(うたいもの)」とは古代歌謡とも呼ばれ、狭義には大陸系の音楽の影響を受けて平安時代に創り出され、唐楽器等の伴奏で歌われるようになった声楽曲のことを指すが、広義には日本古来の原始歌謡(風俗歌舞)の流れを継ぐ「国風歌舞(くにぶりのうたまい)」も含まれる。太古の日本において歌は舞と一体のものとして存在し、祭事儀礼の中で演じられる宗教歌舞として発展していったと考えられており、弥生時代・古墳時代には既に、楽器を伴った演奏が行われていたであろうことが出土品からも確認されている。隼人舞・国楢舞・吉志舞・楯伏舞・久米舞・筑紫舞・諸県舞など日本各地の風俗歌舞が、飛鳥時代の大宝令(701年)で創設された雅楽寮で整備・統一されて宮廷の祭祀楽(式楽)となり、その後、平安時代に大成する国風歌舞(くにぶりのうたまい)・上代歌舞(じょうだいかぶ)と呼ばれる雅楽となった。他の雅楽曲と違い、中国を始めとする外来音楽の影響を受ける以前から日本に存在した古来の歌舞のジャンルである。上代歌舞のうち「古事記」「日本書紀」の2書にある歌謡は特に「記紀歌謡(ききかよう)」と呼ばれ、大半は宮廷に伝承されて「大歌」と呼ばれたが、当時どのような旋律で謡われたかは現在知ることはできない。
国風歌舞が成立を見る頃、並行して5~9世紀初頭の約400年間にアジア大陸諸国から「唐楽」「高麗楽」などの音楽歌舞が日本に伝来した。現在の形は当初使われていた楽器が省略されたり、楽曲がアレンジされたりして一つの形式に統一され、改良されたものであり、伝来楽舞とはいえ日本独特の楽舞になっている。この外来音楽が狭義の歌物であり、催馬楽・朗詠・今様などが主なものであるので以下に触れる。
「催馬楽」(さいばら)とは、平安時代に新たに作られた声楽で、当時の民謡や風俗歌の歌詞に外来の雅楽旋律を付したもの。各地の民謡・流行歌が貴族により雅楽風に編曲され、雅楽器の伴奏で歌われるようになると宮廷音楽として取り入れられ大流行した。笙・篳篥・龍笛・楽箏・楽琵琶という管絃に用いられる楽器で伴奏され、笏拍子を打ち、俗調の和文を拍節的に歌う。句頭の独唱に続き全員で斉唱し、伴奏も他の雅楽曲と異なり旋律部分を奏する。室町期には衰退したが古楽譜に基づき17世紀に再興されたものが現在奏されている。
「朗詠」(ろうえい)とは、漢詩に旋律を付け雅楽器のうち笙・篳篥・龍笛の伴奏で朗誦する歌曲のことで、大半の曲が訓読で歌われる。催馬楽と異なり拍節が無く、ゆるやかに流れる雅びやかな節で閑雅な漢詩文を歌うのが特徴的で、15作品が現在に伝えられている。催馬楽と同様、句頭の独唱に続き全員で斉唱し、伴奏も他の雅楽曲と異なり旋律部分を奏する。
「今様」(いまよう)とは、催馬楽・朗詠の後、平安時代中期から鎌倉時代初期にかけて流行した民衆の中から生まれた新興の歌謡で、貴族から庶民まで広く愛好された。「今様」は当世風という意味であり、声明が深く関係しているという。和讃(日本語の声明)が短縮され法文歌となり、形が七五調四句に落ち着いたと言われ、遊女や白拍子の中に名手が多く生まれている。平安末期には、宮廷貴族のあいだでも好んで歌われ、京の流行風俗が語られたり、世評が諷刺される他、法文歌・仏歌・神歌・雑歌(物づくし)・長歌など内容的に多様で、他の雅楽と異なり庶民的である。現在は「越天楽今様(えてんらくいまよう)」が最も有名である。
これらは主に平安時代に行われた楽制改革によって曲の分類や雅楽器の編成などが整理され、現在の雅楽体系になっている。
次に中世~近世期に日本で誕生した歌について見てみよう。
「宴曲(えんきょく)」は中世歌謡の一つであり、遊宴の時に謡われたことから名がついているが、「早歌」というのが通称である。鎌倉時代中期頃に流行し始めたが、催馬楽や今様などの公家社会で流行していた歌を断片的につなぎ合わせて作られることが当初は多かったという。後世には独自の歌章構成を有し叙事的な歌へと発展し、中でも鎌倉時代後期の明空(月江)が宴曲作者として代表的であり、彼の時代に多く創作・撰集されたという。
「長唄(ながうた)」は江戸期を代表する歌であり、江戸歌舞伎の舞踊の伴奏として誕生・発展した派手な芝居唄であるが、庶民の習い事として浸透して劇場を離れてゆき、お座敷長唄が作られるなど1ジャンルとして音楽的地位を高めていったという。「江戸長唄」が正式名称であり、対する「上方長唄」というジャンルも存在するのだが全くの別物である。長唄は複数人の唄と三味線で構成されるのが基本であるが、お囃子を伴うものもある。発展過程で謡・狂言・民謡などの歌詞や節回しが採用され、極めて多様性に富んでいるのが特徴であり、現代、純邦楽の中で一番多くの人に親しまれている音楽である。
「端唄(はうた)」は地歌(じうた)とも呼ばれ、小唄・うた沢・俗曲との区別が以前は明確でなかったため混同されることもあるが、現在、端唄は小唄・うた沢・俗曲に属さない江戸端唄(江戸期の小曲)のことと定義されている。江戸時代、流行歌として小曲が数多く歌われ、地方民謡の他に端物の唄が多く作られて流行したのだが、江戸末期の安政年間、それまでの端唄に品位を与え芸術的な歌曲として整えた「うた沢」を確立した。幕末から明治にかけて、うた沢の発生と前後して「江戸小唄」が誕生した。江戸小唄は清元の浄瑠璃(文楽)の新曲に多く挿入された端唄を流行しやすいアップテンポで粋な曲調に改編したものであるが、後に単に「小唄」と呼ぶようになり、明治中期以後、一般庶民に流行した。「都々逸(どどいつ)」は江戸末期に都々逸坊扇歌が始めた定型詩であり「俗曲」の一つとされる。主に寄席や座敷等で演じられ、風刺・粋・艶を有し、男女の恋情・四季・心境などを題材とした町人文芸で、雅語を用いず口語で歌われる。
一纏めに端唄に入れたが、各々に特色があるものの区別が難しく、端的に言うならば端唄は傾向や色合いを持たず素直、うた沢はテンポが緩やかで荘重、小唄は三味線で撥を用いない渋み、とされている。
ざっと近世までの歌物のジャンルに触れてみたが、その後の近現代の歌物の流れに触れてみることにする。

皇室の保護下で宮廷音楽として伝承された雅楽の体系は戦国時代に衰退をみたが、豊臣秀吉が京都に「三方楽所」を創設して宮廷音楽復興に努め、雅楽を再び祭式に用いて以来、復活へと動き出した。江戸時代、徳川家が江戸に楽人を集め、楽所を造り演奏会などが行われるようになり、明治時代に入り首都が移転すると、京都の楽人たちも天皇家とともに都内に移動し、政府内には「雅楽局」が組織され、日本の雅楽の中心となった。雅楽局が行った「明治選定譜」作成のための選定のため、残念なことに多くの過去の曲を切り捨てて曲目の整理をしたため、千曲以上あったとされる雅楽曲が百数曲に絞られ、選定曲以外の演奏を禁止したために、除外曲は絶えてしまった。よって現在宮内庁式部職楽部に100曲余りが継承されているのみである。豊臣秀吉が創設した最古の様式を伝える四天王寺の天王寺楽所(大阪)、宮中の大内楽所(京都)、春日大社の南都楽所(奈良)の三方楽所は、東京に集められて現在の宮内庁楽部となったが、各々の楽所は各々の地で、現在も雅楽が伝承されている。
また江戸期に誕生した長唄・小唄等は現在も人気を保ち、特に小唄は戦後盛んになり「小唄ブーム」と言われるほどであったという。しかし小唄の人気に押されて端唄・うた沢・都々逸などの俗曲は下火となり、その背景として家元制度が無かったため、芸の伝承がスムーズに行われなかったことなどが挙げられる。

さて次に「語り物」の流れを追ってみよう。「語り物(かたりもの)」とは物語に節を付けて語り聞かせるものであり、琵琶法師が琵琶の伴奏に合わせて平家物語を物語る「平曲(へいきょく)」が芸能としては最古とも言われているのだが、その歴史は8世紀、雅楽が完成したのと並行して「声明(しょうみょう)」が中国から伝来したことに始まる。古代インドの学問分野に「五明(ごみょう)」というものがあり、その1つに音韻学・文法学として「声明(しょうみょう)」があった。日本へは仏教伝来と共に中国から「声明梵唄(しょうみょうぼんばい)」として移入され、定着・発展してきたと見られている。「梵讃(ぼんさん・サンスクリット語)」「漢讃(かんさん・中国語)」「和讃(わさん・日本語)」など、3つの言語により書かれ、日本語で書かれた和文声明だけでも10種類余りあるというが、いずれも諸仏讃嘆・祈願を目的としたものである。奈良時代の752年、東大寺大仏開眼供養会が行われた際、法要で声明が盛大に唱えられたという記録が日本史実上初めて登場し、当時、既に声明が盛んに行われていたと見られている。中国・朝鮮で「梵唄(ぼんばい)」「唄匿(ばいのく)」と呼ばれていたことから、梵唄の名称も用いられている。平安時代初期、最澄・空海により中国から密教系の「天台声明」「真言声明」両派が主流派となって広められ、その後、平安時代後期の僧で融通念仏の祖でもある「良忍」が、京都・大原で日本各地の声明をほぼ全て吸収・大成したといわれる。「日本舞踊-念仏踊り」の項を参照頂ければ融通念仏の流れも解るかと思う。京都・大原は魚山(ぎょざん)流声明の本拠地として今日でも有名であり、この後、鎌倉時代の「平曲」(平家琵琶)や室町時代中期の「浄瑠璃」「謡曲」など、語り物の体系に大きな影響を与えた。
和讃や講式などの日本式声明のうち「講式」は十世紀後半の986年に源信が作り、行った講式が元となって成立した日本独特の仏教儀式の一つで、音楽(管弦・声明)、舞踊、演劇、絵画等の様々な要素を含む総合的文化体系となっていて異色のものである。日本語で語られていたという点において他と異なっており、その後の日本文学と深い関わりをもつというので、声明の中でも特に「講式」に語り物のルーツがあると言えるかもしれない。

さて、歌物で触れた「雅楽」、「声明」の体系、琵琶を弾く盲目の僧体(僧門の出ではなく寺社に所属する賎民)が担った天台声明系の「盲僧琵琶」の影響を受けて成立したという「平曲(へいきょく)」が琵琶法師によって語られ、大流行するのが鎌倉時代初期のことである。平曲とは生仏(しょうぶつ)という盲僧が作曲して語ったのが平曲の始まりだと言われており、その後他の盲僧が平家物語を琵琶に合わせて語りつつ諸国を流浪して歩いたことが流行の背景にある。平曲が非常に流行したことは現在もその一部が伝承され続けていることからも伺えるのだが、徐々に題材を増やしてバラエティに富む語りになり、中でも特に人気を博したのが室町時代中期(15世紀末)の「浄瑠璃」であったという。浄瑠璃姫と牛若丸との恋物語を題材とした御伽草子の一種「浄瑠璃姫十二段草子」から出たものであるが、曲節が愛好され、物語が違っても、その節回しは「浄瑠璃節」と呼ばれた。浄瑠璃や長唄などの中に「平家」「平家ガカリ」という旋律型があるが、これは平曲の曲節を模倣したものだという。この頃は扇・鼓での拍子取りや、琵琶の伴奏で語られていたようであるが、この後の16世紀中期に三味線が誕生して流行すると、琵琶法師たちは琵琶から三味線に持ち替え、浄瑠璃に使用し定着した。江戸時代末期までは盲人芸能組織である「当道座」が幕府の庇護を受けていたために平曲も継承されたが、明治時代に入り当道座が解体するとともに衰退し、現在では僅かに絶滅を免れているような状態だという。

声明の別の流れにとして、平安時代に法華信仰と浄土信仰が隆盛し、経典を講読する「講」と呼ばれる説経の会が上流社会に広がり始める。名説経師となればスターのような存在として持ち上げられ、注目されるためなのか顔立ちの良い者が人気だったようだ。最初に流行した説経は、経典の講釈を中心とする「講説」と、比喩因縁を盛り込んで経典経義を説く「説経」「談義」とに分かれていたという。この頃の仏教は一般民衆のものではなく上層の一部の人々のものでしかなかったため、平安中期頃から庶民層に広げようとの動きが生じ始め、平安末期には活発化し、説経師達は仏教の大衆化を図り、教儀を判り易くして機知に富んだ通俗的な法談を行うようになった。また比喩因縁と結び付け、経文を因果応報の話として語る説経へと変化し、中世紀の間に念仏聖や高野聖のような遊行僧が担い手となり極めて庶民的な野外説経へと移り変わったようだ。漂泊者(主に乞食僧)が、むしろの上で大傘を広げ、ささら(田楽にも用いられた原始的な楽器)を鳴らしながら語るため「ささら乞食」と呼ばれていたようだ。
更に馴染みやすく声明の音曲的要素(曲節)を加え、室町時代初期には「説経節(せっきょうぶし)」と呼ばれる芸能が誕生する。説経節は、山伏などの修験者が主な担い手となって、仏教経典の解説・神仏の霊験・各地の伝説・寺社縁起などを題材とした庶民向けの説話を文学的に進展させた、いわゆる唱導文学が更に発展したものだという。始めは大道芸の一つとして鉦(かね)を叩きながら語られたようだが、江戸時代前期には伴奏楽器として浄瑠璃の三味線を取り入れ、「説経浄瑠璃」「歌浄瑠璃」という形式を生み出し、一般的な音楽として人々に受け入れられ全盛期を迎えた。しかしちょうど義太夫の浄瑠璃・文楽・歌舞伎の全盛期にあたり、その絶大な人気に押され、吸収されて消滅してしまったようだ。

声明の更に別の流れとして、和讃を元として成立した山伏(修験者)祭文(さいもん)に音曲的要素を加え俗化した「祭文節(さいもんぶし)」から、更に芸能化した「歌祭文(うたさいもん)」という芸能が、江戸期に庶民の間で流行する。祭文とは本来、山伏修験者が錫杖を振り鳴らし、ほら貝を吹きながら、祭礼で神に捧げる祝詞(のりと)を唱え歩くものであるが、歌祭文は近世俗曲の1つで、門付芸人が死刑・情死など話題性のある事件や当時の風俗を綴った文句を、三味線などの伴奏で歌いながら巡業するもので、庶民が求める題材、例えば芸能ニュースのようなタイムリーな話題を題材に、アップテンポで面白く聴かせるものに変容した結果出来上がった芸能である。更に江戸時代末期には、説教節などを基調として江戸で「弔歌連(ちょんがれ)」「チョボクレ」、上方で「阿呆蛇羅教(あほだらきょう)」と呼ばれる都市部の大道芸に変化し、祭文節の別系統の流れとして歌説経・説経浄瑠璃を取り入れ「デロレン祭文」という流行芸が誕生した。関東での浪曲の直接的なルーツは、これら弔歌連・チョボクレにあると言われており、上方浪曲の場合は弔歌連を改良しデロレン祭文を統合し、更に節の間に語りの部分を加えた「浮連節(うかれぶし)」という前身にあたる芸能を経て誕生したとされる。「京山恭安斎(きょうやまきょうあんさい)」が義太夫節・琵琶などの長所を採用し、三味線を伴奏とした新しい一人芝居として興行し、関西で大いに歓迎され、大衆芸能の名物となった。大道芸ではない大衆向け芝居芸としての自負から、地方巡業を多く行ったと言われる。明治時代初期、浮連節の人気を脇目に江戸へ上り「浪花節(なにわぶし)」として売り出し、人気を博したのが「浪花伊助(なにわいすけ)」である。古くから伝わる浄瑠璃・説経節・祭文語りを基礎として、大道芸として始められ、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。弔歌連の節回し、チョボクレの語り口上、デロレン祭文の発声、阿呆蛇羅教の音調子など様々な門付芸の要素に「河内音頭」「江州音頭」のリズム、講談の会話運びなど、大衆芸能の要素を融合・吸収して作られたと言われる。明治時代半ば頃まで、「ヒラキ」と呼ばれるヨシズ張りの掛け小屋で興行することが多く、大道芸人として軽視されていたものの、浪曲草創期の立役者として浪花伊助・京山恭安斎の名は伝説的に語り継がれている。この浪曲に繋がる流れは「日本物語-浪曲・浪花節」を参照して頂けると分かりやすいかと思う。

他方、民間芸能において声楽要素を含むもので名高いのは、社寺の祭礼等で行われていた田楽・猿楽に演劇的要素を加えて人気を博した田楽能と猿楽能であり、田楽・猿楽については「日本舞踊-猿楽/田楽」を参照して頂けると詳細が分かるかと思う。
「田楽(でんがく)」は、田植行事であった「田舞」に中国伝来の曲芸的芸能であった「散楽」の要素が加わって形成されたといわれており、職業的専門家である田楽法師などが担い手となり形を整えてゆき、北条高時や足利尊氏などの時の権力者が庇護したことなども知られている。しかし同時期に猿楽が存在していたため、互いに切磋琢磨しつつ完成度を高めていった「猿楽能」が大衆の支持を得、田楽能は廃れていったようだ。
「猿楽(さるがく)」は滑稽な物真似芸として当初は出発し、その要素は当時は写実的な寸劇であった「狂言」に継承されたが、猿楽の中に白拍子舞や曲舞、今様などの芸能を取り入れ、猿楽能へと発展していった。中世期の鎌倉時代後期から室町時代初頭、猿楽能は大和猿楽四座から出た観阿弥・世阿弥父子により優れた楽劇として芸術的に大成し、「能楽」の基礎を築き、能楽は足利義満の庇護の下で武家社会で愛好されるようになり、江戸時代には幕府の式楽となった。能楽は継承が困難な時期も一時あったが、国や皇室などの後援により再興し、現在でも愛好されている。能楽の声楽的な面を言うなら、語り物と歌物とが融合した楽曲と言えるだろう。「謡曲(ようきょく)」という語は、能楽の詞章を音楽的立場から表すものであり、舞・謡・囃子という能楽の三要素のうちの「謡」の部分だけを囃し方(伴奏)なしで習い事・娯楽として行う「素謡(すうたい)」が室町時代末期頃に町人階級で流行していた。本項の声楽の流れには、この謡の部分と特に関係が深いわけだが、物語を語るのではなく謡うと表現されているように、この時点で吟じる芸能に変化しており、演劇より歌劇に近いものになっていたことが伺える。

さてもう一つの大きな流れとして「歌舞伎(かぶき)」がある。歌舞伎も別項「演劇・演芸-歌舞伎」を参照して頂けると詳細が分かると思うが、中世末期、出雲阿国(いずものおくに)による歌舞伎踊りは京の人々に熱狂的に支持された。特に注目を浴びたのは「念仏踊」で、在来の踊念仏を歌舞伎舞踊化したもので小歌を唄いながら踊っていたようだが、「かか踊」「やや子踊」等も含め、阿国が踊った踊唄を総称して歌舞伎踊と呼ぶようになったという。どのように唄われていたのか現在では不明だあるが、中世末期に流行った小歌の一種であったと思われる。中世後期の室町時代では、宮中の儀式に用いられた大歌に対し、民間での流行歌「小歌」が大流行し、約半世紀後の文禄年間に隆達小歌が歌われたのだが、これが近世小唄の祖先であり、その代表格「弄斎節(ろうさいぶし)」へと移ってゆく。京で流行した弄斎節が江戸へ入って「江戸弄斎」となり、「投節(なげぶし)」に変わっていった。
歌舞伎は文字通り歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(技芸・物真似)で成り立っているのだが、演劇のジャンルに含まれているように歌とは言えども語りに近いもの、と言えるかもしれない。歌舞伎の演目の多くが人形浄瑠璃(文楽)から派生しているので、音楽的にも「義太夫節(ぎだゆうぶし)」を用いるものが多いし、常磐津節(ときわずぶし)や清元節(きよもとぶし)等の歌も同じく浄瑠璃から派生しているため「語り物」の音楽が多い。しかし舞踊要素の強い演目では「長唄」が用いられており、長唄は「歌い物」の区分に入る。歌舞伎が大衆娯楽として大流行した背景として、様々な要素の集合体で演目的にもバラエティに富んでいることも影響しているだろう。

総論
日本人は日常会話では口をさほど開けないで発声する方であるというが、民謡などにおいては良く通り、響きを持った腹式発声(気道を開いて口を大きく開けて発声する)を用いるし、元来、器楽と同様に非純音・高音域を好む民族であるらしい。日本人は実際用いている発声と人々が好む発声とのギャップが何故生じてしまったのか?筆者にも分からないので、誰かご存知の方があれば、お教え願いたい。
会話は相手があって行われるものであり、正確に分かりやすく相手に伝えようと頑張るほど、自分の身振りや声色の変化を強調するため口を大きく開けて発声してしまう気がするのだが、逆に感情表現の起伏を小さくしようと思うなら、口をあまり開けず、高低をつけず平坦に発声するように思う。これも日本的美徳ゆえなのだろうか。
歴史的に見て西洋の声楽では共通の基本的発声法(ベル・カント唱法)が分野を問わず整備・確立されていたが、日本の声楽は、種目や流派により独自の表現法を有するため発声法も各々で工夫され、伝承されているという。発声の中心は地声(じごえ)であり、中でも喜怒哀楽の表現を声で使い分ける人形浄瑠璃(文楽)の発声法が最も多様であるという。そのあたりも文楽が一世を風靡した所以なのかもしれない。
声楽と言えば単純に歌唱を思い浮かべてしまう筆者としては、世界的に見ても歌唱の原点が純粋に歌から派生していない点が興味深く思えた。本項の、殊に声明の流れについて探ってゆくに従い、他者に向かうものというより、自己の内面に深く根付くものとして歌が存在し、音楽的要素が加わることで、その言葉に空間的な広がりを持たせることができるものと実感する。これは当たり前と言えるかも知れないが、世界中に様々な言語がある中で、言葉の意味は分からなくても歌にすれば通じ合える力そのものが、人々を惹きつけて止まないのだろう。