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相撲・柔道・剣道・空手・合気道

すもう・じゅうどう・けんどう・からて・あいきどう(武道)


[相撲・柔道・剣道・空手・合気道]
本項は、日本の武道を取り上げる。相撲、柔道、剣道、空手、合気道の成立を中心に各項目ごとに簡単にまとめてみた。

「相撲」

記録によれば、日本における格闘技の始まりは相撲ではないかという。10世紀初頭に著された『倭名類聚鈔(和名抄)』に“須末比(すまひ)”と“古布志宇知(こぶしうち)”の記述があり、これが今日でいう“相撲”と“拳闘”といえるかどうかは分からないが、このころの投げる、締める、打つ、突く、蹴るなどの格闘の技がまとまって“相撲”という競技に収束したのではないかという。また、『日本書紀』には垂仁天皇(紀元前23年)の条に当麻蹶速(たいまのけはや)と野見宿禰(のみのすくね)の決闘が記されていて、今日では試合に勝った野見宿禰は相撲の神様とされている。以下、相撲にまつわる話題を集めてみた。[節会(せちえ)相撲]節会とは古代から行われてきた季節の変わり目に行う祝いの行事のことだが、平安時代の社会では、生活基盤である農作物の豊作を祈願する7月7日は特に重要な節会で、年占の行事として相撲が行われたという。記録によれば聖武天皇の734年に開催されたのが最初となっているが、全国から強い力士34名を集め、左右17組に分かれて行う対抗戦で、勝つた方に豊作が約束されるという祈願の年占行事であった。当時は土俵がなかつたために“押し出し”や“寄りきり”はなく、専ら投げ技によつて勝負を決めた。節会相撲は源平のころに一時中断したが、前後400年に及ぶ間に形成された相撲の技術と様式は全国各地へ伝えられて残り、寺社の奉納相撲や勧進興行として連綿と続いてきた。[土俵の出現]土俵は今日の相撲競技にとつて欠かすことのできない要素の一つであるが、『角力旧記』によれば「土俵を築きたること、天正年間より盛んになり」とあるところから、土俵の出現は1570年ごろから後のことらしい。土俵がないころは、東西の力士が取り囲んで作った輪の中で対戦が行われていたが、対戦する二人が勝負の流れで待機する力士にぶっつかったといっては喧嘩を起こすことから、1648年に幕府が相撲禁止令を発した。そこから円陣で取り囲む方法の改善が生まれ、人垣に代わる境界線として登場したのが“土俵”であったという。当初は直径4mほどであった円形も、力士の体格が大きくなったことから昭和6年には4.55mに広げられ、“相手を投げ飛ばす”だけから“相手を押し出す”競技へと技術を進歩させた。[決まり手]通称“48手”と呼ばれるが実際にはそれよりもずっと多い。相撲協会の発表によれば次のとおりである。■基本技 ①突き出し②突き倒し③押し出し④押し倒し⑤寄り切り⑥・寄り倒し⑦浴せ倒し(あびせたおし)■投げ手 ①上手投げ②下手投げ③小手投げ④掬い投げ(すくいなげ)⑤上手出し投げ⑥下手出し投げ⑦腰投げ⑧首投げ⑨一本背負い⑩二丁投げ(にちょうなげ)⑪櫓投げ(やぐらなげ)⑫掛け投げ⑬つかみ投げ■掛け手 ①内掛け②外掛け③ちょん掛け④切り返し⑤河津掛け(かわずがけ)⑥蹴返し(けかえし)⑦蹴手繰り(けたぐり)⑧三所攻め(みところぜめ)⑨渡し込み⑩二枚蹴り⑪小股掬い(こまたすくい)⑫外小股⑬大股⑬褄取り(つまとり)⑭小褄取り(こづまとり)⑮足取り⑯裾取り(すそとり)⑰裾払い(すそはらい)■反り手 ①居反り(いぞり)②撞木反り(しゅもくぞり)③掛け反り(かけぞり)④たすき反り(たすきぞり)⑤外たすき反り(そとたすきぞり)⑥伝え反り(つたえぞり)■捻り手 ①突き落とし②巻き落とし③とったり④逆とったり(さかとったり)⑤肩透かし(かたすかし)⑥外無双⑦内無双⑧ずぶねり⑨上手捻り(うわてひねり)⑩下手捻り⑪網打ち(あみうち)⑫鯖折り(さばおり)⑬波離間投げ(はりまなげ)⑭大逆手(おおさかて)⑮腕捻り(かいなひねり)⑯合掌捻り(がっしょうひねり)⑰徳利投げ(とっくりなげ)⑱首捻り(くびひねり)⑲小手捻り(こてひねり)■特殊技 ①引き落とし②引っ掛け(ひっかけ)③叩き込み(はたきこみ)④素首落とし(そくびおとし)⑤吊り出し⑥送り吊り出し⑦吊り落とし⑧送り吊り落とし⑨送り出し⑩送り倒し⑪送り投げ⑫送り掛け⑬送り引き落とし⑭割り出し⑮うっちゃり⑯極め出し⑰極め倒し⑱後ろもたれ⑲呼び戻し(よびもどし)■非技(勝負結果) ①勇み足②腰砕け③つき手④つきひざ⑤踏み出し■禁手反則 次の禁手を用いた場合は反則負けとなる ①握り拳(こぶし)で殴ること②頭髪を故意につかむこと③目または水月(みぞおち)等の急所を突くこと④両耳を同時に両掌で張ること⑤前立褌(まえたてみつ)をつかみ、または横から指を入れて引くこと⑥ノドをつかむこと⑦胸・腹をつかむこと⑧一指または二指を折り返すこと。

「柔道」

今日、世界180か国で競技が行われ、オリンピックの正式種目でもある“柔道”の我が国における正式名称は「日本伝講道館柔道」という。万延元年(1860)に現在の神戸市東灘区で生まれた嘉納治五郎が創始者である。明治維新前は「柔術」といったが、治五郎は、生来の虚弱体質を克服することを目標に柔術を始め、まず天神真揚流柔術を学び、次いで起倒流柔術を学んだ。その過程で柔術を学ぶことは人の知・徳・体の教育的目的達成に最良の方法であると確信した治五郎は、明治15年(1882)、現在の東京都台東区東上野の永昌寺の一隅を借り受けて道場を開き、“柔術”を“柔道”と改めると共に道場名を「講道館」とした。[講道館]武術を教えるだけの道場であれば練武官、尚武館、講武館などの名称が考えられたはずだが、「講道館」としたのは道場が単に武術を教えるだけの場ではなく「道が根本で、術はその応用として授ける」という彼の考えを明らかにするためであったという。その後、明治22年(1889)ごろまで講道館柔道は警視庁武術大会を通じて柔術の諸流と対戦するなどしたが、そうしたなか、講道館柔道の存在を世に知らしめたのが西郷四郎の試合である。身長153cm、体重53kgの小柄な西郷が、身長171cm、体重83kgの大柄な楊心流戸塚派の照島太郎を投げ飛ばして勝った。世間ではこの試合を「柔よく剛を制した」と評判となり、西郷の掛けた技を「山嵐」としてもてはやした。こうした西郷の活躍は後の小説や映画の「姿三四郎」を生み出し、また近代柔道の奥義(力学的合理性に適う技)を示したものとして知られた。こうした活躍を契機として講道館は躍進し続け、段位制を確立し、全国に支部を網羅するようになって今日の講道館柔道の基盤を確固としたものにした。大正4年(1915)、嘉納治五郎は『柔道は心身の力を最も有効に使用する道である。その修行は攻撃防御の練習によって身体精神を鍛錬修養し、斯道の真髄を体得することである。そうしてこれによって己を完成し、世を補益するが柔道修行の究竟の目的である。』と定義し、「精力善用」「自他共栄」を基本理念とした。すなはち、講道館柔道を単なる勝利至上主義の競技ではなく、精神鍛錬を目的とした修行と位置付けしたのである。[柔道の国際化]この柔道の技術と思想に先ずヨーロッパが共鳴し、昭和27年(1952)には国際柔道連盟が設立されて今日の国際的な柔道競技へと発展していく端緒についた。さらに、昭和31年(1956)には第一回世界大会が東京で開催され、昭和39年(1964)の東京オリンピックでは正式種目として認定されて日本の柔道は名実共に世界の柔道へと発展した。しかし、国際化に伴い幾つかの文化摩擦も表面化し、ポイント制の導入、体重制の細分化など競技ルールの改定となって反映されてきた。また、近年ではブルーの柔道着が採用されて対戦する両者を見分けやすくするなど、柔道は競技として確立化が進むのにつれ、かつて我が国で発祥したころの内的な要素とは隔たりが大きくなっていった。[段階位制と帯の色分け]数字の大きい級位から始まり、上達するにつれて小さな数字の級位となり、初段の上は逆に大きな数字の段位に昇っていく。また、最高段位は十段であると思われがちだが、柔道の創始者である嘉納治五郎の『柔道概要』によれば「初段より昇段して十段に至り、なお進ましむるに足る実力ある者は十一段十二段と進ましむること際限あるなし」と述べているように上限は決められいない。各階位による色分けは次のとおりである。◆①四級以下:白帯②三級~一級:茶帯③初段~五段:黒帯④六段~八段:紅白帯⑤九段~十段:紅(赤)帯(ただし、六段以上は黒帯のままでも構わない。)◆少年部(原則13歳未満)の場合。①初心者:白帯②五級:黄帯③四級:橙帯④三級:緑帯⑤二級:紫帯⑥一級:茶帯。

「剣道」

我が国の“剣道”に限らず、剣法はヨーロッパや中国を初め世界各国でみられる身体運動技術であるが、その起源は人が野山を駆けて狩を行った太古に遡るに違いない。獲物を得るために道具や技術に工夫を凝らし、発展させてきたことの結果でもある。以下、我が国における剣道の発展経過をたどってみよう。[剣道の起こり]弥生時代に入ると、それまで動物を追うのに使っていた木の棒に代わって青銅や鉄などの金属でできた鋭い武器が中国・朝鮮から伝わった。殺傷能力が高いことから、単に狩に使用する道具から人と人、部族と部族の争いで用いられるようになり、戦闘手段としての技術が工夫され発展していった。鎌倉時代になると13世紀の蒙古襲来の経験から戦闘がそれまでの1対1から歩兵を中心とした集団戦へと推移し、武器として使用する刀も「突く」ことを主にした中国様式の大形の直刀から小回りの利く「斬る」「刺す」ことを目的とした短い打ち刀へと変化した。こうした流れが後の“剣道”につながった。[竹刀剣道]江戸時代に入って平和な世の中が続くようになると武士は武術稽古をおろそかにし惰弱化したが、18世紀に、長沼四郎(直心影流)と中西忠蔵(一刀流)らが出現して防具と竹刀を用いて実際に相手に打ち込む稽古が行われるようになる。従来は木刀や真剣を用いた「形」が稽古の主流であったために実際に相手を打ち据えるようなことはできなかったが、当たっても痛みを伴わない「竹刀」の出現で実戦に近い稽古が可能となり、剣の技法も格段に工夫されるようになった。明治期に入ると新政府が発する廃藩置県や廃刀令などによって剣術教育は一時期衰退したが、明治15年(1882)に嘉納治五郎が柔術を集大成して“柔道”としたことに刺激を受けた剣術界も、多くの流派に分かれていた現状を改めて一本化しようとした。明治28年(1895)、大日本武徳会の西久保弘道が「講道館出身者が自己の学びしところを柔道と言うがごとく、剣術を学ぶ者も剣道と言うべきである。」と唱え、従来の人を殺傷するための武術という印象が強かった剣術を、「術を通して心身を鍛える」という剣道の在り方を示し「礼に始まり礼に終わり、人間形成の学習である」といわれるようになった。[剣道の特性]剣道といえば「心身の鍛練」の一言でいわれてきたが、具体的には次のようなことが挙げられる。(1)心的側面:旧武徳会が定めた「武の三則」によれば『正義を尚び、廉恥を重んじ、礼節を旨とすべし』とあるが、「正義」は陽明学の看板であり、「廉恥」は武士道の根幹である。また「礼節」を尊ぶことは儒教の中核的な教えであり、この三徳こそ剣道を志す者の拠り所であるという。(2)身体的側面:①剣道の打突は自然体による全身運動であるために“正しい姿勢の育成ができる。”②常にはだしで床上を摺るため“足裏を刺激して健康体になる。”③“手の指や手の甲の摩擦が血液の循環を促す。”④“腹式呼吸によって肺活量が増す。”⑤“老年まで楽しめる。”[剣道とフェンシング]フルーレ、エペ、サーブルの3種類に分けられるフェンシングは、その起源や防具をつけた練習など剣道が歩んだ道とほぼ同じような道を経てきたと思われる。剣道が武士を中心に行われてきたのに対し、フェンシングが騎士の教養科目として行われてきた点も共通している。一方、両者の違いをみてみると、①フェンシングが突くことを主にするのに対して剣道は打つことが主である。②フェンシングが片手で行うのに対して剣道は両手で打つ。③フェンシングは剣先が相手の所定位置に触れると直ちにランプが点灯して判定が下されるが、剣道は「気剣体」の一致に基づく技の質を見て審判が判定を下す。剣道も国際化が進み、世界選手権も開催されるまでになったが、こうした「一本」の判定基準を外国人が理解してくれるかどうかや、修行としての剣道という精神的な意義が通用するかどうかなどが問題点として挙げられている。

「空手」

人類初期の武術は、道具ではなく手足を使って相手に殴りかかったり蹴ったりする単純な“拳法”であったと思われる。こうした拳法は世界各地で今日まで伝わっているが、我が国の“空手”の歴史については不明な点も少なくない。[空手の渡来]中国と往き来が盛んであつた琉球(沖縄)には早い段階から中国拳法が伝わり、15世紀には当時の琉球の支配者・尚氏が武器の携帯を禁じたこともあって拳法が武術として行われていた。“空手”を最初に紹介したのは富名越義珍(松涛館流)であったのではないかとされているが、大正5年(1911)ごろ京都武徳殿で演武を行い、さらに講道館で「ナイハンテ」の形や約束手を披露して東京で空手の普及活動に入った。その後、宮城長順(剛柔流)、摩文仁賢和(糸東流)などが次々に上京して普及に努め、富名越の弟子である大塚博紀と共に四大流派を起こすまでになった。また、当時の“唐手”の呼称を“空手”としたのは「唐」が中国を思い起こさせることから「空」にしたといわれるが、なぜ「空」にしたかについては諸説があって定かでない。大日本武道会が正式に“空手道”と認めたのは昭和14年(1939)のことであった。[空手の試合]空手の試合は体重制で行われるのが一般的である。手足を使って突きや蹴りを行うために手足の長さの違いが試合の結果に直接影響を及ぼす可能性が高いためである。また、危険防止の観点から相手の顔面や胴体に手が届く直前で止める「寸止め」が原則であるが、こうした伝統派空手に対して大山倍達が創始した直接打撃制を提唱する極真会という流派もあり、同会は年1回の全日本空手道選手権大会と4年に1回の全世界空手道選手権大会を開催している。[空手の技]基本的な技は、手を使う「突く」「打つ」「当てる」と足を使った「蹴る」、それに相手の手足の攻撃に対する「受け」からなる。手を使う技のうち代表的な「正拳」は握りこぶしで打つもので、人差し指と中指の付け根の部分を当てるが、手の指、こぶしの表裏、掌、肘、前腕などさまざまな部位を使う手もある。一方、足を使う技には足裏の甲や踵、膝などを用いて、前方に蹴るだけでなく回転したり払ったり飛んだりと多様な蹴り技がある。受け方は、手足を使い体をさばいて相手の攻撃をかわすのが基本だが、足のさばきが空手の特徴で、前後して相手の攻撃を防ぐと共に直ちに攻撃に転じることができる攻守一体型である。[組み手]攻め手と受け手に分かれて任意の技を出し合う「任意組手」、攻め手と受け手を決めずに自由に攻守を行う「自由組手」、試合形式で行う「試合組手」がある。また、安全対策として拳サポーター、マウスピース、ボディプロテクター、頭部や顔面を守るためのマスク(ニューメンホー)などを用いる。試合は個人戦と団体戦があるが、時間内に本数・得点が多い方が勝ちとする方法の三本勝負で行われる。1本のほか技あり2本で1本となり、危険な部位に対する攻撃は「禁手」として懲罰の対象となる。[国際化]現在、我が国の空手人口は300万人ともいわれるが、国際的には157か国、3000万人の競技人口があるとされていて、隔年ごとの世界大会や世界大学空手道選手権大会、東京世界女子空手道選手権大会なども行われ、また、アジア競技大会の正式種目として登録されているなど国際化はますます進んでいる。

「合気道」

[合気道の起こり]合気道は日本古来の柔術、剣術、杖術などの武術を基に植芝盛平によって創始された現代武道である。和歌山県田辺市出身の植柴盛平が北海道開拓に従事していて、大正4年(1915)、会津藩(現・福島県)に伝わる大東流合気柔術の伝承者・武田惣角と出会ったことがきっかけである。武田の話に感銘を受けた植芝は直ちに入門してこれを学び、大正11年(1922)には教授代理を認められるまでになった。また、大正6年(1917)に、神道の一派・大本教の主催者であった出口王仁三郎と出会って精神的に大きな影響を受け、後の合気道の根幹をなす哲学を得たものと思われる。こうして昭和6年(1931)、皇武館道場設立。昭和15年(1940)には財団法人皇武会(後の財団法人合気会)を設立した。今日の合気道は、植芝が創始したもののほか、心身統一合気道、養神館合気道、合気道協会などの諸派もある。 [合気の意味]合気道の“合気”とはもともと日本古来の武術用語で、『相手の力に対して力で対抗するのではなく、相手の攻撃の意志やタイミング、力のベクトルなどの“気”に自らの“気”を合わせて相手の攻撃を無力化させるような技法』とされる。植柴はこれを『合気とは「人の気に合するの道」と解し、55の10、28の10、つまり相手が5の力できたらこちらは5の力、相手が2の力できたらこちらは8の力で応対し、相手と己の力の合計を10にする。これが和合の道である。』と説いた。しかし、相手の気に互いが合わせるということは馴れ合いの稽古になり相手を倒すのは難しいのではないか、という議論もあって今日では『合気道は天地の法則(気)を明らかにし、一挙手一投足も天地の法則に適うように鍛錬し、相手に勝つのではなく自己を完成する道である。』とされている。また、“合気道”の名称は創始当初から合気道といったわけではなく、植柴盛平が大正11年(1922)に武田惣角から「大東流合気柔術」の巻物を与えられた当座はそのまま「合気柔術」と称した。昭和に入るとほどなくして柔術の語を武道に変え「合気武道」と呼ぶようになり、第二次大戦中の昭和17年(1942)ごろには、柔道、剣道、弓道などと同じような名称に統一しようと、「合気武道」から「合気道」へと変更された。[合気道の稽古]合気道は試合を行わず、稽古は形の演武が主流である。合気道練習上の心得によれば、「勝敗を争わず、取と受の二人が組となって技を作っていく」となっている。無駄な力を使わず効率良く相手を制する独特の力の使い方や感覚を「呼吸力」「合気」などといい、これを会得することによって「相手の力と争わず」に相手の攻撃を無力化し、「小よく大を制す」ことが可能になるとされている。ここでいう「呼吸力」は盛平が自らの武道を確立する過程で生み出した造語であり、それまでの「合気」を彼の主観を通して表現し直したものといい、 合気道における「合気」が精神性を表す言葉として用いられるのに対し、「呼吸力」は主に「技法の源になる力」という意味合いで用いられる。[合気道の技]柔道は、柔道着の襟や袖を持って「組んで行う」乱取りによって投げ技や突く、蹴るなどの当身技、関節技などを修得するが、合気道は、柔術の技を「形」として残し、相手との間合いから当身技で崩し、相手の手首を取って投げるなどの総合武術である。したがって合気道の技は柔道と違って修得が難しいとされていたが、昭和15年(1940)ごろには、それぞれの技に「小手捻り」や「小手返し」、「押倒し」など分かりやすく、かつ客観的で具体的な名称を付けて親しみやすい合気道を目指すようになった。[国際化]昭和20年代後半になると、「勝敗を争わず心の面を教育する武道」というコンセプトが海外でも同調者を増やしていくようになり、昭和51年(1976)には29か国が加盟する「世界合気道連盟」が発足し、現在では80か国にも達している。


追記

歴代横綱

初代 明石志賀之助
2代 綾川五郎次
3代 丸山権太左衛門
4代 谷風梶之助
5代 小野川喜三郎
6代 阿武松緑之助
7代 稲妻雷五郎
8代 不知火諾右衛門
9代 秀ノ山雷五郎
10代 雲龍久吉
11代 不知火光右衛門
12代 陣幕久五郎
13代 鬼面山谷五郎
14代 境川浪右エ門
15代 梅ヶ谷藤太郎
16代 西ノ海嘉治郎
17代 小錦八十吉
18代 大砲万右エ門
19代 常陸山谷右エ門
20代 梅ヶ谷藤太郎
21代 若嶌權四郎
22代 太刀山峯右エ門
23代 大木戸森右エ門
24代 鳳谷五郎
25代 西ノ海嘉治郎
26代 大錦卯一郎
27代 栃木山守也
28代 大錦大五郎
29代 宮城山福松
30代 西ノ海嘉治郎
31代 常ノ花寛市
32代 玉錦三右エ門
33代 武藏山武
34代 男女ノ川登三
35代 双葉山定次
36代 羽黒山政司
37代 安藝ノ海節男
38代 照國万藏
39代 前田山英五郎
40代 東富士欽壹
41代 千代の山雅信
42代 鏡里喜代治
43代 吉葉山潤之輔
44代 栃錦清隆
45代 若乃花幹士
46代 朝潮太郎
47代 柏戸剛
48代 大鵬幸喜
49代 栃ノ海晃嘉
50代 佐田の山晋松
51代 玉の海正洋
52代 北の富士勝昭
53代 琴櫻傑將
54代 輪島大士
55代 北の湖敏満
56代 若乃花幹士
57代 三重ノ海剛司
58代 千代の富士貢
59代 隆の里俊英
60代 双羽黒光司
61代 北勝海信芳
62代 大乃国康
63代 旭富士正也
64代 曙太郎
65代 貴乃花光司
66代 若乃花勝
67代 武蔵丸光洋
68代 朝青龍明徳
69代 白鵬翔