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短歌

たんか(和歌・俳諧)


[短歌]
「短歌(たんか)」は、小学校の教科書から触れる伝統的詩歌である。日本固有の詩歌である「和歌(わか)」の形式の1つであり、「三十一文字(みそひともじ)」とも言われるとおり、5・7・5・7・7の5句、31音で構成される定型歌である以外には特に決まりはない。和歌とは長歌・短歌・旋頭歌・片歌などの総称であり、「やまとうた」とも呼ばれているが、数ある中でも狭義には「短歌」のことを指す。というのも記紀歌謡末期から万葉集初期の頃に成立して以来、古今を通じ広く詠まれ、長歌の衰退に伴って和歌といえば短歌を指すようになったという流れは「長歌」の項でも触れているので参照していただけると幸いである。和歌の中でも最もポピュラーであり、一般庶民に愛され続けてきた長い歴史を持つため、採り上げて説明するには少々広すぎるジャンルとも思えるのだが、全体像が見えるよう、歴史の流れに沿って触れてゆくことにする。

まず歌は各地で自然発生したであろうことは、常識的に考えれば想像できる範囲のものであろう。日常生活の中での雑然とした言葉をリズムに乗せることで、言葉を非日常的な、神の世界との交信を可能にすることができると考えた。発した言葉が物事の吉凶を左右するという思想、祝詞や忌み名などの思想は現在の日本でも見られる。言葉に宿る霊的な力を信仰する「言霊思想(ことだましそう)」を基に、文字の発生以前から古代人は歌にして心情を表現し、自分の意志を声に出し表明する「言挙げ(ことあげ)」が行われ、それが口伝・口承されてきた。日本各地に伝承された歌・舞を「風俗歌舞」と呼び、希少ながら現在にも伝えられている。これらの発生時期は定かではないが、上代歌謡の源流となり、繋がっていったと考えられている。日本舞踊「雅楽・舞楽」の項にも、歌舞の創成期について触れているので参照して頂ければ幸いである。

集団で高揚した時に発せられた叫び・掛け声から歌が形成され、祭などで集団で歌ったものを「上代歌謡」といい、「古事記」「日本書紀」に収録された上代歌謡を特に「記紀歌謡」と呼んでいる。上代歌謡という言葉は一般に、「日本書紀」の128首・「古事記」の112首・「風土記」の25首・「続日本紀」の8首・「仏足石歌碑」の21首・「日本霊異記」の9首などの万葉歌を指し、奈良時代末までの文献に収録されている歌の総称となっている。記紀歌謡には短歌形式のものが見られるため、長歌に伴った反歌(短歌と同型で、長歌の要約・補足などの目的で詠まれた)が独立したとも、短歌の成立後、発展して長歌が作られたとも言われるが、未だ明らかにはなっていない。しかし概ね7世紀頃には短歌が詩歌として完成したと言われ、日本最古の歌集「万葉集」が短歌の原点として位置付けられている。祝祭儀礼歌・集団歌舞歌・作業歌・遊行漂泊芸謡・宮廷化芸謡など種類も分類も様々あり、時代を経るに従い、個人が胸中を謡い表すという創作的立場を主体とした叙情詩、いわゆる「詩歌」へと変質してゆく。集団で歌われた歌謡では掛け合いで問答形式になったものが多かったが、統一国家が安定し、大陸から漢詩が入ってきた影響なども加わって個人で詠うようになると、自然に定型が浸透・慣例化していったと考えられている。

奈良時代~平安時代前期、政治において律令政治が始まり、並行して文学においては中国・唐の漢詩文が隆盛を極め、「凌雲集」「文華秀麗集」など勅撰漢詩集が編纂され、公的な文学として和歌を圧倒したのだが、その後の唐の弱体化や遣唐使廃止に伴い、平安時代中期の日本では「国風文化」への自覚が高まり、仮名文字の発達と同時に和歌が再び公的な場に復活し、歌合も行われるようになった。905年頃成立した日本最初の勅撰和歌集「古今和歌集」から1439年成立の「新続古今和歌集」までに「二十一代集」と呼ばれる勅撰集(天皇の勅命によって編集された歌集)が誕生することになる。この時期が短歌の最盛期とも言われているので、以下に二十一代集の概略に触れてみることにする。

「古今和歌集(こきんわかしゅう)」  三代集・八代集・二十一代集の第1に数えられ、「古今集」とも略される。905年(914年という説もある)、醍醐天皇の勅命により、紀貫之(きのつらゆき)・紀友則(きのとものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)の4人が撰し成立した。六歌仙・撰者らの歌1,110首余りを収め、全20巻の構成となっている。歌風は、雄健でおおらかな万葉集に比べ、「たをやめぶり」と呼ばれ、優美・繊細で理知的・観念的とされる。仮名序・真名序が添えられ、真名序は紀淑望、仮名序は紀貫之が執筆した。

「後撰和歌集(ごせんわかしゅう)」  三代集・八代集・二十一代集の第2に数えられ、「後撰集」とも呼ばれる。古今和歌集成立から半世紀を経た951年頃、村上天皇の頃に成立した。村上天皇は聡明で学芸に秀で、漢詩・和歌を推奨すべく和歌所を置き、「天暦の治」と呼ばれる善政で後世に名を残した。半世紀後に作られた「枕草子」では、この御代を治世の理想像としている。全20巻構成で、1,425首余りが収録され、大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ)・清原元輔(きよはらのもとすけ)・源順(みなもとのしたごう)・紀時文(きのときぶみ、貫之の子)・坂上望城(さかのうえのもちき)の5人が撰し成立した。最大の自然な感情である恋の歌を花鳥風月に託し、権門貴族・女房たちが華やかな物語世界を繰り広げる貴族の贈答歌が中心のもの。

「拾遺和歌集(しゅういわかしゅう)」  三代集・八代集・二十一代集の第3に数えられ、「拾遺集」とも呼ばれる。後撰和歌集から半世紀後の1006年頃、一条天皇の頃に撰進された。全20巻構成で1,350首余りが収録され、撰者は不明だが、花山院親撰とするのがほぼ定説となっている。「古今和歌集」の伝統を受け継いで典雅で格調高く、平明優美な歌風で、賀歌・屏風歌・歌合など晴れの歌が多い。

「後拾遺和歌集(ごしゅういわかしゅう)」  八代集・二十一代集の第4に数えられ、「後拾遺集」とも呼ばれる。白河天皇の勅命で藤原通俊(ふじわらのみちとし)を撰者として1085年の奉勅から1087年の奏覧まで3年を経て成立した。全20巻構成、1,220首余りを収録しており、平安時代後期の貴族社会が変化する中、三代集の伝統を乗り越えるべく編まれたという。よって古今・後撰集の歌人を外し、当代の歌人を重視したことが三代集との大きな違いであり、平安の最盛期の人々の作が網羅され、最盛期の宮廷生活をよく反映させたものと評価されている。

「金葉和歌集(きんようわかしゅう)」  八代集・二十一代集の第5に数えられ、「金葉集」とも呼ばれる。白河法皇の勅命により源俊頼(みなもとのとしより)を撰者として、三奏の後の1126年頃に成立したとされるが、現存するのは二度目の上奏の際の「二度本」の写本のみである。それまでの慣例を破る10巻構成で660首余りを収録し、ほぼ当代の歌人のみで編まれた。王朝貴族社会の解体に伴い、庶民世界との交流から誹諧味や田園趣味といった新味を加え、古今以来の伝統的用語・景物からの逸脱を推し進め過ぎた気風があり、趣向に偏り過ぎとの厳しい批判もあったという。

「詞花和歌集(しかわかしゅう)」  八代集・二十一代集の第6に数えられ、「詞花集」とも呼ばれる。崇徳上皇の勅命により左京大夫・藤原顕輔(ふじわらのあきすけ)が撰して1151年に成立した。410首余りを収録した全10巻構成で、新風を打ち出しつつも古今のバランスに配慮し、後拾遺集時代の前代歌人を重視し、当代の歌人の作品は原則として1人1首とした選歌は、彩り持った珠玉の歌集となっている。続詞花和歌集は顕輔の二男・清輔が撰者で二条天皇の勅命で編纂されたが、完成前に天皇が崩御したため私撰集になった。

「千載和歌集(せんざいわかしゅう)」  八代集・二十一代集の第7に数えられ、「千載集」とも呼ばれる。後白河法皇の勅命により藤原俊成(ふじわらのとしなり)が1188年に奏覧したと言われる。全20巻構成で1,280首余りを収録し、平氏が都落ちした年に後白河上皇が宣下し、源平争乱期を経て成立した。後白河法皇が高野山で保元の乱以来の戦死者の追善法要を行ったことに基調を置き、詠嘆述懐調の歌風に幽玄・有心を追究し、貴族から武士へ政権が移りゆく無常の世に、戦没者への鎮魂を込めて後白河院が編ませたとされる。僧侶の入選が全体の約19%を占め、勅撰集の中では最高比率になっている。

「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」   八代集・二十一代集の第8に数えられ、「新古今集」とも呼ばれる。後鳥羽上皇の勅命により源通具(みなもみちとしとも)・藤原有家(ふじわらのありいえ)・藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)・藤原家隆(ふじわらのいえたか)・飛鳥井雅経(あすかいまさつね)・寂蓮(じゃくれん)ら6人を撰者とし、1205年に奏覧したが改訂作業はその後10年余り続けられた。八代集中最多の1,980首余りを収録した全20巻構成で、それまでの7集を集大成する目的で編まれ、「余情妖艶」を追究、本歌取の技法を確立するなど、新興文学の連歌・今様の脅威の下にあった短歌界に典雅・古典を復帰させようとした。「万葉」「古今」と並び三大歌風の一つである「新古今調」を創出し、文学界に絶大な影響を及ぼし、短歌の文化は頂点を極めた。この背景として鎌倉時代、政権を奪われた貴族たちが伝統文化を心の拠所としたことから和歌は盛んに詠まれた。鎌倉幕府への対抗意識もあって後鳥羽院は和歌に非常な熱意を示したという。

「新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)」  十三代集の第1、二十一代集の第9に数えられ、「新勅撰集」とも呼ばれる。後堀河天皇の勅命で藤原定家(ふじわらのさだいえ/ていか)が撰者となり、1235年に完成した。全20巻構成、1,370首余りを収録し、華やかな新古今調から一転して平明枯淡・保守的な歌風となり、定家の晩年の趣向の影響と言われる。表現の華麗さよりも心の内実を重んじた撰と指摘されるが、これが二条派に尊重され、中世和歌の手本となったという。

「続後撰和歌集(しょくごせんわかしゅう)」  十三代集の第2、二十一代集の第10に数えられ、「続後撰集」とも呼ばれる。後嵯峨上皇の勅命により藤原為家(ふじわらのためいえ、冷泉為家)が撰して1251年に成立した。全20巻構成、1,400首余りを収録し、歌の排列に細心の注意が払われた調和のとれた構成は絶妙と評される。新古今時代の主要歌人の歌を多く収録しているが、万葉集から当代まで幅広く取材している。

「続古今和歌集(しょくこきんわかしゅう)」  十三代集の第3、二十一代集の第11に数えられ、「続古今集」とも呼ばれる。後嵯峨院から勅命を受け、藤原為家(ふじわらのためいえ)が撰者となったが、3年後に為家の御子左家(二条派)と反対勢力であった九条基家・衣笠家良・六条行家・真観(葉室光俊)が撰者として加わったことで憤慨した為家は、嫡男・為氏に仕事を任せたとの逸話もある。全20巻構成、1915首余りを収録して1265年に奏覧し完成した。九条基家筆の仮名序と菅原長成筆の真名序を有し、活発で華やかな後嵯峨院歌壇を反映した多彩な作風であるが、撰者の歌観・対立などが選歌にそのまま顕れたとも言われる。

「続拾遺和歌集(しょくしゅういわかしゅう)」  十三代集の第4、二十一代集の第12に数えられ、「続拾遺集」とも呼ばれる。亀山院の勅命を受け藤原為氏(ふじわらのためうじ)が撰者となり、1278年に奏覧して完成した。全20巻構成、460首余りを収録し、御子左家(二条派)の父・為家の続後撰集を受け継ぐが、全体的な構成としては千載集に立ち返っており、復古的で平淡優美な歌集となっている。父・為家の歌が43首と最多で収録される他、御子左家系の歌人が多い。

「新後撰和歌集(しんごせんわかしゅう)」  十三代集の第5、二十一代集の第13に数えられ、「新後撰集」とも呼ばれる。後宇多院の勅命を受け二条為世(にじょうためよ、藤原為世)が撰者となり、1303年に奏覧して完成した。全20巻構成、1,610首余りを収録し、新勅撰集・続後撰集に倣った構成である。御子左家(二条派)が多く収録されているものの、対立派の京極派の歌も割合多く、異色にも津守氏を優遇しているため「津守集」とも呼ばれるほどである。

「玉葉和歌集(ぎょくようわかしゅう)」  十三代集の第6、二十一代集の第14に数えられ、「玉葉集」とも呼ばれる。伏見院の勅命を受け京極為兼(きょうごくためかね)が最終的に撰者となり1312年に奏覧して完成したが、完成まで複雑な経緯がある。当初勅命の下った4人の撰者のうち2人が死亡、1人が配流になり、再度の勅命で配流された為兼が撰者となり、反対派を押し切って京極派色の強い歌集として完成させた。全20巻構成、2,800首余りを収録し、勅撰集の二十一代集で最大規模である。万葉集から当代にまで及ぶ取材や名義は「万葉集」を連想させるが、斬新かつ革新的な技法を採用し、優美ではないが目新しく非凡な歌集となった。

「続千載和歌集(しょくせんざいわかしゅう)」    十三代集の第7、二十一代集の第15に数えられ、「続千載集」とも呼ばれる。後宇多院の勅命を受け二条為世(にじょうためよ、藤原為世)が撰者となり1320年に奏覧して完成した。全20巻構成、2,100首余りを収録する。玉葉集の革新的な歌風は排除され、対立派の歌人を極度に減らし、全体として形式的・保守的な構成であるのも二条派を重んじた収録のためであろう。

「続後拾遺和歌集(しょくごしゅういわかしゅう)」  十三代集の第8、二十一代集の第16に数えられ、「続後拾遺集」とも呼ばれる。後醍醐天皇の勅命を受け、二条為藤(にじょうためふじ)が撰者となったが急逝したため、為藤の養子・二条為定(にじょうためさだ)が撰者となり1326年に奏覧して完成した。全20巻構成、1,350首余りの収録は十三代集中のうち最少であり、二条派を重んじ、対立する京極派の歌人の収録は非常に少なく、保守的で平凡な歌集としてまとまっている。

「風雅和歌集(ふうがわかしゅう)」  十三代集の第9、二十一代集の第17に数えられ、「風雅集」とも呼ばれる。花園院が監修し、光厳院が親撰するという、勅撰集の二十一代集の中でも特異な歌集となった。正親町公蔭・玄哲(藤原為基)・冷泉為秀らが寄人となり1348年頃に完成した。全20巻構成、2,210首余りを収録し、万葉集と同じく真名序・仮名序を有する大勅撰集の風格がある構成となっている。玉葉集の歌風を受け継ぎ、完成期の京極派と、その後継である後期京極派の歌人たちが代表歌人として収録され、繊細な自然描写と閑寂な風雅を追求し、千利休の茶道に通じるようなワビ・サビを感じさせる歌集である。

「新千載和歌集(しんせんざいわかしゅう)」  十三代集の第10、二十一代集の第18に数えられ、「新千載集」とも呼ばれる。後光厳天皇の勅命を受け、二条為定(にじょうためさだ)が撰者となり1359年に奏覧して完成した。全20巻構成、2,360首余りを収録しており、玉葉集に次ぎ勅撰集の二十一代集の中で第二位の規模を誇る。二条家歌人と近代の天皇を重んじて収録し、南朝方の歌人は入集していないものの、万葉集の頃から当代まで幅広く取材しており、伝統的な詠風で保守本流の歌集としてまとまっている。

「新拾遺和歌集(しんしゅういわかしゅう)」  十三代集の第11、二十一代集の第19に数えられ、「新拾遺集」とも呼ばれる。後光厳天皇の勅命を受け、二条為明(にじょうためあきら)が撰者となったが完成前に病没したため頓阿(とんあ・とんな)が継いで撰者となり1364年に奏覧して完成した。全20巻構成、1,920首余りを収録しており、為明の父・為藤が最多入集の他、二条派歌人が多く収録され、持明院統の天皇が優遇されつつも対立派である京極派も収録され、保守的になりがちな二条派なりに多彩さと新味が加えられた歌集となっている。

「新後拾遺和歌集(しんごしゅういわかしゅう)」  十三代集の第12、二十一代集の第20に数えられ、「新後拾遺集」とも呼ばれる。鎌倉幕府第3代将軍・足利義満の執奏による後円融院の勅命を受け、二条為遠(にじょうためとお)が撰者となるが急逝したため、二条為重(にじょうためしげ)が継いで撰者となり、1384年に完成した。全20巻構成、1,550首余りを収録し、ほぼ続拾遺集に倣って作られているが太政大臣・二条良基(にじょうよしもと)の序を有する。当代歌人の占める比率が比較的高く、京極派歌人が少ないが、比較的身分の低い武士や僧侶などが新顔として収録されている。新古今風の伝統的で優艶な歌風の歌集となっている。

「新続古今和歌集(しんしょくこきんわかしゅう)」  十三代集の第13、二十一代集の第21に数えられ、「新続古今集」とも呼ばれる。鎌倉幕府第6代将軍・足利義教の執奏による後花園天皇の勅命を受け、権中納言・飛鳥井雅世(あすかいまさよ)が撰者となり1439年に完成した。全20巻構成、2,140首余りを収録し、真・仮名序は共に古典学者であった摂政関白・一条兼良(いちじょうかねよし、かねら)による。衰退してしまった二条家に代わり異例の飛鳥井家の撰であるが伝統的な二条派の歌風と変化はなく、流れとして新古今的な幽玄・優艷の追求を継承している歌集である。

以上、二十一代集を簡略に触れてみたが、古今集から新続古今集まで500年余りの流れに少し触れておく。古今集により新しい様式を完成した平安時代の和歌は、100年余りのうちに様式の様々な可能性は追求し尽くされて活力を失い、より新しい和歌を求める時代になっていたようだ。江戸時代までの主流の詠歌態度として、万葉集の頃とは異なり自己の実感を極力抑えて想像世界をいかに美しく詠むかにあったようだ。洗練された言葉・巧緻な技法が次々と求められ、象徴的表現・本歌取りの技法などを用い、想像した世界を絵画や物語のように美しく謳い上げるのである。実体験ではなく空想世界を詠んだものが大半を占めるなど技巧化が進む中、自然への愛や人生観を詠んだ西行、万葉調の源実朝も尊ばれたようだ。そんな中で生じた幽玄への追求は仏教的無常観と相まって、わび・さびの中世的美意識の先駆となったという。
歌壇の大きな流れとしては「新古今和歌集」編纂の中心となった藤原定家と子・為家が亡くなると、家系・歌壇共に二条派・京極派・冷泉派の三派に分かれて対立したことで歌風の相違が生じた。南北朝の頃から和歌は僧侶や武士を中心に詠まれるようになり、形骸化した和歌は衰退してしまったという。

その後の戦国・江戸時代を経て明治まで短歌の文化は継承されるが、俳諧に比べて伝統的・貴族的な和歌の革新は遅れがちであった。江戸・元禄期には因襲性の批判から伝統への反省が生じ、日本独自の文化・思想・精神世界を明らかにすることを目的として本居宣長(もとおりのりなが)や賀茂真淵(かものまぶち)らを中心に国学が誕生した。国学の中で研究の中心は万葉集にあったが、江戸時代後期になると京都で和歌革新の動きが起こり、歌人・香川景樹(かがわかげき)を中心に「桂園派」が登場した。桂園派は二条派の分流でもあり「古今和歌集」を尊重して声調を重んじ、明治時代初期頃まで歌壇で重きをなした。明治半ば頃からは日本の伝統短歌に西洋の詩を導入して表現するという「口語短歌」の試みが始まり、石川啄木(いしかわたくぼく)などが有名である。口語短歌運動は今日まで続いているそうだ。
明治時代以降から戦前にかけて、義務教育の教科書にも登場する有名で優れた歌人が登場し、数々の名作を残している。よく知られているので名前と歌風だけ触れてゆく。
明治時代の主要な歌人
「伊藤左千夫(いとうさちお)」  率直な感情に即し、荘重な響きの歌風。
「正岡子規(まさおかしき)」  近代短歌の革新者といわれ、「万葉集」を理想とし、客観写生の歌風。
「与謝野晶子(よさのあきこ)」  歌集「みだれ髪」で知られ、女性的な官能・情熱を、大胆で絢爛たる言葉でうたう浪漫主義的歌風。
「与謝野鉄幹(よさのてっかん)」  「明星」を創刊し、日本近代浪漫派の中心となった。初期は「ますらおぶり」と呼ばれる歌風。
「石川啄木(いしかわたくぼく)」  歌集「一握の砂」「悲しき玩具」で知られ、貧困生活の中から深い哀傷と軽やかなリズムを持つ歌風。
「若山牧水(わかやまぼくすい)」  自然主義の歌人で、旅と自然を多く題材にし、愛唱性に富む響きの良い歌風。
大正時代の主要な歌人
「斎藤茂吉(さいとうもきち)」  生々しく強烈な生命感を有する歌人で、重厚で格調高い歌風。
「北原白秋(きたはらはくしゅう」 童謡で知られる。豊饒な感性で頽廃的・耽美的な歌風だが、後期は枯淡の世界へ目を向けた。 

現在は「サラダ記念日」で有名な俵万智(たわらまち)などの歌人が活躍している。叙情詩であるため内容が自由であり、恋歌・日常の描写・社会問題・子の成長・物語・幻想世界に至るまで何でも受け入れられることが現在まで根強い人気を集めている魅力の一つであろう。近代以降の歌人の多くは短歌結社に所属し、その結社の雑誌に作品を発表しているようだが、新聞等の投稿欄に作品を寄せている歌人も多く、その場合は特に「投稿歌人」などと呼ばれるようだ。また最近はインターネットのホームページやブログに作品を発表する「ネット歌人」も現れてきているという。

総論
短歌を詠まない筆者には、それを愛する感覚が捕らえ難いものなのだが、芸術を完成させた時の達成感に類するものだとすれば、無防備の素人でも入りやすいものではないだろうか。完成度は評価する人間があってのものなので自分が楽しむ範囲であれば、形式や道具や題材が自由かつ極力少なくて済む短歌は、非常に馴染みやすいものであろう。しかしながら短歌の可能性は逆に無限大で頂点がないように思え、詠み出したら完成まで時間がいくらあっても足りないようにも思う。歌人が題材を捕らえて当意即妙に軽妙洒脱で絶妙な歌を完成させているならば、やはり凡人が詠むのは無謀にも思え…要するに筆者には近くて遠い存在に思えるのである。創作は自己表現であり、少なからず作り手の人間性が出てしまう訳で、数をこなせばとも言われるが、稚拙な歌ならやはり稚拙な部分が自分にあると認めねばならない、多分そこが筆者には越えられない山なのである。

付記

万葉仮名一覧

あ 阿安吾足
い 伊夷怡以異已移易射五
う 有宇于羽烏紆菟鵜卯得
え 衣愛依埃榎荏得
お 意於隠飫憶応乙
か 加日可賀何珂迦嘉架伽歌舸鹿蚊香
が 何我賀河宜蛾餓俄
き乙 貴紀幾奇寄記既気城木樹
ぎ乙 疑宜義擬
き甲 支吉岐伎棄企寸杵来
ぎ甲 芸伎祇岐儀蟻
く 久来玖口苦丘九鳩具倶供君
ぐ 具求遇隅虞愚
け乙 気既該毛食飼消
げ乙 義気削宜礙
け甲 祁家結計鶏結価兼険異係
げ甲 下牙雅夏
こ乙 己許巨居去虚忌興木
ご乙 其期碁凝語御馭
こ甲 古故姑候孤枯児粉
ご甲 胡呉後吾籠児誤悟娯
さ 佐沙作狭左者柴紗磋舎差草散
ざ 射蔵奢社謝座装
し 斯志之指師紫新四始子思司芝詩旨寺時此次水芝死偲事詞伺信色式磯為
じ 自司爾士慈尽時寺仕弐児餌耳下
す 寸須周栖酒洲州珠主数素殊酢渚為
ず 受授殊儒
せ 勢世西斉是瀬背脊迫
ぜ 是湍筮
そ乙 曾所憎僧増則衣背苑襲
ぞ乙 叙存序賊茹鋤
そ甲 蘇宗祖素十麻
ぞ甲 俗
た 多太他丹立駄党田手
だ 太大陀驒嚢
ち 知智陳道千乳血茅
ぢ 遅治地恥尼泥
つ 都豆通追途徒川津
づ 豆頭逗弩
て 提天帝底堤手代直
で 提代伝殿庭田泥弟涅
と乙 止等登騰藤得鳥澄十跡迹常
ど乙 杼等騰藤特耐
と甲 刀斗土度徒渡戸門利速
ど甲 度渡土奴怒
な 那奈寧南難名魚中菜七男
に 迩仁日二尼耳人弐丹柔煎荷煮似
ぬ 奴怒努濃農沼宿
ね 尼禰泥年根宿
の乙 乃能笑荷廼
の甲 努怒奴野
は 波播幡速芳婆破方八房半薄伴泊簸倍早羽葉歯者
ば 婆伐魔磨
ひ乙 非斐秘肥悲飛被彼妃費火樋干乾
び乙 備肥秘媚眉
ひ甲 比卑必檜臂賓嬪譬避日氷負飯
び甲 鼻妣婢弥
ふ 布部不敷富府否負符浮経歴
ぶ 夫父部扶歩矛府柔
へ乙 閉倍拝陪背俳戸綜経
べ乙 倍陪毎
へ甲 平蔽霸幣陛遍返反弁部辺重隔
べ甲 弁便謎別部
ほ 富菩凡方百帆保宝本朋倍抱報穂火
ぼ 煩菩番
ま 麻磨万前馬末摩満魔真間目鬼
み乙 未味尾微身実箕
み甲 美民瀰三御見水参視
む 牟武模務無謀霧夢六
め乙 米梅迷昧毎目眼海
め甲 売馬面迷女
も 毛母茂望文聞忘木方面蒙畝問門物裳藻喪
や 移夜楊耶野也屋八矢箭
ゆ 由喩遊油湯
え(ヤ行) 叡延遥要兄曳江枝吉
よ乙 余与予誉世吉四代
よ甲 用欲容庸夜
ら 羅郎良浪楽等
り 利理里隣梨離入煎
る 留流琉類盧婁
れ 礼例列烈連戻
ろ乙 呂侶慮
ろ甲 漏路盧楼露
わ 和倭丸輪
ゐ 為位威謂偉井猪藍居
ゑ 恵廻隈坐座咲面
を 乎烏遠怨呼少麻男雄緒越小綬