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菓子「和菓子・煎餅」

かし「わがし・せんべい」(日本食)


[菓子「和菓子・煎餅」]
日本の菓子類は明治維新を境にして急速に種類が増え、同じ分類の菓子でも数十種、あるいは百種類以上存在するかもしれない。そもそも日本で伝統的に食されてきた菓子とは何であろう?
まず人類は有史以前から蜂蜜・果物などの甘味を好んで採取していたことは考古学的にも立証されており、日本でも当初は果物に「菓子」「果子」の字が当てられたという。現在の菓子の源流とも言える、穀類の粉を加工した「唐菓子」の製造方法は中国から伝播したとされるが、穀物加工技術の発展に加え、唐菓子・南蛮菓子・西洋菓子など外来の菓子の影響を受け、日本の菓子は発展してきた。なかでも和菓子は日本独自の菓子として名が挙げられ、身近に親しまれてきた日常的な食べ物であるが、その多くは伝統的な生活行事や冠婚葬祭などの人生の節目に合わせて伝承されてきた。また、四季折々の風物詩を取り込んで我が国古来の茶道と共に歩んできた高級なものから、「お茶菓子」と呼ばれるようにひと時の憩いの場の友として気楽に親しまれてきたものまで各種がある。一方「煎餅(せんべい)」は、昔から菓子のなかで最も親しまれている大衆的な干菓子(焼き菓子)であり「米菓」に大別され、年齢を問わず人気がある。以下、和菓子・せんべいにしぼってトピックスを集めてみた。
[饅頭(まんじゅう)] まんじゅうは当時の諸々の文化と同じように中国から伝来したもので、鎌倉幕府の記録「吾妻鏡」に出てくる「十字饅頭」が初めての記録らしい。京都五山の一つ東福寺の聖一国師が宋からその製法を持ち帰ったのだという説や、1341年に宋から帰朝した同じく京都建仁寺の龍山禅師が伝えたという説などがある。初めは鶏肉や鴨肉、野菜などを詰めて蒸して作られたが、やがて小麦粉に餡を詰める形式のものが作られるようになり、桃山・江戸時代の茶道の隆盛期に発達して今日の原形をなしたという。砂糖が非常に貴重な時代は特権階級の人々だけが食する食べ物であったが、やがて庶民の間に普及が進むと、全国各地でそれぞれの特徴をもった饅頭が作られるようになった。
[団子(だんご)] 団子は遣唐使がもたらした唐菓子(からくだもの)がルーツだというが、唐菓子のなかの一つである「団喜」が変じて今日の団子となったらしい。神仏への供物としての歴史があり、たとえば「みたらし団子」は下鴨神社の御手洗祭の神饌菓子であったが、饅頭同様、一般に普及するようになると各地で次々と特徴ある団子が作られ、桃太郎の昔話に出てくる「黍団子(きびだんご)」や「追分団子」、うさぎの餅つきで親しまれる「月見団子」などさまざまな団子が出現した。
[羊羹(ようかん)] 羊羹という熟語にはヒツジの字(羊)が三個も含まれていることから想像できるように、もとはヒツジの肉を汁で煮込んだ中国の食べ物であったものが、平安時代に遣唐使によって我が国にもたらされたのだという。初めは赤豆、麺粉、砂糖を材料とした「蒸し羊羹」が主流であったが、1600年ごろに「てんぐさ」と「和三盆」を使った「練羊羹」が考案され、さらに江戸時代の末には「水羊羹」が生まれて今日の代表的な羊羹の三つの流れが固まったのだといわれる。ただし、水羊羹についていえば、材料は小豆と砂糖、寒天を使うものの、水分が多くて軟らかいだけの羊羹であったらしく、冷やして食べる今日の「夏の季節菓子」のようなものであつたかどうかはわからないらしい。その後、庶民の間に普及が進むにつれて各地で特色ある羊羹が作られるようになり、現在では栗、梅、柚子、くるみ、柿、杏、無花果、枇杷、葡萄、レモン、りんご、桃などを使ったものがいろいろと製造されている。
「豆菓子」 豆類は古代からの重要な作物であり、種類も豊富で、大豆類、小豆類、いんげん豆、えんどう豆、そら豆などに大別される。豆菓子は豆そのものを炒った「はじき豆」や「塩豆」がよく知られているが、最近ではたこ焼きソース味やヨーグルトや青りんごをまぶしたもの、落花生に黒砂糖をまぶしたもの、しそやウニを使用したものなど変り種も多い。また、明治期に入って登場した「甘納豆」は煮豆菓子の代表的な存在で、大納言小豆、金時小豆、うずら豆、縁えんどう豆、そら豆、落花生など多くの種類が定着した。
[干菓子(ひがし)] 生菓子に対して、乾燥して水気を含まない菓子をいうが、花鳥風月を写したもの、伝統や物語・古来からの生活行事などに由来するものなどが精巧微細に表現されているのが特徴である。代表的な種類としては落雁(らくがん)、飴細工、有平糖、金平糖、砂糖漬菓子などがよく知られているが、なかでも落雁は日本最古の菓子の一つといわれていて、生活行事だけでなく茶席でも好んで用いられてきた。
[茶道と和菓子] 茶の湯の菓子は今日でいうデザートのようなものと考えられるが、千利休や古田織部のころには焼き栗、柿、椎茸、昆布、きび餅、寒ざらし飴などが主たるものであったらしい。幕末から明治期はじめになると羊羹やちまき、草餅などが出されるようになったというが、干菓子は茶道の普及に合わせて発展し、我が国独自の「わび、さび」の文化形成に一役買ってきたといえる。
続いてせんべいの歴史から触れてみることにする。
現在の主流である醤油味のせんべいは江戸時代に登場したといわれているが、せんべいの歴史は古く、言い伝えによれば唐に渡った弘法大師がその製法を持ち帰ったのが最初だという。「餅」は中国では小麦粉、粟、緑豆などの粉を水で練って平たくした食品全般を指し、「煎」は鉄板で焼くことを指すということから、中国の「煎餅」は小麦粉などの粉を水で練って鉄板で焼いたものである。天正年代(1573~1592)の税帳にも「煎餅」という記述がみられるそうだが、当時のせんべいは油揚げ餅のことを指したらしいという。以下、せんべいに関わる話題を集めてみた。
[醤油せんべい] 弘法大師が開いた西新井大師の門前町の「入山せんべい」は備長炭を使った昔ながらの手焼作業で作られている。また、深川不動の門前では、醤油の重ね焼で黒々とした「黒子せんべい」、もろみ醤油に海苔を巻いた田村焼、上質なゴマを使用した「胡麻せんべい」、海苔を入れて焼いた「海苔せんべい」、七味をふんだんに使った「山椒せんべい」、激辛の「特辛子せんべい」、金箔貼りの「と金」、季節ものの「桜せんべい」などがある。
[江戸時代の名物せんべい] 当時人気の歌舞伎狂言「助六」の舞台で登場する人物に「朝顔仙平」という通行人がいるが、これは市井で評判を得ていた「槿(あさがお)せんべい」をもじったものであつたという。せんべいは江戸期300年の歴史のなかで町人が生んだ食文化の一つで多種多様のせんべいが世に出た。たとえば百人一首のかるた形の「歌せんべい」、銅鍋で表裏を焼いたかき餅風の「軽焼せんべい」、落花生など豆類を入れて焼いた「南部せんべい」、味噌を練りこんで作る愛知の「八丁味噌せんべい、」京で有名な「聖護院八つ橋」などがよく知られている。こうした江戸期における醤油せんべい人気の一方で、せんべいの原点といわれる小麦粉、卵、砂糖を用いた「瓦せんべい」が各地で売られていた。「和名抄」にある小麦粉せんべいが時代につれて進化したものだが、ほかにも、関西ではもち米を使ったかき餅がおかきと呼ばれて好まれていた。
[草加せんべい] せんべいは江戸時代に飛躍的に発展したといわれるが、なかでも「草加せんべい」が有名になったのは、一つは柴又から草加にかけた一体で江戸の初めごろから古米を粉にして焼く間食の習慣があり、それが一般に出回ったこと。二つめは、正保年代(1600年代ころ)に醤油が民間にも広まって江戸の人々に常用されるようになり、それとせんべいが結び付いたこと。さらに、草加が奥州街道の宿場として栄えていたためにそこへ物産が集中して売られたことが三つ目の理由となった。
[おこし] おこしのルーツは神代まで遡るという伝統食である。「著聞書」には、おこしは米を熱して膨らませることから「興米(おこしごめ)」と記されているが、米を発酵させることを「寝かす」というのに対して付けられた呼称だという。東京・浅草で有名な「雷おこし」は江戸時代から250年以上も続く伝統菓子で、炊き上げた粳米(うるちまい)を乾燥させて粒状にしたものを水飴で固めたもの。ほかにも、もち米を蒸して餅にしたものを薄く伸ばして乾燥させ、細かく切ってから蜜と混ぜて作った埼玉県熊谷市の「五家宝」などもよく知られている。

総論
お菓子と言えば、筆者くらいの年代ではポテトチップスに代表される「スナック菓子」の名が挙がり、次にケーキ類の「洋菓子」、次あたりにせんべい・あられなど「米菓」の名が挙がるのではないだろうか。お茶の友という感覚より、おやつの感覚である。毎日の日課として日本茶を愛飲する習慣は筆者にはなく、せんべいやあられを食する場合でも麦茶や烏龍茶を友にするのが通常になっている。夏のアイスクリームやシャーベットなどの氷菓や、四季を問わず食することができるゼリーやプリンなどの冷菓は、お茶の友にはならない。食習慣の欧米化に伴って、嗜好も欧米化してゆくのだろうか。