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酒「日本酒・焼酎」

さけ「にほんしゅ・しょうちゅう」(日本食)


[酒「日本酒・焼酎」]
現在の日本ではビールをはじめ、ワイン・日本酒・焼酎・ウィスキー・ブランデーなど、さまざまな酒が出回っており、中でもビールは明治維新以降圧倒的支持を集め、その風味をまねてアルコール度を下げた発泡酒も昨今では好評である。しかし、古来より日本に存在した伝統的な日本の酒とは?と問われて即答できるだろうか。本項ではその答えに当たる伝統的な日本の酒について触れてみることにする。
[酒の起源] まず人類が初めて酒を造った時期は明確ではないが、少なくとも7000年ほど前には既に酒造りが行われていたのではないかといわれている。我が国でも7000~6000年ほど前の縄文時代の遺跡から酒造りに使ったとみられる土器が発見され、また、青森県の三内丸山遺跡の縄文前期の地層や秋田県の池内遺跡からもヤマブドウやニワトコの種子が大量に発見されていることから、この時代には既に果実酒が造られていたのではないかと考えられている。さらに、果実酒だけでなく、この時代には雑穀を発酵させた酒も飲まれていたようだが、糖分で自然発酵する果実酒と違い、雑穀の場合は麹によらなければ発酵しないので、麹の無かった時代は人が口中で噛み、唾液中のアミラーゼで糖化させたのではないかと推察されるという。
[酒は媚薬?] 古代人はアルコールによる酩酊状態を神の力による神秘体験と考えたために、酒は神からの授かり物又はお供え物として宗教儀式に欠かせないものであったが、日常生活からの開放感を得るために、それが少しずつ庶民の間にも広まっていったらしい。しかし、庶民が飲酒を楽しみ酩酊する様子は権力者にとっては社会風俗の乱れとも映ったらしく、7世紀中頃には日本で初めて、祭事などの場を除いて飲酒を禁ずるという禁酒令を朝廷が出している。こうした禁酒令は江戸時代まで何度も繰り返し出されているが、繰り返し出されたということは、禁を犯して飲酒する人々が絶えなかったということでもあり、断ち難い酒の魅力を指しているといえるかもしれない。鎌倉時代には、幕府は「沽酒(こしゅ=酒の売買)の禁」を出して鎌倉の民家にある酒壷を1戸につき1壷だけ残して全部打ち壊したが、その数は合計 37,247壷あったということからも、自家用以外にいかに多くの酒が造られていたかがわかる話である。幕府のこうした強権発動にも拘わらず、1425年頃には洛中洛外で合計342軒の造り酒屋が営業していたという盛況ぶりであった。
[日本酒の起源] 現代の日本酒に通ずる米を使った酒造りは、紀元前2~3世紀ごろに稲作をもたらした人たちによって伝えられたと考えられているが、当初の濁り酒を押し絞って清酒に加工する方法は平安時代であったと思われる。そのころ、宮内省の中に造酒司(さけのつかさ)という役所が設けられ、酒は民衆から離れて朝廷のために造られるようになり、平安初期に書かれた『延喜式』によれば当時の宮中には10種ほどの酒があったらしく、小麦麦芽を加えて甘味を出した酒や、麹の量を増やした甘酒のような酒、水の代わりに酒で仕込んだ酒などがあり、酒造技術もかなり進歩していたことが推察される。その後、醸造法は一段と改良され、加熱殺菌のための火入れや、蒸米、麹米のどちらにも白米を使用する諸白という製法が産み出され、江戸期の元禄ごろには現在に至る酒造りの基本が出来上がったといわれる。
[灘の酒] こうした中で産地として著名になったのが灘である。灘の酒が有名になったのは江戸中期のことで、六甲山系の豊富な水と間近に港を抱えた立地のよさもあり、蒸米10石に対して水1石(十水:とみず)と、水の量を増やした技法で現在とほぼ同じ酒を大量に造ることができるようになって不動の地位を確立した。さらに、硬度8度前後の硬水で地下4~5メートルの浅井戸に湧く水の発見でおいしい酒造りが一段と進んだ。これは六甲山系に発し貝殻層を通って流れ落ちた水と海岸から浸透してきた塩分とが混じった水で「宮水」と呼ばれる米造り用の水である。また、明治期に入ると醸造技術を向上させようという気運が高まり、明治37年に東京・王子に国立醸造試験所が設置され、酒造りの研究は大いに進歩した。なかでも明治28年に酵母の存在がわかったのが画期的な出来事で、それまでは、麹菌が糖化作業の段階で糖分をアルコール発酵させる物質に変わるのだと清酒学者ですら思いこんでいたという。こうして今日の日本酒の基が確立したのである。
[焼酎の起源] 前述の日本酒や泡盛と共に古くから人々に親しまれてきた蒸留酒が焼酎であり、全国各地で米、さつまいも、麦などのほかさまざまな原料を用いて造られている。起源については、「1400年代に朝鮮大宗から対馬藩主(長崎県)に高麗酒という焼酎が送られた」「14世紀から15世紀にかけて東シナ海から南洋地域に進出した倭寇が持ち帰った」「15世紀ごろに、シャム(現・タイ)と交流があった琉球を経て伝えられた」「琉球の対岸にある中国・福建省からもたらされた」など幾つかの説がある。焼酎の最大の特徴は、「でんぷん」を含んでいればほとんどのものが原料となることで、なかにはアロエ、牛乳、サボテン、コーヒーなどの変り種もみられる。そこで、焼酎の製造法を中心に「焼酎の味」についてまとめてみたい。
[焼酎の製造] 焼酎造りに欠かすことができないのが焼酎酵母菌であり、これによって原料に含まれるでんぷんを糖質に分解し発酵させることでアルコール分を作り出す。焼酎造りに用いられる焼酎酵母には「宮崎県酵母」「鹿児島県酵母」「協会焼酎酵母2号」「泡盛1号酵母」などがある。
蒸留方式の違いによって甲類焼酎と乙類焼酎に区別され、明治時代以降に誕生した「連続式蒸留器」によるものが甲類、乙類は「単式蒸留器」を使う昔ながらの伝統製法によるものである。大量に生産される甲類焼酎はホワイトリカーとも呼ばれ、無味無臭に近いことからサワーや酎ハイに用いられ、それだけで味わうことは稀である。
単式蒸留方式のうちの一つが「減圧蒸留」があり、常圧では90℃程度で沸騰する醪(もろみ)を蒸留器の内部を真空にすることで50℃程度まで下げ、醪の柔らかな香りをそのまま出来上がった焼酎に生かす方法である。雑味成分が少なく、癖のない軽やかな味わいが特長で、かつての強い個性の焼酎のイメージを一新させるのに役立った。軽快で癖のない飲み口の焼酎を造る減圧蒸留に対し、昔ながらの製法が「常圧蒸留」である。やかんで湯を沸かすのと同原理で、醪に高温の蒸気を当ててアルコール分を気化して取り出す。軽やかさはなくなるが芳醇で豊かな風味が長所である。
蒸留直後の焼酎は酒質が安定していないために一定期間貯蔵して安定させることが必要となる。貯蔵は、使用する容器や場所、期間などによって違いが生まれ、それが焼酎の個性ともなる。なかでも容器が果たす役割は大きく、甕、タンク、樽の三種が蔵元によって使い分けられている。また、泡盛のように長期間醸成させるほど風味が増すものは5年、10年あるいは数10年寝かせることも珍しくないといい、常夏の沖縄では、温度と湿度が低値安定していて貯蔵にうってつけの涼しい鍾乳洞を貯蔵場所とする蔵もあるという。
蒸留し、貯蔵してできた原酒は、そのままではまだおいしい焼酎にはならない。銘柄にふさわしい味と風味に仕上げる作業が「ブレンド」である。ブレンドするには、銘柄ごとのメインの原酒に少量のほかの原酒を加えながら味を決めるのだが、その作業を行う人が「ブレンダー」である。ブレンダーが少量で実験を行って配合の割合をきめ、それを基にその年の焼酎の味を決める。
醪を蒸留して最初に出てくる焼酎原酒を「初垂れ」「初留(しょりゅう)」ともいう。アルコール度数は60度と高いが、蒸留が進むにつれて度数は下がり、いも焼酎の場合は37度ほどに落ち着く。なかには初留だけを集めた焼酎もあり、度数は高いが濃縮された豊かな香りが味わえるという。
[焼酎と健康] 健康志向の昨今の観点から焼酎の健康に関するボイントをみてみると、本格焼酎には次のような優れた効果があることが明らかになっている。①心筋梗塞・脳梗塞の予防につながる。②血栓を溶かす効果がある。③ストレスを軽くする。④免疫機能を高める。⑤日曜の夜に飲むのが最適である。⑥もちろん、適量が前提であることはいうまでもない。

総論
最初に投げた問いである、古来より日本に存在した伝統的な日本の酒は?の答えは少々複雑である。古代の酒は、出雲・博多に現在も残っている米を原料にした粘度の高い「練酒」のようなものであっただろうと言われており、皇室行事である新嘗祭(にいなめさい)で見ることができる。これが清酒に進化していくと考えられているので、日本酒はどうやら日本発祥の伝統的な酒といって間違いない。
一方の焼酎(泡盛も含まれる)の起源は、16世紀頃に他国から伝来して蒸留が始まったとされているため、日本発祥ではないことは間違いないが、古来より存在した伝統的な日本の酒に含めることができるのではないだろうか。
流通・製造法の発達で日本のどこにいても全国各地の地酒、輸入酒などさまざまな酒が手に入る便利な時代になったが、飲酒に対する意識も変わり、酒の魔力に呑まれる人は少なくなったようだが、深酒にはくれぐれも用心いただきたい。