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天麩羅

てんぷら(日本食)


[天麩羅]
現在、「天麩羅」と漢字で表記する人は少ないだろうが、これを「てんぷら」と読めない人は少なく、テンプラ・temporaなどの横文字表記があまり似合わない代表的な日本料理となっている。元来揚げ物全般は海外から伝播したものであり、天ぷらもその例に漏れない外来品から派生したものである。よく食べているポピュラーな食品の割には、その歴史や変移がはっきりしておらず、現在の姿に近かったのかどうかもイマイチ分からないので歴史を紹介し難いのだが、諸説に通じるよう広い観点から「天ぷら」へと絞ってゆこうと思う。
[揚物料理のルーツ]  まず日本の揚物料理の歴史は古く、630年に遣唐使の渡航が始まって以来、奈良・平安期の頃、仏教・政治・文化と共に大陸(中国)から伝えられて宮中で広まった「唐菓子(からがし)」が最初ではないかとされている。これは穀物の粉を練って油で揚げたものであったと推測されており、伝来当時は宮廷行事や大寺・大社の供物として用いられ、庶民には縁遠い存在だったようだが、粉を捏ねたり、油で揚げたりする唐菓子の技術は後の饅頭や煎餅などの菓子の誕生を促したと言われている。宮中や神社仏閣の儀式に神饌菓子として用いられることで継承され、現在も下鴨神社・春日大社・祇園神社などに製法が伝わっている。
その後、鎌倉期(13世紀頃)には禅宗の精進料理が本格的に伝わり、一般民衆にもその教えと共に普及し、精進料理から発展して茶懐石も誕生した。料理法における一番大きな変化は、油をエネルギー源として捉え、食材をゴマ油で素揚げする方法が日本で始められたことである。下味を付けた植物性の食材を主に用い、ボリュームや食感を考えて衣揚げにしたり、豆腐や葛等をうまく利用して肉類の代用としていたようだ。戦国・江戸の世の16~17世紀には、長崎に渡来した中国人や南蛮人を通じ、小麦粉などを衣にした魚菜などの揚げ物、言わば西洋料理のフリッターに近い揚げ物料理がもたらされ、長崎を代表する料理「卓袱(しっぽく)料理」の一部として定着した。このように揚げ物は日本古来の調理法ではなく海外伝来の調理法であったが、貴重品である油を大量に使うことから庶民の口にはなかなか入らない、特別な料理であった。
[天ぷらの誕生]  江戸中期、物流が盛んになって各地の食材が江戸に集まるようになると、握り寿司や蕎麦、うなぎなどと共に揚げ物料理が江戸の町に定着していったと考えられている。特に安永年間(1772~1781年)には江戸前の新鮮な魚を提供し始め、江戸湾(東京の内湾)で獲れた魚(白キス、メゴチ、穴子、車子、車海老等)を純正胡麻油で揚げた天ぷらが作られていたそうだが、ほぼ現在の天ぷらに近い形として完成していたと考えられている。天明年間(1781~1789年)の頃に多くの屋台が庶民の味として生まれた頃、人通りの多い市中に常設の天ぷら屋台が増え始めたといわれている。屋台の中でもそば,すしと並んで人気が高く,江戸の三味と呼ばれたのが,天ぷらであるしかし上方では「つけ揚」、江戸では「胡麻揚」などと当時一般的には呼ばれており、庶民の間では「天ぷら」という呼び名が普及していなかったという。天ぷらはどこからきた名前であろうか。
[天ぷらの名前の由来]  安土桃山時代、来日したスペイン人やポルトガル人が菓子でも料理でも衣を付けたものを「テンペラ」と呼んでいたのが始まりだと一般には言われており、ポルトガル語で「調理」を意味するテンポラが訛ったものだという。他に16世紀、キリシタン(キリスト教カトリック)宣教師によって伝えられた南蛮料理の一種であるとの説もある。キリスト教では金曜日の祭(キリストが処刑された日にちなむ)の行事を「テンポラ(天上の日の意味)」といい、この日には鳥・獣の肉は禁じられ、精進料理として魚の揚物を食す習慣があった。そこでこの日に食べる魚料理のことを「テンプラ」と言うようになり、それが日本にも伝わったという説もある。いずれにしても外来語だが、要するに油で揚げた料理を指すことには変わりがない。
一方「天麩羅」という漢字の表記は、天保7年(1836年)ごろ鈴木牧之によって編纂された「北越雪譜」によると、天麩羅という漢字表記が生まれたのは江戸後期~幕末のことで、当時、戯曲作家として著名だった山東京伝(さんとうきょうでん)が、上方(関西)から芸妓と駆け落ちしてきた浪人風の男が江戸で開店するにあたり、この漢字表記を与えたという。「大阪には魚を油で揚げた「つけあげ」というものがあるが江戸では見当たらないので夜店でこれをやってみたい。ついては、「魚の油揚げ」ではおもしろくないので、何か効果的な名前をつけてほしい」と依頼された京伝は、どこから来たとも知れぬ男(駆け落ちした者)だから天竺浪人だ、というところから「天」、「麩」は衣の小麦粉、「羅」は衣が羅(うすぎぬ)のようなところから「天麩羅」とシャレで付けたという。京伝はもちろん以前から「テンプラ」の名前を知っており、ふざけて名前を付けた話が面白いと評判になって世間に広まり、現在にも伝わったという。
[屋台の天ぷら]  天麩羅の名前の由来の真偽のほどは不明だが、江戸前の魚をふんだんに使って一個4文から6文(今日の感覚で一個数10円程度)という安直な値段で売ったこともあって、天ぷら屋台は大変な人気を博したという。屋台の中でも蕎麦・寿司と並んで人気が高く、江戸の三味と呼ばれたそうである。江戸で天ぷらが屋台料理として定着した直接の理由は、町人が住む長屋が密集し火事の多い江戸では、油を高温に熟する天ぷらの屋内営業が禁止されたためだとされる。結果的には気軽に立ち寄れる屋台の天ぷらというような、江戸独特の風物を花開かせることとなった。また、蕎麦や寿司と比べて味覚が濃厚で腹持ちも良く、当時としては最もカロリーの高い食品であったろう。「守貞謾稿」によれば、アナゴ、芝エビ、コハダ、貝柱、スルメなどを水でゆるく溶いた小麦粉に浸けて揚げたものを天麩羅といい、野菜を揚げたものは「天麩羅」とは言わずに単に「揚げ物」と称したらしい。
[高級天ぷらの誕生]  こうして庶民の味として人気の出た天ぷら屋台であったが、時代が下るとともに高級化が進み、江戸末期の嘉永年間(1846~1852年)から安政期(1854~1859年)の頃には店を構える天ぷら屋が誕生し、本格的な料理屋として「お座敷天麩羅」が登場したり、料亭でも提供されるようになったという。屋内での天ぷらを禁じる法令は続いていたが、無論儲け優先であり幕府の禁令は無視された。これらの高級天ぷらには、種の魚や油に高級品を用いて差別化を図ったり、「金麩羅」「銀麩羅」「珍麩羅」などと店の看板に書き、客の目を引く工夫がなされたという。当時としては贅沢品であった卵や油を使って黄金色に揚げたものが「金麩羅」、卵の白身だけを衣に使ったものが「銀麩羅」と名付けられていたらしい。また、江戸と関西では使用する油にも違いがあり、関西では軽い菜種油が全盛であったのに対し、江戸ではごま油の濃い香りとコクが好まれて、「天麩羅」ではなく「ごま揚げ」と呼ばれていた。
[各地の天ぷら]  大正12年(1922年)に関東大震災が起きると、東京の天麩羅屋台の閉店が相次ぎ、失職した職人と共に江戸前の天麩羅が各地に移っていった。さらに後、東京の町の復興が進むと関西の料理店が東京に進出して来て、関西風のあっさりと揚げる天麩羅店や、魚介類だけでなく野菜を揚げる店も多くなった。一方、関西以西では今日でも魚のすり身(ハンペン状のもの)を揚げたものを「てんぷら」と言い、衣をつけて揚げた「天ぷら」とは明らかに異なる食品が存在するが、これは南蛮料理の一種であった「天麩羅」が我が国で料理として受け入れられて定着していった過程の一面を物語るものではないかと思われる。もともと我が国には、鳥や魚の身を骨ごと叩き割って料理する「骨かまぼこ」と呼ばれるものが古くからあったが、この古代料理に南蛮料理の「油で揚げる」手法が融合し、琉球では「チキアーギ」が生まれ、鹿児島では「つけあげ(チキアーギがなまった)」、すなわち「さつま揚げ」となり、次いで南伊予で代表される「てんぷら」として今日まで存在する料理となったのではないかと考えられる。高度成長期以後、油の精製技術の進歩や冷凍技術の発達、上手に揚げるインスタントノウハウの徹底などによって、かつての「下手な食べ物」としての天ぷらは姿を消し、飲食店のみならず各家庭にも広まっていった。昨今の健康志向の強まりで、栄養バランスがよくヘルシーな天ぷらは、外食はもとより手軽な家庭料理として食卓に欠かせない存在となっている。
総論
油を使っている分カロリーが高いはずなので、ヘルシーの度合からするとそれほど優良ではない気がするのだが、だからこそ天ぷらは美味しいように思う。最近では水で溶いた小麦粉をまぶして油で揚げたものなら何でも天ぷらと称されるので、アイスの天ぷらまで存在する。天ぷらが表面の衣と中身が違うことにシャレをかけ、俗に比喩として「鍍金(メッキ)物」「ニセモノ」、見掛け倒しの意味にも使われているが、中まで衣だったら、ただの特大テンカスである。なぜ悪い意味に用いられるのか疑問である。
天ぷらにまつわる有名人としては徳川家康がいる。彼の死因は諸説あるが、タイの天麩羅(胡麻揚)による食中毒で死亡したという説がある。天ぷらを食べたのが1月21日の夕食で、亡くなったのは4月17日だというので、食中毒にしては日数がかかり過ぎており、諸症状から見ても胃癌か何かだったのではないかというのが一般的である。享年75歳というから、年齢からして油っこい食品は受けつけない気がするのだが、その晩はいつもより食がすすんだという。最期ぐらい好きなものを食べて死ねたら本望である。死因は何であれ、家康は死ぬ前においしい天ぷらを食べることができて幸せだったように思える。