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寿司

すし(日本食)


[寿司]
アジアや欧米諸国などにおける昨今の日本食の普及は目覚ましく、とりわけ「寿司」は「てんぷら」「すき焼き」と並んで代表的な日本食として各地でよく知られるようになった。なかには「これが寿司?」という代物もあるというが、新鮮な魚介類の調理法と酢・しょう油のコンビネーションが食文化として受け入れられ、回転寿司にいたってはファストフードとしても定着しつつあるという。ところで、我々日本人の寿司についての知識にはどれほどのものがあるのだろうか。以下、一般的なものから少し変わった視点のものまで幾つかの項目を設け、改めて考察してみたい。
[寿司の起源] 寿司は日本独自のものだとの認識が強いのだが、もともとのルーツは、東南アジアの先住民が塩漬けにした川魚を、炊いた米にからめて自然発酵させた「馴れずし」にあるという説が有力だという。我が国では滋賀県近江の「鮒ずし」などがその系統に属し、いわゆる「握りずし」とは明らかに見た目も味も異なる。「握りずし」が酢飯を生ものの魚貝類と共に食べるのに対し、「馴れずし」の場合、米は発酵させるためのもので食用ではない。米のほとんどは捨てて魚だけを食べる。また、納豆、もち、漆、焼畑、着物、下駄、かかしのような今日の私たちの生活に根付いた「日本文化」と寿司のルーツとされる地方に共通点があるのも興味深い。「馴れずし」はほかの文化と同じように中国を経て我が国へ渡来したとされるが、中国では13世紀に北方民族である「元」に征服されると跡形もなく消え失せてしまった。日本の史上で初めて「鮨・鮓(すしの別漢字)」が登場するのは、養老2年(718年)に制定された「養老律令」の租税を定めた中に、「アワビスシ、イガイスシ、ザツノスシ」と記されているもので、当時の寿司は朝廷に納める税であったとされる。当時のネタは川魚だったので、特に人気だった鮎のすしが献上品として好まれたのかもしれない。
[保存食から美食の対象へ] 日本の歴史上、奈良時代に登場した寿司は千年ほどの間に大きく変化した。もともと米は乳酸発酵の材料でしかなかったことからドロドロであったが、しだいに漬け込む時間を短くしてまだ生っぽい魚を食べるようになる。室町時代になると、漬け込む時間がいっそう短くなるとともに米も食べるようになり、寿司の酸味も新しい味覚として受け入れられるようになった。こうして「飯ずし」が誕生し、酢の登場により「箱寿司(押し寿司)」も誕生し、魚の素材も川魚から青背魚へと変化していった。もっとも、この時期(室町~安土桃山時代)は日本人の食生活が大きく変化し、料理法が蒸すから煮る・焼くへ、一日二食が三食へと変化していったという時代背景があり、これらが寿司が保存食から美食へと変化していった後押しをしたとも考えられる。
[握り寿司の誕生] 明暦3年(1657年)の大火で江戸の町の3分の2が失われると、その復興のために全国各地から職人が集まり、その彼らへの食を賄うために今でいう外食産業が自然発生し、寿司は初めは関西寿司の行商として登場した。やがて、蕎麦やおでんなどと同じく屋台となって海苔巻寿司が出現し、文化7年(1810年)、華屋与兵衛が握り寿司店を開業。これが握り寿司の誕生である。味はもちろん、ふらりと立ち寄って、立ったまま好きなネタの握りをつまんでさっと立ち去る、という手軽さが当時の江戸っ子の気風にぴったりだったことから、たちまち江戸中の寿司店が握り寿司一辺倒となってしまったのだという。ちなみにマグロは現在握り寿司に欠かせないネタとなっており人気も高いが、握り寿司が誕生した江戸時代の頃は客に提供できないほどの下魚とされており、マグロの握りは明治時代末期、屋台で提供されたのが最初だというから歴史は浅い。トロは更に下って大正時代から食べ始められたというから、何だかもったいない話である。
[江戸前寿司と関西寿司] 江戸前とは江戸の目の前にある海のことで、本来は東京湾で捕れた魚貝類を寿司ネタとしたことから江戸前と呼ばれた。寿司が登場する前は、江戸前と言えば実は「うなぎ」を指していたという。江戸城周辺で捕れたうなぎを他所で捕れたものと区別して「江戸前うなぎ」と称していたらしい。それが、江戸時代の文政年間に握り寿司が登場して人気を博すと、たちまちうなぎから寿司へと「江戸前」が転移してしまったのだという。一方、関西寿司は、ファストフード的な江戸前に比べて保存食である押し寿司の流れにあるもので、最大の相違点は寿司飯に用いる砂糖の量が関西寿司の方が多いという点である。京寿司にいたっては江戸前の3倍の砂糖を使用するという。また、江戸前の寿司飯は人肌の温度が最適といわれ、逆に関西寿司はすっかり冷ましてから使うという違いもある。砂糖がしっかり使われているために保存性が高いのである。
[いなり寿司と巻き寿司]スーパーなどで売られる「いなりすし」と「巻き寿司」をセットにしたものを「助六」というが、これは「油揚げ」と「巻き」を合わせて「あげまき」と呼べば、歌舞伎の登場人物の一人「助六」の恋人である遊女の名の「揚巻」と読みが同じであることからしゃれで付けられたのだという説がある。いなり寿司は1800年代にはすでに知られていたようだが、江戸時代の記録によれば「最も安価」とか「甚だ下直」などと書かれている。一方、巻き寿司の発生も不確かだが、一説によれば「姿寿司」から派生したのではないかという。魚身に飯を詰め込んだものを姿寿司というが、海苔を魚の皮に見立てて使ったのではないかという。
[回転寿司] 回転寿司の1号店は昭和33年(1958年)に東大阪市に誕生した「廻る元禄寿司」だという。元禄産業株式会社の創始者・白石義明氏がビール工場でビンの洗浄や詰め込みなどが人手によらず、コンベアに乗って流れていく工程にヒントを得て現在の回転寿司の形態を思いついたということになっている。当時の寿司は、高価で庶民にはなかなか手の届かない食べ物であったが、この発明により一気に大衆化し、価格がはっきりしていて安心して食べられることや、長い待ち時間も不要などの手軽さが圧倒的な支持を得て全国的に普及した。その後、業界としては多少の浮き沈みはあったものの、平成に入ると「安い」「早い」に「うまい」が加わったり、個性的な店が登場するなどしてその地位を不動のものとした。今では回転寿司も様々な展開を見せており、一時ブームとなっていた「一皿100円」の表示は少なくなり、寿司飯が大きくネタが小さいというようなイメージは消え去った。ちなみに、一皿(1個)に2カン提供するという寿司店独自のサービス方法は戦後誕生したもので、戦前は一皿(1個)は1カンであり、1カンはもっと大きな、おにぎり程度の大きさだったようだ。客の要望や店側の都合、昨今のネタを重視する嗜好などから1カンの大きさが小さくなり、かつ2カンで提供する方法になったそうだ。
[恵方巻き] 2月3日の節分の日の夜、恵方を向き、切っていない太巻寿司に無言で丸ごとかぶりつくと「福」を呼ぶといわれ、厄払いと幸せを祈る風習がある。その起源について一説には、江戸末期~明治時代にかけて大阪の商人が「商売繁盛」「無病息災」を願って大阪・神戸で始めたというものがよく聞かれるが、豊臣秀吉の家臣・堀尾茂助吉春が、節分の前日に巻き寿司の様な物をたまたま食べて出陣し、戦に大勝利を収めたという故事にちなむ、というのが通説のようだ。20年ほど前から復活し、節分の日の行事として今では全国に広がっている。恵方とは幸運を司る歳徳神が存在するとされる方角で、毎年方向が変わるものであるが、太巻寿司を鬼の金棒に見立て、それを食べてしまう事で厄払いになるといわれている。太巻寿司を切らないのは年越し蕎麦と同じく、長いと言う事に意味があり、「縁を切らない」で「福」を巻き込む、との願掛けがあるそうだ。また無言でというのも、無言参りや読経中魔が入り込まないよう一息に読む事等とも関係があるといわれ、具は福を食べる意味から七福神に因み、かんぴょう・きゅうり・しいたけ・伊達巻・うなぎ・でんぶ等の7種類と言われている。とにかくキッチリ食べれば1年間良いことがあるという。筆者は関西出身ではないし20年前は幼少時代でもないので、これを全く知らず、無論一度もやらずに今に至ってしまった。元来節分とは、季節の変わる節目の立春・立夏・立秋・立冬の前日のことをいい、1年に4回あるものだが、現在は立春の前日の節分だけ、行事をする習慣が残っている。
このほかにも、ほとんどの寿司ネタが魚偏の漢字で書き表されることや、「まぐろ」に関する話題、「わさび」について、「通の話」など調べてみたい話に事欠かないのが我が日本人の好む寿司である。

総論
ネタ・酢飯・しょうゆが旨ければ言うことなし…と考える筆者にとっての寿司は無論「握り寿司」であって、太巻きや稲荷寿司、散らし寿司、飯ずしや熟寿司などは亜種と捉えている一人のようだ、と今更ながら気付かされた。源流であったな馴れ寿司の姿はほとんどの家庭で見られなくなり、代わりに「握り寿司」の簡易版ともいえる「手巻き寿司」は家庭でも見られるメニューの一つとなった。握り寿司が寿司の定番とはいっても家庭料理には非ず、やはり外食・高級志向の類であって、一般庶民にとって寿司専門店はまだまだ敷居が高いものなのだろうか。一方、寿司の源流といわれる「なれずし」は一度も食したことがないし、どこでも手に入る類ではなく、年季の入った長期熟成のものなどは高級食品であるようだ。なれずしは、かなりの異臭を放つ臭気食品であり、もしかすると寿司専門店に行くより覚悟がいるかも知れない。しかし寿司の長い歴史と奥深さを追究するなら、一度は必ず経験してみたい気がする。