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うどん

うどん(日本食)


[うどん]
麺類好きの日本人にとって、うどん(饂飩)は麺類の代名詞とも呼べる存在である。食文化として広く庶民の間に定着したのは江戸時代中頃のことといわれていて、今更「うどんとは」と改まることもないほど親しまれている食べ物である。
うどんの主成分は炭水化物で、ごはんやパン、 麺類などに含まれる栄養素として知られており、体内でブドウ糖、グリコーゲンに変成される。うどんは他の食物に比べて非常に消化吸収のスピードが速いため、体のみならず脳にも活力を与える即効のエネルギー源と言われている。体調を崩した時や食欲不振の時などには温かいうどんを食べると体調がよくなると昔から言われるのは栄養学的にも立証されていることなのである。
麺に関する最初の記録は、「正倉院文書」にある「索餅(そうへい)」という食べ物についての記録である。中国伝来の食べ物で、小麦粉と米粉とを練って縄の形にねじったことから「麦縄(むぎなわ)」と呼ばれていたが、奈良時代になるとこれが「索麺(そうめん)」と呼ばれるようになったという。索麺が普及する過程で、こねた麺生地を平たく延ばして切ることから「切麦(きりむぎ)」と呼ばれるようになり、暖かくして食べるものを「熱麦(あつむぎ)」、冷やして食べるものを「冷麦(ひやむぎ)」と呼ぶようになったという。また別説では、遣唐使が中国から持ち帰った唐菓子の「混飩(こんとん)」が起源とするものもあり、「延喜式」に記された菓餅のうち団子状の温飩が転じて「饂飩(うんとん)」になったのではないかという説もある。「饂飩」は北京語ではフォントンと発音するというが、山梨県の「ほうとう」や大分県の「ほうちょう」の語源は、このあたりにあるのかもしれない。以下少し変わった視点から「うどん・あれこれ」についてまとめてみた。
[土三寒六]  うどんの善し悪しは塩加減で決まるとさえいわれるが、土は土用すなわち盛夏のことで、暑い盛りの夏は小麦粉に混ぜる1杯の塩に対して水3杯、冬の寒中は6杯にして用いるという麺作りのコツだそうだ。夏場は小麦粉に含まれる水分の量も多いために濃い目の塩水を使い、逆に、寒いときはたんぱく質のグルテンの伸びが悪いために塩の量を少なくするという意味である。また、こねた生地を寝かせる時間は、夏で30分、冬で1時間半程度が目安とされている。
[讃岐うどん]  生めん類公正取引協議会の「生めん類の表示及び解説」による定義では、①香川県内で製造されたもの。②手打、手打式(風)のもの。③加水量40%以上。④小麦粉に対する食塩の量は3%以上。⑤熟成時間2時間以上。⑥茹でる場合は15分程度以上で、十分アルファ化されていること、とされている。コシの強さと味わい深さが有名で、讃岐うどんが旨いといわれるのには、良質の塩・しょう油やダシの「煮干」に恵まれていて、昔からうどんを食べる習慣がほかの土地よりも定着していたことにあるのではないかという。気候が温暖で雨が少ない瀬戸内地方独特の自然環境の下で育まれた小麦粉は、日本でも最良質の部類であり、地下水脈が地表近くに流れていることからミネラル分の多い良質の水が利用でき、昔から塩作りが盛んであったことなど、小麦粉・水・塩の三要素が讃岐うどんをおいしくした理由であるという。本場の讃岐うどんを求め、全国から香川県へ出向く人々もいるそうだ。ちなみに、うどんを唐から持ち帰り、故郷の民衆を貧困から救ったといわれる弘法大師は讃岐出身である。
[稲庭うどん]  四国の讃岐うどん、名古屋のきしめんと並ぶブランドうどんである。秋田県特産の手延べ製法の干しうどんで、冷や麦より若干太い程度の細さが特徴である。でん粉を使って延ばし、乾燥前につぶす工法で、食感は滑らかである。古くから献上品として食され、一般人の口にはなかなか入らなかったそうだ。「稲庭古今事蹟誌」によれば、現在の秋田県湯沢市稲庭町で佐藤市兵衛という人物によって始められたと伝えられていて、その製法技術は、寛文年間以前に日本海交易によって博多(福岡)からもたらされたとか、山伏から教えられたなどとする説がある。
[そうめんと冷や麦]  小麦粉を延ばして作られた同じものである。その違いはJAS(日本農林規格)によれば、直径0.7ミリから1.3ミリ未満がそうめんで、1.3ミリ以上1.7ミリ未満が冷や麦とされている。また、手延べそうめんの場合は、より細くするために、こねた小麦粉の表面が乾かないように植物油をつけてよりをかけながら引き延ばして天日で乾かすのだが、油臭さが抜けて風味が増すようにするために、これらの作業は寒い時期に行い、倉庫で寝かせて梅雨が終わった頃に出荷するのが普通だという。
[きしめんとひも川]  名古屋名物きしめんと呼ばれるようになったのは18世紀頃とされているが、その由来には、①紀州の人が名古屋に持ち込んだことから「紀州めん」といった。②琉球から伝わった「鶏糸めん」から。③雉子肉が具として入っていたから、など諸説がある。一方、江戸の「ひも川」は、万治元年(1658年)の「東海道名所記」の池鯉鮒から鳴海までの区間で、「伊も川うどん、そば切りあり。道中第一の塩梅よき処なり」とあるところから、伊も川が転じてひも川となったと考えられるという。また井原西鶴の「好色一代男」では、伊も川は芋川として出てくるが、芋川は尾張の一地名であり、その周辺で食されていたうどんを芋川うどんといっていたらしい。ということは、江戸のひも川の出どころは、きしめんで知られる尾張(現在の名古屋)であったということになるという説である。
[うどんとつゆ]  うどんを現在のようにダシ汁で食べるようになったのは、しょう油が出回り始めた元禄時代以降のことで、それまでは味噌で煮込んで食べたりしたものらしい。また、「鍋焼きうどん」は幕末、「きつねうどん」は昭和初期、「うどんすき」は昭和に入り、しばらく経ってからのものだという。このほかにも「ある高校には、うどん部という部活がある」、「冷凍うどんには、しなやかさとコシを出すためにタピオカが練り込まれている」、「カレーうどんは早稲田大学の学生街にある「三朝庵」が初めて世に送り出した」、「静岡県の「吉田うどん」は食べ終わる頃には顎が痛くなるほど固い」、逆に「三重県の伊勢うどんは1時間もかけて茹でるために切り口が四角でふわふわしている」、などと、うどんにまつわる話題は豊富で、巷間にはうどん通を自認する人もまた数多い。

総論
7月2日は「うどんの日」なのだそうだ。毎年7月初頭に二毛作目の田植えが終了し、その労をねぎらって、一毛作目に収穫した小麦でうどんを作り、食べたという風習から、香川県の生麺事業協同組合が制定したという。少し調べたところ、「日本うどん学会」なる、うどん専門研究機関が香川県に存在し、同じく香川県の学校には「さぬきうどん科」という讃岐うどん作りの技能や知識を身につけるための特別クラスも存在するという。更に、近年のブームとして「うどんツアー」「うどん巡礼」など、約700軒ある香川県のうどん屋、製麺所の食べ歩きも人気だそうだ。いずれにしても香川県の一過性のムーブメントではない讃岐うどんブームは、周囲からのものというより、ご当地でのうどんに対する県民の愛着が強く感じられる。全国的にこれほど当地で愛される食品が他にあるだろうか。ご当地グルメを讃岐うどん並みに全国に売り出すためには、食品そのものの旨さ以上に、香川県民に値するほどの食品への愛着が必要なのではないかと考えさせられた。