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写し絵

うつしえ(演劇・演芸)


[写し絵]
「写し絵」と聞いて何を想像するだろう。念のため、子供が下絵の上に写し紙を乗せてなぞるものではない。どちらかと言えばアナログで、懐古的響きを持つ語ではないだろうか。江戸時代に日本で誕生した「動く絵」と「語り」で表現される独自の芸能は、今日の映画の先駆であり、またメディア・アートの源流ともいわれ、当時の庶民を驚異と熱狂に包んだという。映画より百年も先行した動画劇である「写し絵」は、その後メディアの発展とともに表舞台から消えてしまったのだが、歴史的背景を追いながらその盛衰を辿ってみたいと思う。

写し絵とは何か。語の通り「絵(映像)をスクリーンに写す」技術を用いた芸能であり、現代の映写機の先駆的存在といえる「幻灯機」を用い、映像に語り・音曲を加えたアニメーションの元祖とも言える大衆娯楽である。写し絵師が幻灯機を抱え持ちつつ、からくり等で光を操ることにより、映像を交錯させながら自由自在に操作して劇を演じ、スクリーンに映し出す訳だが、当時は「風呂」と呼ばれる桐製の幻灯機に、油皿に立てた芯を点して得られる明かり、そして和紙でできたスクリーンを使用していたという。光源の大きさから、一度の公演でおよそ100人程度まで見ることができたといわれている。江戸時代中期、初めて輸入された幻灯機に日本人が改良を加えて生み出した独自のものなので、「江戸写し絵」とも呼ばれている。以下、その歴史について、幻灯機・芸能の双方の歴史を追ってゆきたいと思う。

昨今の映像展示・講演などで使用されている主流は、パソコンと連動して動作するビデオプロジェクターであるが、少し前まではマウントフィルムを投影するスライドプロジェクターが使われていた。「幻灯機」はスライドの旧い型であり、19世紀イギリスの代表的な映像装置でもあり、英語でマジック・ランタンと呼ばれているものである。江戸写し絵には、西洋から輸入された金属製の幻灯機(幻燈機)を木製に改良した、「風呂」と呼ばれるものが使用されていた。世界にみる幻灯機の起源は、どうやら17世紀より前に遡るようだが、史実に基づく幻灯の発明者は、キルヒャー(1602-1680)というドイツ人の名前に辿り着く。彼はすでに発明されていた幻灯を発展させ、ランプとレンズを使って、ガラスに描かれた画像を適当な幕に投影するという、現在の幻灯機と同じ仕様にし、マジック・ランタンと命名した。「マジック(魔法の)」の名の通り、魔術的なイメージと結び付け、生死・幻影(幽霊)・驚異(魔術)等、魔術的見世物としての色が濃いものであったようだ。
18世紀、ロベルトソン(ロベールソン)というベルギー人が、廃墟となったパリの礼拝堂で、台車に乗せた幻灯機を使ったファンタスマゴリア(魔術幻灯)のショーを行った。ファンタスマゴリアのショーは、変幻自在の映像が生き物のように場内を動き回って見えるような工夫を凝らしたものだったようで、映像を見せるより、会場内を別世界に変貌させて体感させる効果を狙っていたのではないかと考えられている。演目は「幽霊や亡霊の出現」「降霊術または蘇生」「血まみれの修道女」等、ホラー系の刺激的な題材で、現存しているスライド・図版を見ると、骸骨(死)のイメージに溢れているという。当時のペスト大流行という社会的背景が、死体を氾濫させ、生と死をより実感させるような劇的な演出や結末を有する映像へと導いたのかもしれない。結果的に魔術師や降霊術師達の道具として力を発揮しつつ改良され、その後は旅芸人の幻灯ショーやサロンでの幻灯演奏会が流行したという。

18世紀後半、蘭学とともに長崎に幻灯機が輸入されたのが日本での幻灯史の始まりである。1790年、初めて見世物として登場し、大阪・難破新地で「彩色影絵オランダ細工」として興行されて反響を呼び、1801年、江戸に伝わって「招魂灯(オランダエキマンキョウ)」の名で上野の見世物小屋で披露された。西洋で幻灯機が魔術的見世物として広まっていたのと異なり、日本においては工夫・研究した結果「写し絵」が誕生したという相違は面白い。
1803年、写し絵の祖・上絵師の亀屋熊吉は「三笑亭都楽」と名乗り、神楽坂の茶屋で、自作の木製幻灯機を用いて「江戸写し絵」を有料で公開したのが、日本芸能としての幻灯機の歴史の始まりである。闇の中で、人物が極彩色に輝いて登場し、説経節・義太夫節などに加えて鳴り物や口上を付されて芝居風に語られる情念世界を、様々な立居振舞で演じた。無声映画に先駆けること100年余り、カラフルで、ダイナミックで、ナレーション付きの娯楽性豊かな日本独自の映像ショーであり、「絵草紙の挿絵が動いて芝居をしている」「描いた絵が動くとはキリシタン・バテレンの魔術ではないか」と江戸庶民を驚かせ、熱狂させた。達磨(だるま)が掛け軸の中から飛び出して踊るような「滑稽物」、両国川に漕ぎ出た舟が華やかな花火を次々と打ち上げ、あるいは瞬時に蕾を咲かせ満開にするといった、からくり仕掛けの「外連(けれん)物」などもあった。大衆娯楽として当時絶大な人気を誇った「歌舞伎」や、「浮世絵」「黄表紙(草双紙、江戸時代の人気流行絵本)」「浄瑠璃(浄瑠璃節、物語を曲にしたもの)」などの影響も大きい。それらと結び付いて完成した世界初のアニメーションであり、今日のアニメーション映画と絵を動かす原理は全く同じで、江戸時代にすでに基本技術が考案され、実用されていたことになる。フィルムに固定された映像の単なる再生ではなく、客の反応に応じて受け答えできる「生」の映像劇であり、その価値はメディア社会の現在、見直されるべき部分も多く持っているのではないだろうか。
更に1835年、富士川都正が「錦写し絵」と名を変えて江戸から上方(関西)に伝え広めた。移動や伝達を容易にしたのも、金属製から軽い木製の幻灯機に改良した先達の功績があってのことである。手動で動く映像ゆえの「写し絵師」なる名人も登場し、独自の映像文化を開花させ、築いていった。
こうして江戸から明治時代にかけて大衆娯楽として庶民の間で大流行した写し絵だが、その後「活動写真」と呼ばれるモノクロの無声映画が登場して一世を風靡し、日本に輸入されるようになると興業として成立しなくなり、その地位を映画に奪われ、次第に衰退してゆくことになる。映画が登場するまで、「絵は動かない」という概念を払拭し、動画を先駆けた画期的な映像であった写し絵だが、明治時代、絵ではなく写真が焼き付けられた種板、いわゆる単独の「スライド」と呼ばれる新しい幻灯機である「幻灯写真」が輸入され、更に明治時代後期には家庭用幻灯機が登場し、「写し絵」のように技術が無くても、誰でも簡単に上映することができるようになったことが衰退の一因として挙げられる。さらには関東大震災と戦災により写し絵の資料の多くを消失してしまい、記録も乏しかったため、人々の記憶から急速に失われていった。噺家であった桂南天氏が「錦影絵」を披露した昭和初期を最後に、公に披露される機会は無かったようだ。

ここで江戸当時の写し絵がどのようなものであったのか、少し紹介してみたい。今では映像技術も進歩し、テレビやインターネットが台頭する世になったが、当時の人々はスクリーンに写し出される、それまでにない動く「絵」にリアリティーを感じ、熱狂した。スクリーンは3尺×6尺ほどの大きさの美濃和紙が使われ、これを揉んで柔らかくし、和紙の繊維としわとが凹凸を作り出すことで映像に厚みを加える効果があった。また和紙の軽さが空気の流れに溶け込み、スクリーンに緩やかな揺れを加え、映像に動きを加える効果を持った。光源は油皿に芯を立てて火を点す種油、石油ランプ、白熱電球と時代とともに移り変わったが、名人と呼ばれた写し絵師には種油を好んで使用した者もいたという。スクリーンと同様、炎が生み出す趣や揺らめきによる動的な効果を大切にし、好んだものと考えられる。
次に下絵を描いた種板だが、薄く平らなガラスを加工することは、ビードロ職人にとって難しいことではなかった。サイズは55ミリ四方(上方では40ミリ四方)、0.2~0.5ミリの厚さに揃え、生みの親である亀屋熊吉は上絵師なので、ガラスに精巧な絵を描いた。光を通さない黒い部分は墨と膠を用い、針で引っ掻いて線を描き出す。有機染料を触媒で反応させて鮮やかな発色の色を作り、ヤニや卵白、ゴムなどを用いて色を定着させていたようだ。こうした技術は突然誕生した産物ではなく、それまでの日本において染付けの知識・技術があったからこそ可能になったものなのである。
最後に「風呂(幻灯機)」の変遷について紹介する。風呂(ふろ)は、当時の風呂の形に似ていたことから名が付いたという。西洋の重くて熱い金属製幻灯機を木製に作り変えたことは前に触れたが、それには木材が手軽に入手できたことが一因としてある。桐は火に強くて軽いため、幻灯師が幻灯機を抱えて動きながら映写することが可能となった。更には数台の幻灯機を劇に合わせて同時に操ることもでき、合わせ絵のような、複雑な画面構成が可能になった。この点がそれまでの西洋式幻灯機と写し絵の決定的な表現の差異を生むこととなった。家・門扉・中庭・遠景の景色など、各々を別々に一台ずつの風呂からスクリーンに映すことで、自由自在に配置させることが可能である。この優れた発想により、絵の大小・遠近が自在となり、それまでにない複雑な画面構成を可能にしたのである。

総論
「写し絵」という伝統芸能の行方について少し調べてみた。明治時代の映画の台頭に伴う大衆娯楽ニーズの変化と、震災・戦災による史料の消滅という状況にあって、写し絵師や幻灯師にとって存続の可能性は皆無に等しかったのだろう。寄席以外の場、大道芸や祭祀の余興等の足跡も見つけることができないので、人々から完全に忘れられ、途絶えてしまったのだろうと推測する。しかし民俗学的見地からも江戸に開花した伝統芸能の1つとして、貴重な映像文化を無にせず復活させようという人々の手により、平成5年に「劇団みんわ座」が「江戸写し絵」を復活させた。今では毎年公演を行っているというのだが、小さな劇団が自力で資料を復元することを可能にしたのはコンピュータだったという。目覚しいデジタルメディアの発展が伝統文化に及ぼす影響の方が目に付くような昨今にあって、デジタルメディアが伝統文化に果たす役割を考えさせられる。
「江戸写し絵」の復元は、昔懐しさの裏にある機械化のない、先人の手の細やかさや映像技術・創意工夫をも復元させ目の前に映し出すものであり、かつ今日一般化されている舞台芸術の可能性を切り開く斬新性を兼備した、優れたものであるとして評価されている。伝統芸能が生き残る1つの望みとして、次世代が伝統を継承してゆくためには、現代文化との調和がある。文化財としての保護を受けていないことからも、写し絵は現代映像文化の一つとして継承されてゆくことを願う。


※現在、「現代影絵プロジェクト」が江戸時代の江戸写し絵を当時のままに復元公演を行うなど積極的に活動しているという。