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紙切り

かみきり(演劇・演芸)


[紙切り]
「紙切り(かみきり)」という伝統芸能をご存知だろうか。「紙切り」という通称の他に「切り絵」と呼ばれることもあるようだが、切り絵は黒い紙を切り抜き、白い紙に貼り付けるという別の芸能を指す。簡単に言えば、「紙切り」は1枚の紙を鋏で切ってシルエットを模っていくもので、大道芸でも見られるし、シルエットの似顔絵を切り出すものなど目にしたことがあるかも知れない。紙を切るだけの地味で素朴な芸と思われがちだが、巧みな話術で観客の興味を引きつつ、即興で形を切り出してゆくステージ演芸の一種であり、日本の伝統芸能の1つとして、寄席の色物の1つとして扱われている。観客のリクエストに応じ、歌舞伎芝居・縁起物・文字等の古典・風雅なものから動物・アニメキャラクターなどまで即座に即興で切り出して見せる芸は、主に寄席で見ることができ、子供から大人まで魅了する。具現化の難しいお題(テーマ)でも頓知を利かせ、イマジネーションを働かせて形にしてみせ、紙切り最中も客を飽きさせないよう喋り続けて会場を沸かせるなど、単に紙を切る技術だけでは成立しない芸能である。本項では寄席芸能としての紙切りを中心に、その起源から追ってゆく事にする。

伝統芸能としての紙切りの歴史はそれほど長くなく、江戸時代に入り初めて演芸として始められたとされるが、一枚の紙から形を切り出す文化、いわゆる「切り絵」の歴史は日本でも意外と古い。世界的に見ると、紙が誕生した中国に紙切りの起源があると言えるだろう。中国の切り絵「中国剪紙(ちゅうごくせんし)」の文化は古く、南北朝時代(420~589年)に農家の女性達が作り始めたのが最初と言われ、元来は刺繍の型紙として使われていたと言われている。婚礼・葬儀の装飾として使われ、宋代には髪飾りなど女性の衣装の一部として使われ、現在では正月に玄関に飾る「福」や、清明節など暦にある各種行事で、室内装飾などに使われるようになった。現在も農村・一部の都市の一般家庭では、窓ガラス・家具などに糊で直接貼り付ける装飾品として用いられ、定着しているという。下絵なしで主にハサミ・小刀を用いて1枚の紙から繊細で美しい図案を作り上げるのは紙切りと同じである。奈良の正倉院には中国・唐の時代の剪紙「人勝図」が保存されているというから、中国から伝来して日本でも始められたと考えるのが妥当である。
日本では古くから神道の儀式の中で「幣」として用いられ、岐阜県飛騨高山などでは奈良時代以来と伝えられる伝統的な様式が今でも残っているという。その後は染物師が用いる染の型紙として発達し、現在は京都の高級呉服・友禅の「型友禅」などで用いられている。
友禅とは模様染めのことで、多彩で絵画調の模様を一枚の着物の上に描き出す。「手描友禅(てがきゆうぜん)」と「型友禅(かたゆうぜん)」に大別されており、江戸・元禄年間の扇絵師・宮崎友禅斎が、それまで編み出されてきた染色法に加え、美しく華麗な絵を描き「手描友禅」として確立・大成したことから「友禅」と名付けられたという。明治時代、鮮やかで色数の多い化学染料が輸入されると、手描友禅の名匠・広瀬治助が「写し友禅(型友禅)」を発明した。この型友禅の製作初期工程「型彫り」の匠の技から誕生した切り絵作家であり、京都伝統工芸彫絵師・3代目蓮蔵(山川勝雪)が現在著名である。呉服染めの世界だけでなく、彫り絵をもとに美術画を生み出しており、白黒に彫り上げた作品が立体的に見えるところが特徴だという。
話は「紙切り」の歴史に戻ることにする。江戸時代に紙切りが誕生するまでに、紙・ハサミ・切り絵・寄席等の誕生を背景に、宴席の余興として謡・音曲に合わせて様々な形を切り抜く「紙切り」芸が始められたと言われているが、その成立と歴史的詳細は明確になっていないようなので、不明瞭な部分が多い点はご容赦頂きたい。
明治時代初期の1873年、男芸者である幇間(ほうかん・たいこ)職の「喜楽亭おもちゃ」という人物が、紙切り芸を座敷芸から舞台芸に仕上げ、寄席の出し物として高座(寄席の舞台)で披露したのが最初とされている。彼は、長唄(ながうた)・端唄(はうた)・小唄(こうた)・都々逸(どどいつ)・声色(こわいろ)・踊等の音曲をこなす多芸に秀でた人物であったという。
成立当時の寄席は、「浄瑠璃、小唄、軍書読み、手妻、八人芸、説教、祭文、物まね尽しなどを業とする者を宅に請じて席の料を定め看客聴衆を集る家あり、比講席、新道・小路に数多ありて、俗に寄せ場或はヨセと略しても云う」とあるように、様々な芸能で客を集め木戸銭を取る「寄せ場」であったというから、紙切り芸がその中の1つの芸種として登場したと考えても不思議はない。現在の寄席のメインである落語等の伝統芸能は、寄席に登場するまでの歴史的背景があり、突如、成り上がりで誕生したものではないことが史実的にも知られている。紙切りという芸能の歴史が明確にされていないのは、やはり芸種としてはマイナーの部類に入り、史実自体が少ないからであろう。「喜楽亭おもちゃ」が寄席に登場した以降も、寄席に名を残す紙切り芸人は数人しか出ておらず、当時どのような芸態で、どんな作品を作ってみせたか等、史料がほとんど残っていない状態である。
史実として明確になってくるのは、かなり後の第二次大戦後、テレビ放送が始まって以降のことである。昭和29年、日本初の切り絵クイズ番組の企画で、テレビ局は時の紙切り芸人・柳家一兆(やなぎやいっちょう・後の花房一兆、小倉一兆)に出演を依頼したが、「クイズに使う訳の解からぬ切り絵は正楽に頼め」と断られ、初代林家正楽(はやしやしょうらく)が出演することになった。放映時間帯が良かったこと等により、「紙切りと言えば正楽」というほど有名となり、以来「正楽三代の芸」と謳われるほどの人気を博し、現在3代目が活躍中である。

紙切り師、紙切り芸人などと呼ばれてきた紙切り専門の芸人だが、芸団協(社団法人日本芸能実演家団体協議会)に約95,000人の実演家が所属している中で、紙切りは5人、林家3名・柳家1名・桃川1名のみしか登録されていないのだという。「紙切り」という演芸は日本独自のものであり、海外では「ペーパー・カッティング・クラフト」などと呼ばれ、舞台上で作り出された作品には観衆が殺到するほど珍重され、非常に珍しがられるパフォーマンスなのだそうだ。世界中でもたった5人あまりしか紙切り芸人が居ないということになる。以下に著名な紙切り師を挙げ、紹介してみることにする。

林家正楽(はやしやしょうらく)  前述の歴史の中でも採り上げた江戸落語・林家正楽の名跡で、初代の本名は一柳金次郎(いちやなぎきんじろう)。初代以来代々、紙切りの芸を得意とし当代は3代目である。林家正楽は江戸落語、上方落語にそれぞれ存在する。長男は落語家・桂小南治、2男は紙切り師・林家二楽で、二楽(にらく)の本名は山崎義金(やまざきよしかね)、紙切り師として現在活躍中である。

林家今丸(はやしやいままる)  本名は坂井貞之(さかいさだゆき)で、英語及びフランス語でも公演し、欧米ほか海外公演も行っており、国内では寄席の高座を中心に、切り絵の個展を開くなど幅広く活躍中である。

林家今寿(はやしやいまじゅ)  スイス生まれの女性で、本名は鈴木エリザベータ。江戸芸かっぽれ踊りの梅奴流家元・鈴木正文氏と国際結婚して来日した後、1980年に林家今丸に弟子入りし、1987年林家今寿の名を授かる。マルチリンガルを生かして国内外の公演をこなし、紙切りの文化を広め、音楽をかけて紙切りを見せる独自の舞台を生み出した。

柳家松太郎(やなぎやしょうたろう)  1961年に紙切り師・柳家一兆に入門し、兄弟子の花房蝶二から指導を受け、1980年柳家松太郎を襲名する。美術展に多くの切り絵を出品し、1998年には初の個展を開くなど鋏切り絵作家としての活動の他、切り絵教室の講師も務めている。

桃川忠(ももかわちゅう)  幼少の頃より紙切りに興味を持ち、趣味の一環として独学で紙切りの芸を磨いていたが、周囲の勧めで1981年にプロとしてデビューした。独自に編み出した手法を有し、「江戸紙切り」と称して活躍中である。

泉たけし(いずみたけし)  名古屋・大須演芸場で活躍した紙切り芸人で、ガンダム紙切りで有名な故・大東両(だいとうりょう)氏を師匠とし、1968年に芸人としてデビュー、1975年から紙切り芸人として公演を行い、2005年には愛・地球博に出演するなど国内イベントに数多く出演している。大人向けのお色気紙切りなどのレパートリーを持ち、話術・ボードビルのセンスでショウアップした紙切りの舞台は独特の面白さと明るさで定評がある。

伊東みき(いとうみき)  美術大学卒業後、笑い・刺激を求めて寄席へ通ううち紙切り芸に魅せられて桃川忠に師事し、師匠の「江戸紙切り」を継承した紙切り師となる。日本舞踊・西風流の名取りでもある。イベント出演も多数あり、明るいパフォーマンスが評判である。

KIRIGAMIST千陽(きりがみすとちあき)  北海道出身で、幼少時代に2代目正楽の紙切り芸に魅せられて以来、切り絵を遊びの一つとして育った。1997年、札幌市の大道芸イベントで路上パフォーマーとしてデビューし、現在は紙切り師として主に北海道内で活動中である。2007年には切り絵個展を開催し、アーティストとしての才能を見せている。

総論
本項の紙切り芸を追ってみて気になったのは、「紙切りの才能」と「パフォーマーとしての才能」のいずれがより必要かという点である。双方揃っていれば最上の舞台を表出できそうなのは言うまでもないのだが、何しろ紙切り師がとても少ないので、その原因が気になると同時に、いずれがより重要なのか気になった次第である。パフォーマンスがお粗末だと地味な舞台になり面白くもないだろうし、出来上がった作品を売り物にする道も残されているのだが、その時点で「紙切り」ではなく「切り絵」になってしまうだろう。
紹介した前述の紙切り師は、独学で紙切りの境地を切り拓いた者、師匠について修練のうえ名跡を襲名した者の2通りおり、いずれにしろ舞台パフォーマンスで定評を得た上で、その作品が「切り絵」として単独でも成立すると考えるなら、紙切り芸は「パフォーマーとしての才能」がまず必要で、「紙切りの才能」は後付けの修練でも良さそうに思われるがどうだろう。若手が紙切り師を目指すならば、紙切り芸の舞台パフォーマンス、観客との掛け合い・話術をよく研究し、その上で紙切り技術を身につけるべく修練を積むのが近道、と結論付けたい。
最後に、海外公演への道が割と開かれている芸能とも言える様だが、こちらは生み出される作品に注目が集まるようだから、パフォーマンスを要さぬ「切り絵」としての紙切りでも良さそうな気がするのだが、どうだろう。林家今寿のように、日本人でなくても襲名できる伝統芸能も珍しい。この辺りに、紙切りの今後が託されているのかも知れない。