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漫才・萬歳・万才

まんざい(演劇・演芸)


[漫才・萬歳・万才]
漫才を知らない人はまず、いないだろう。1980年代に漫才が一大ブームを迎え、マスメディアで「お笑い」と呼ばれるジャンルが確立して以来、現在漫才・コントなどの「お笑い芸人」が多くのテレビ番組で活躍し、芸能人としてタレントと大差無く、様々なバラエティ番組に登場し、芸より顔が売れて人気を得ているような状態である。「漫才=お笑い」ではないので、漫談・コントなどとの違いも含め、漫才の成立や伝統芸能としての中身について触れてゆこうと思う。

漫才とは、簡単に言えばボケ・ツッコミ役の2人の漫才師が掛け合いで滑稽な話をする演芸であり、成立初期の頃「二人漫談」と呼ばれていたように、主に2人で行われる漫談芸であるとされる。漫才の語源である「万歳(まんざい)」は平安時代の頃に始まった芸能で、万年も栄えるようにと宮中・寺社で祝言を述べ、歌舞を披露する「千秋万歳(せんしゅうまんざい・せんずまんざい)」が原型であると言われている。これが後には「太夫」と「才蔵」の2人1組が素襖・風折烏帽子に腰鼓を着けて家々を訪れ、祝言を述べた後に1人が鼓・1人が滑稽な舞を舞う門付け芸に変容してゆき、大正中期、関西でこれを舞台で演じたことから娯楽・大衆芸能としての道を歩み出すことになる。当初、鼓・三味線・唄に軽口で構成される音曲漫才が主流であったものが、徐々に歌舞より2人の掛け合いの話芸の色合いが濃くなり、現在の漫才の形にほぼ定着するのは昭和に入り、漫才の祖「エンタツ・アチャコ」が登場してからのことである。大正末期に起こった「漫談」にちなんで、吉本興業宣伝部により「漫才」と名付けられた昭和初期以来、漫才の語が定着し、また元来関西圏で発展してきた漫才が全国規模の人気を博し始めると、特に関西圏のものを「上方漫才(かみがたまんざい)」と呼ぶようになった。
少し注釈を加えるなら、他の話芸でも同じであるが上方と江戸(東京)ではウケ方が違うため、全国規模で人気を博する漫才師はなかなか誕生し難かった。また落語・浪曲などの伝統芸能の間をつなぐ色物扱いであり、歌舞を披露し、つなぎにしゃべる程度の、下品で低俗な内容のものと考えられていたことも全国区の人気を博するには課題が多く残されていた。その「万才」を、全国規模で誰でも理解できる大衆芸能「漫才」に大変身させたのが「エンタツ・アチャコ」である。昭和期の「お笑い革命」に成功した背景として、放送を始めたばかりのラジオという新しい全国メディアの普及や、新たな娯楽を求める都市部の大衆のニーズがあり、そうした時代の潮流を好機に変えて奮闘・努力しつつ一番の波に乗った訳である。そして現代の漫才の原型「しゃべくり漫才」を誕生させた功績は大きく、ゆえに現在の漫才の祖と言われている。

現在の漫才の型とは、本来は雑談が主体となる漫談芸であるため、コント的要素(小道具・衣装など)が用いられたとしても必要最低限であり、舞台装置・照明・音響などを用いることもほとんどない純粋な話芸である。伝統的に、男性の場合はペアかそれに近いスーツを着用するコンビが多く、スーツも原色・ラメなど派手なものが多かったが、漫才ブームで登場したタレント兼漫才師の若手達により、ファッショナブル又はカジュアル系の衣装が普及し、以前よりは舞台衣装がよりラフなものに変化している。
コントは大正時代に欧米から伝播し、場面転換とショーの彩りとして日本で定着したもので、2人又は数人で扮装・化粧し、小道具等も用いつつ演劇の延長として演じられたので「寸劇」と呼ばれていた。漫才とコントとの違いは扮装・化粧・小道具の有無にあるとされるが、衣装・小道具類に関しての制約は少ない。近年は以前ほど観客・演者側にこだわりが無く、同じ「お笑い」という1つのジャンルとして捉えられているようである。
他方で漫談は、大正期に創設された演芸であり、漫談家が世間話・批評・雑談などジャンルを問わず一人で舞台に立ってトークするものである。音声付き映画が主流になり失業した無声映画の弁士が、寄席の高座等に出演して巧みな話術を披露したのが起源であるという。漫才との違いは「一人で口演」する点にあるが、近年では掛け合いを一人で演じる「一人漫才」もあるので、漫才・コント・漫談の違いは一般的に問われなくなってきているようだ。近年の人気漫才師に「やすし・きよし」がいるが、この2人はコントの色合いの濃いものの代表格と言える。喜劇役者の弟子として芝居経験がある西川きよし氏と、奔放な発想の横山やすし氏が組み、漫才と芝居の長所を融合させた「やすきよ漫才」と呼ばれる新たな漫才を生み出した。先に述べた漫才ブームの立役者であり、当時絶大な人気を誇り、漫才界の頂点に君臨した。彼らのように人気を博したコンビの話術・スタイルが漫才の種類として広がっていくのが現状であるが、最初に始めたコンビの専売特許になる訳ではなく、真似もある程度柔軟に受け入れられる芸能、と言えるだろう。

漫才という芸能の名前の起源と話芸の中での位置付けについて少し触れたので、次は内容について掘り下げてみたいと思う。
漫才は、どのような内容の話でもアドリブで口演するものではなく、事前に用意された台本が必要になる。「観客を笑わせる」という単純明快な目的のみが存在し、それが最大の特徴とも言える。そして演者である2人は、大抵はボケ役・ツッコミ役の二手に分かれるが、双方ボケ・双方ツッコミを特色とするコンビも数少ないが存在する。とにかく2人の会話の掛け合いが面白く、笑いを誘えればよい訳で、絶対にボケ・ツッコミの双方が必要な訳ではないのだが、話の進行役は必要不可欠とされている。従来は、ツッコミが主に話の進行役とされていたが、ボケ役が話の進行役を担当するコンビも少なくないし、この役割分担も固定ではなく流動的にこなすコンビもいる。流れによりボケ・ツッコミが自然に交代し、話を展開できるような、いわゆる達人とされるコンビほどこれが可能になるようだ。
基本的にボケ役は、面白い事を言ったりしたりする役割であり、相方のツッコミ役が、ボケ役のボケを素早く指摘し(ツッコミを入れ)、笑いどころを観衆に示す役割を担う。よって各々が発する言葉には役割が明快に定まっており、話芸の中でも演者の発話のテンポが良く、大体速いペースとなり、ツッコミを入れるタイミングの取り方で対話が大きく変化すると言われている。大抵は2人コンビで登場するが、3人以上のグループの場合もあるし、BGMが使用されたり、演者自身が楽器を演奏する「ギター漫才」「ウクレレ漫才」などもある。
要するに漫才は、伝統芸能としての一定の型が元より存在せず、大衆に合わせて進化し続けねばならない芸能であり、将来は現在の「漫才」の姿は微塵も見られないほど変容しているかもしれない。漫才には絶対不可欠の、笑わせる対象である観衆は気まぐれで流動的で、そのニーズがどのように変容してゆくのか誰にも分からない。

次に漫才の起源と現在に至るまでの歴史について触れてみようと思う。
漫才の起源は、平安時代の頃に始まった「千秋万歳(せんしゅうまんざい・せんずまんざい)」が原型となっていると先に触れたが、現在でも千秋万歳の語は祝言の中に残っているように、極めて一般的な祝福芸であったらしい。祝言を述べて扇を手に舞う太夫と、鼓を打ち鳴らしながら合いの手を入れる才蔵が歌舞を披露する芸能であったが、公家から庶民の家まで身分を問わず訪れ、新春に芸を披露する門付芸になり、一般に広く浸透していった。しかし万歳師は災いを祓う不思議な力を有することで畏れられ、貶まれ、差別を受けることもあり、次第に公家の庇護を求めて貢納金を納め、普及活動の後ろ盾となることを期待したが、江戸時代には公家も失脚し、万歳は神道と結びついたり、旅芸人になるなどして芸を続けていた。そんな中、江戸時代に尾張萬歳、三河萬歳、大和萬歳、秋田・加賀・越前など各地で地名を冠した萬歳が興り、歌舞に言葉の掛け合い噺・謎かけ問答などを加えて滑稽味を増し、工夫を重ね、個性的な芸を創り上げつつ発展していった。明治・大正時代、新春(正月)の門付け萬歳とは別に夏祭や盆の演芸として村々の公民館・芝居小屋で舞台興行を行う萬歳が盛んに行われるようになり、庶民の娯楽となった。そのうち伊勢派の市川順若が大阪の芝居小屋などで芸を磨きつつ頭角を現し、三味線・鼓・胡弓などの楽器を使う「三曲萬歳」を成功させて評判になった。明治時代から行われた大阪の寄席演芸である「万才(まんざい)」は、この三曲萬歳をベースにしたと言われており、初期の万才はこれに倣って楽器伴奏を伴うものだったという。
第二次大戦後、萬歳はほとんど行われなくなり、今では保存会などが復興・継承している。各地の萬歳は継承者を捜し出して復興したものが多いが、成立が古いとされる三河萬歳(愛知県安城市・西尾市など)と越前萬歳(福井県越前市)が1995年に、尾張萬歳(愛知県知多市)が1996年に、各々国の重要無形民俗文化財に指定されている。

大阪の万才のパイオニアとして玉子屋円辰、砂川捨丸・中村春代コンビなどの名が挙げられるが、当時の寄席演芸は落語が中心であり、万才はまだ添物的立場に置かれていたという。その後、2人で落語を演じる形式の軽口噺、浪曲の要素が混ざり合って今の形式になり、大正末期、前述した吉本興業の芸人コンビ「横山エンタツ・花菱アチャコ」が登場し、「萬歳」から「万才」を経て、「漫才」の名が定着し始め、東京へも進出していった。
エンタツ・アチャコの登場後、漫才は全国に急速に普及し、スター漫才師を次々に生み出した。今日の東京漫才の祖と言われている「リーガル千太・万吉」などもこの時期に誕生している。
第二次大戦後、漫才師たちは、戦死・消息不明などで相方不在の状況に見舞われ、特に吉本興業に専属契約が無い漫才師達は大阪に集まり、仕事の受注・管理を統括する「団之助芸能社」を創立した。交通の便も良く、芸人を集結する場所であった大阪市西成区山王は、「芸人横丁」と呼ばれ、交通機関の復旧・発達により営業活動が容易になったため、芸人達はその後は吉本興業や松竹芸能と契約するようになった。

漫才は寄席演芸として発達してきたが、マスメディアとの親和性に優れていたため、ラジオ・テレビ番組で多く披露され、メディアの発達と共に歴史を築いてきたと言える。1960年代後半から1980年初頭は「演芸(お笑い)ブーム」であったのも、カラーテレビが一般家庭に普及し、娯楽ニーズが変容し、テレビ局が競って漫才番組を編成した結晶であると言える。「漫才ブーム(まんざいブーム)」と言えば、演芸界において1980年代初期の短い期間に、漫才が様々なメディアを席巻した一大ブームであり、「テレビ漫才ブーム」と言い換えることができる。漫才ブームに火をつけたテレビ番組として「花王名人劇場(関西テレビ)」、「THE MANZAI(フジテレビ)」などが挙げられるが、このブームが引き金となって「オレたちひょうきん族」「笑っていいとも!」などのバラエティ番組で活躍する芸人たちが台頭することになる。1960年代の最初の演芸ブームで世に出た芸人を「お笑い第一世代」、この漫才ブームで活躍した芸人を「お笑い第二世代」と呼んだりもする。

総論
さて本項・漫才のまとめ部分に入るのだが、筆者はお笑いブーム世代の人間であるのに、お笑いがあまり好きではなく、漫才の記事を書くよりは落語、落語よりは講談…という理論ありきの固い頭の人間なので、この芸能とは?となると、本当に困ってしまう。漫才の魅力を問われても、あまりに単純な「笑えること」程度しか頭に浮かんで来ない。
しかし、と考えてみるに、この芸能は特に関西を中心に一般大衆に根強い人気があり、かつ若者が容易に受け入れる点などを考察するに、他芸より本能的で単純明快な笑いを導き出し、それが快の感情に入るものなのだろうと考える。後味が悪い漫才など数少なく、何より、自分の役回りを察知して周囲を盛り上げたりと、何かと気遣いが上手な芸人が多いようだ。最近流行の「KY(=空気が読めない)」的な人間には、この芸能で笑いを得る事などは絶対不可能であろう…と考えてみると、観客側である一般大衆も、少なからず漫才的要素を己の中に有するから笑える訳で、この芸能で素直に笑えない人は、もしかすると「KY」の要素を少なからず持っているということかも知れない。
極論になってしまったが、現在の漫才の姿が、今後どのような芸能として一般化してゆくのか、その行方が楽しみである。