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落語

らくご(演劇・演芸)


[落語]
「落語(らくご)」は「寄席」「笑点」などの語とともによく知られており、世代によっては、落語と共に人生・青春を歩んだなどと言い切ってしまう人もいるほどの人気がある。講談・漫才・浪曲(浪花節)などと共に「演芸」の1つとして、伝統的な話芸として扱われているが、これらの話芸の中でも特に落語は不動の人気を誇り、カラーテレビ時代から45年余り続いている落語番組「笑点」は、歴代3位の長寿番組だという。笑いの芸能として娯楽の王道を歩んできた落語を本項で紐解いてゆくが、落語愛好者でも読める内容になるよう掘り下げて進めてみたい。

まず「落語」という語の成立であるが、成立当初、本来は落語家が行う演目(ネタ)のうち滑稽物を中心として落ち(サゲ)を持つものを「落し咄(おとしばなし)」と呼び、それ以外は「話・噺・咄(はなし)」などと呼ばれていた。落語の表記は、江戸時代の18世紀後半に刊行された「新作落語徳治伝」で初見され、落語(らくご)と呼ばれるようになるのは明治期以降のことである。必ず落ちがあることから落し咄と名が付き、落語に転化したというが、落語演目には落ちのない人情噺・芝居噺などもあり、現在は全ての演目の総称となっている。ちなみに演者は「落語家」とも「噺家」とも呼ばれており、落語が幅広く浸透していた江戸時代当時の名称の名残が見られる。

落語家(噺家)は、各々の落語家のテーマソングである「出囃子(でばやし)」という三味線・太鼓などの下座音楽に乗って着物姿で舞台に登場し、「高座(こうざ)」と呼ばれる落語舞台の、真中の座布団に座って話を始める。座ったまま、基本的には身振り(仕草)と語り(言葉)の技巧のみで、様々な登場人物(子供・町人・武士など)を演じ分けるシンプルな芸で、衣装・道具・音曲を極力用いずに披露する素の芸であり、それゆえに観衆を魅了する高度な技芸を要すると言われている。同じく笑いを主眼とし、演者が聴衆に語りかける形式の「漫談」との違いは、登場人物同士の対話を中心として話が進行する点にある。通常「枕(前振りとして語られる小話)」の次に「地」と呼ばれる場面設定や心理・状況描写などを説明する部分が入り、続いて本筋として大半を占める対話部分で話が構成される。少し解かりづらいので、落語の話の構成要素について少し触れておくことにする。

「枕(マクラ)」とは、導入部で語られる世間噺・時事問題や、本題と接点のある面白い小話のことで、当時の風習・言葉を予備知識として事前に説明するなどして本筋を解かり易くしたり、落ちへの伏線をはるなど演者側が話を進め易くする効果がある。この小話で笑わせてリラックスさせ、話に惹きつけるなどの効果もあり、演目や噺家によっては一定の様式の枕もあるため、通になると枕で本題が分かるという。絶対に語らねばならないものではないので、いきなり本題に入る噺家もいるし、古くから有名な「まくら噺」というものもあり、この部分だけで一席分の語りになるものもある。
「地」とは、場面設定・心理描写・状況描写などを必要最小限で説明する部分のことであり、登場人物の会話でない部分のこと。会話調の対話部分の語りより地の部分が多く、講談に近い語り口調の地で話が展開してゆくものを特に「地噺」と呼ぶ。「人情噺」などに多い。
「擽り(クスグリ)」とは、本来の話の筋にある笑いではなく、演者によって入れ込まれる笑いのことで、地口(駄洒落)・内輪ネタなどで観客の笑いを取ること。特に歌舞伎や古典落語などの伝統芸能では時折見られるものであるが、挿入する場合には、一般的に話の筋から大きく外れないものが好まれる。
「落ち(サゲ)」とは、落語の締めくくりの一言であり、落し噺で特に重要なもの。よく考えないと理解できない落ち・発音が似ている地口(駄洒落)の落ちなど多様な種類があるが、いずれもこの常套句による笑いで結びとなる。「考え―」「逆さ―」「仕草―」「地口―」「仕込み―」「途端―」「ぶっつけ―」「間抜け―」「見立て―」「にわか―」「とんとん―」「梯子―」「回り―」などに分類されるが、十分な分類法がなく、現在では従来の分類で当てはまらないものや別の分類に入れた方が良いものも出てきたという。口演時間の制約や、通じない落ちが出て来たことなどにより、最近は落ちまで披露せず終わることも多く、人情噺・芝居噺などの大半は落ちがない。

話の構成要素を挙げてみたが、次に物理的な、目に見える要素も挙げてみることにする。演出の代表的なものは小道具であるが、手拭い・扇子のみで全てを表現し、例えば、扇子はきせる・箸・筆・杯・刀・釣竿・手紙等、手拭いは本・財布・証文などに見立てられる。扇子は「かぜ」、手拭いは「まんだら」、羽織は「だるま」と、符牒(隠語)を使って呼ばれている。二つ目昇進後、自分の名前入りの手拭いを作ることができ、真打昇進後は、更に自分の名前入りの扇子を作ることができる。江戸落語と上方落語では小道具や慣習に違いがあり、上方落語では見台・張り扇・小拍子など、講談の演出と同じような小道具も用いられる。小道具以外の演出要素として衣装・照明・効果音などが挙げられるが、基本的に噺家は比較的シンプルな柄、又は無地の和服を着用して舞台に挙がり、照明や効果音は用いない。落語は素の話芸であり、観衆に対しても芸に集中して貰えるよう、話以外の余計な音や物を極力避けるものであるが、地域・演目などにより最中に音曲や効果音が使用される場合がある。上方落語に用いられる下座音楽である「はめもの」がそれである。芝居噺に用いられる「書割」「ツケ」などは例外として慣習的に使用されている。元来、江戸落語には名ビラ(演者の名を記したもの)やメクリ(名ビラを掲げる台)、出囃子も無かったが、後になって上方落語から移入され常用されるようになった。元はかなり簡素な舞台構成・演出であったと思われ、現在も同じ流れを継ぎシンプルであることには変わりなく、しかし各々最小限の所作に様々な意味を持たせているので、素人目に解りづらい演出も多い。例えば二つ目昇進以後は紋付羽織の着用が許されるが、一瞬で羽織を脱ぐ脱ぎ方・タイミング等にも約束事があり、枕から本題に移行する合図・次の演者(噺家)の準備が出来た合図を担ったり、羽織があれば大名や殿様、羽織が無ければ商人役であるなど何らの意味合いを有するとされる。

そもそも落語という芸の根幹を成す要素は、先に述べたように言葉(口頭語)と仕草(座って行われる最小限)の2つしかないので、この2つを少し掘り下げてみたい。
言葉  古典落語の場合は、大半が口伝で継承されてきた特定の口演台本があり、噺家はこれを元に稽古し口演する。先に述べたが説明的な「地」の部分と会話文で構成される本題は、主にテンポの良い会話で話を進め、最小限の地で表現できない描写(細かい心理描写など)は仕草で補われる。登場人物を全て一人で演じねばならないため、声の調子・言葉遣い・話し振りなどの工夫により演じ分けられ、これらが綯い交ぜの状態であっても聴衆は不自然に感じないという。
仕草  言葉の全てに仕草が伴われるのではなく、言葉で表現しきれない部分にだけ次のような仕草が付される。
小道具を箸に見立て、何かを「食べる」動作は落語の代表的な仕草である。同様に飲む・書く・歩く・走る・着るなど人物の行動を座ったまま表現する。要所で人物の「表情」を強調したり真似たりするもの、登場人物を解り易く分けるため上位・下位の人物の会話を上手・下手への「視線」「目振り」で表すもの、また「視線」「指差し」で虚空に場所・物を演出する場合もある。いずれにしろ落語舞台で小道具や演者の有する空間に制限があり、演者の話術と、座布団上の制限された動きだけでは観衆の想像力に負う部分も大きいが、それを促す臨場感を有する演出が非常に重要であるといわれる。

ここで、何度か話に出てきた「江戸落語」「上方落語」の違いについて触れておこうと思うが、いずれも素人の筆者なので、一般的に言われる違いを挙げてみることにする。語の通り「江戸落語」は江戸で誕生・発展したお座敷芸を起源とし、「上方落語」は上方(京阪神)で誕生・発展した大道芸を起源とすると言われている。端的に言えば、じっくりと名人芸を聞かせる粋で静的な話芸が「江戸落語」、派手で目立つ仕草を伴って笑いを追求する動的な話芸が「上方落語」と言えるかもしれない。近年では、2007年にNHK朝の連続テレビ小説「ちりとてちん」で上方落語を採り上げたので、違いについてご存知の方も多いかもしれない。
上方落語の特徴は、上方弁(関西弁)でコッテリとして言葉数も多く、上方落語独特の「ハメモノ」という音楽が入り、賑やかで入念な演出とともに可笑しさを追求する。戸外で観衆を集め、惹きつけるために小道具・鳴り物も用いられ、笑いで観衆を喜ばせることを重視するサービス満点の内容で継承されてきた。観衆とのスタンスも江戸落語と比べて対話中心であり、観衆の反応を大切にする芸能として育まれてきた。故に江戸落語に見られるような芝居噺や人情噺などのジャンルが存在せず、寄席の雰囲気やお客様のウケなど、江戸落語とは今でも違うという。上方落語の方が演目数が多く、江戸に移入された演目も多く、起源も、時期的には上方の方が早かったという。
江戸落語の特徴は、歯切れ良い江戸弁で、無駄な言葉を省いた洗練された話芸としての面白さを追求する、軽妙洒脱な芸である。上方にはない人情噺が特徴的であるため、人情噺の感動・感銘を呼ぶ系統と、笑いを追求する系統との2つが混在しているが、上方に比べて一方通行で、観衆とのスタンスは舞台の上と下ではっきりとした境界線を有する。東京落語とも呼ばれ、座布団と湯呑みのみが舞台装置であり、特に囃子が用いられるものは「音曲噺」という1つのジャンルになっている。上方から移入された演目が多いが、そのまま同じ内容・演目名・オチではなく、江戸の寄席の雰囲気に合わせて変えられたものが多い。

次に、落語という話芸の起源について触れてみたい。落語成立までの流れは明確ではなく、「話・噺・咄・囃・談・語」のいずれも「はなし」と読まれるなど日常的に行われる動作とも密接であり、また「話芸」という語の成立自体も明治時代に入ってからのことで、どこからが芸能と呼べるものなのか難しい。これは他の話芸でも同じであるが、話芸を生業とした職掌の歴史に限定して遡ると、古くは上代の「風土記」の頃、各地の説話を口伝した語部(かたりべ)に始まり、室町時代に誕生した近侍の雑役・芸能僧である同朋衆(どうぼうしゅう)を経て、戦国時代の武士役職である御伽衆(おとぎしゅう)・御咄衆(おはなししゅう)に及ぶ。芸能として見るならば、高座に座して巧妙な話の演出をする現在の形式は、平安時代、仏教の説教(説経)師が創造し、継承・発展させたものとされているが、今の落語の直接的な起源は、一般的に戦国時代から江戸末期、主君に近侍して話し相手となった武士役職である「御伽衆(おとぎしゅう)」「御咄衆(おはなししゅう)」にあると言われ、多くの戦国大名が御伽衆を置き、当初は戦陣の合間の慰め役として武辺話などを面白く語るものであった。次第に領国経営など役立つ知識を有する古老・浪人などの任務となり、更に江戸中期以降の天下泰平と世には、大名の幇間のような存在になった。武家出身の御伽衆の流れが講談師となり、町人出身の御伽衆の流れが落語家になったとも言われている。その中に「頓知者」と呼ばれる人々がおり、その代表的人物としては、1628年に最古の噺本である「醒睡笑」を著した、誓願寺の安楽庵策伝が挙げられ、彼らの滑稽話が落語の祖型であると言われている。この著書には「子ほめ」「牛ほめ」など現在でも演じられている原話も収められており、全部で千以上の小咄が収録されているという。
その後17世紀後半、ほぼ同時期に3人の人物が落語の祖として名を残している。京都では、露の五郎兵衛が四条河原・北野天満宮などで「辻談義(辻説法)」を行い活躍し、職業落語家の祖と言われている。大坂では米沢彦八が出て人気を博し、生玉社境内を本拠地として辻噺を盛んに行い、名古屋でも公演をするなど広く知れ渡った。「軽口」「軽口噺」と呼ばれ、「仕形物真似(しかたものまね)」を得意として派手な演出で有名で、また初代の彦八が「寿限無」の原話を作ったと言われ、大阪落語の祖と呼ばれている。次の2代目・米沢彦八も名高く、落語界に名を残している。同時期に大坂出身の鹿野武左衛門が、江戸の芝居小屋や風呂屋で「座敷仕方咄(ざしきしかたばなし)」を始め、身振り・手振り・表情を交えて口演する現在の落語の祖形を作ったことから、江戸落語の祖とも呼ばれている。
更に18世紀後半、狂詩・狂文が盛んとなり、上方では雑俳・仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始め、白鯉館卯雲という狂歌師が江戸に伝えて江戸小咄が誕生、「小咄」「落とし咄」と呼ばれる時代である。上方で1770年代、江戸で1786年に烏亭焉馬(うていえんば)らにより「咄の会」が始められ、初代三笑亭可楽・初代三遊亭円生が登場する基盤を築いた。1798年、岡本万作と初代三笑亭可楽が江戸で各々の寄席を開いた後に寄席の数が急増し、天保の改革によって一時は寄席の数が120軒から15軒に衰微するも、直ぐに再興し、落語の興隆期を迎える。そんな中、幕末~明治期に活躍した「三遊亭圓朝(さんゆうていえんちょう)」は「芝居噺」で大人気を博し、歴史的名人として現在でも知られ、中興の祖とも呼ばれている。圓朝は時代に即した落語を口演し、自作自演の「怪談噺」や、取材に基いた「実録人情噺」など独自の題材を創出し、落語の新たな道を開拓した。この頃、日本語速記術が誕生し、圓朝の高座の速記本は当時の文学や新聞で大人気となり、特に文芸における言文一致の台頭を促すなど大きな影響を与えたという。1917年、柳派・三遊派が合併し、「東京寄席演芸株式会社」「三遊柳連睦会(睦会)」を設立し、更に1923年には「睦会」と「会社」が合併し「東京落語協会(現・落語協会)」を設立した。大学サークルの落語研究会である「落研(おちけん)」が東京大学・早稲田大学などで誕生するのは昭和20年代の頃のことである。

こうして落語の歴史を振り返ると、創始から何百年もの間、男性だけの専売特許職であり、女性の参入が皆無であった。日本の伝統芸能では、同じように男性によって培われてきたものが多いのだが、20年位前から、女性落語入門者も見られるようになり、現在では東京・大阪で10名余りの女性落語家が活躍しているというから喜ばしい限りである。
寄席や演芸場(ホールともいう)の興行で演じるプロの落語家(職業的噺家)として名が挙がる人は大勢おり、現在、プロの落語家は東西合わせ600人以上いるのだが、落語家プロ第1号は、現・JR上野駅近辺で寄席興行を行った三笑亭可楽とされている。昭和初期に誕生した「東京落語協会(現・落語協会)」から組織が分化しており、落語協会(三遊亭円歌会長)、落語芸術協会(桂歌丸会長)、立川流、三遊亭円楽一門、上方落語協会(桂三枝会長)と所属組織が幾つも並立しているのが現状である。またプロでも興行収入の歩合(割)だけでは生計が成り立たず、旦那・お旦などスポンサーからの小遣い、妻の賃労働収入、座敷(酒席)での余興収入などにも頼る状態であり、副業・内職・アルバイトなど収入源・額に相場は無く、個々により様々のようである。

さて、前述の歴史の項にもいくつか名が挙がっているが、落語の種類について最後に触れることにしたい。
「古典落語」  江戸~明治期頃までに原型が成立し、戦前までに演出が確立した演目のこと。更に以下のように分類される。
  「落とし噺」  面白可笑しい滑稽噺を中心とし、噺の最後に洒落や語呂合わせなどの落ちで面白く終わるもの。「牛ほめ」「饅頭こわい」「代り目」など。
  「人情噺」  登場人物の心理、世情、人情の機微ををリアルに描くことを目的とし、親子愛・夫婦の情愛・師弟愛・男女悲恋などの情愛を描いたもので、涙を誘う場面はあっても落ちはなく、笑いが主体ではない類。多くは長編作品で続きものとなり、かつては主任(トリ)の噺家が10日間興行で連続して口演したそうだが、区切りのいい一部を取り出して現在は演じられている。「芝浜」「文七元結」「子別れ」など。
  「怪談噺」  簡単に言えば幽霊やお化けが出てくる類で、主に夏に演じられ、幽霊の面や鳴り物などの演出をすることもある。「真景累ヶ淵」「牡丹灯籠」等が有名で、人情噺同様、長編なので数日掛けて口演される。途中までが人情噺で、末尾が芝居噺ふうになっている場合が多い。
  「芝居噺」  芝居(歌舞伎)と同様に書割・音曲を用い、演者が立って見得を切ったりするもの。芝居を題材にし、役者の声色などを真似したり、パロディにしたりする類で、全体として「落とし噺」と同じ構成で、要所に芝居風の台詞廻しが混じる。
  「廓噺」  遊郭の遊女と男たちが繰り広げる悲喜劇を取り扱った一連の噺。上方では「茶屋噺」と呼ばれている。「明烏」「居残り佐平次」「品川心中」など。
  「音曲噺」  芝居噺に含められるが、大げさな所作は用いず、音曲を利用して話が展開されるもの。上方落語では噺の途中に「はめもの」という下座音楽が用いられるので、音曲噺という演目を立てるのは江戸落語に限られる。
「新作落語」  世情に機敏に応じた時事的作品、風刺性の濃い作品が多い。多くの演者によって演じられる(桂米朝作「一文笛」など)作品も少なくないが、作者・初演者のみのネタとして扱われ、斯界全体の共通財産と呼べぬものが多い。
「前座噺」  単純で短く、基礎的技術を養うのに適した演目で、前座が最初に習い覚えたり、前座が口慣らし・口捌きに口演するもの。二つ目・真打が口演することもあるが、比較的簡単な軽い話とみなされ、通常トリの演目として披露されることはない。しかし上方では前座噺として長編の「旅ネタ」を行うことが多く、どこで区切っても別の演者が続けられるようにできているためだとされる。
「大ネタ」  大作や人情噺などの中で特に難易度の高い作品の俗称。「らくだ」「地獄八景亡者戯」など。

総論
落語は親しみやすい大衆芸能として大人気を博したとは言え、現代「笑い」の芸能と言えば「漫才」の方が身近であり、若者世代には親しみやすい感がある。一昔前からは想像もつかないほど、テレビの娯楽番組が増えたように思う。「バラエティ番組」と言えば、誰かしら漫才師が司会・ゲストなどで出演している一方、落語家はバラエティ番組であまり見かけないし、やはり漫才師よりは格のようなものを感じるし、新作落語で若手が口演していたとしても、伝統の継承を感じる。「笑い」を楽しむ大衆側の視点ではなく、「笑い」を提供する演者側に目を向けると、伝統的所作・日本語の構成の美しさや面白さ、言葉の繊細さなど、消化して表現することの難しさを再認識させられるのではないだろうか。
筆者には噺家になろうと勧誘する意図は毛頭ないが、母国語や母国の文化を理解する別の方法として、落語をじっくり聴いてみるのも乙なものではないだろうか。