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浪曲・浪花節

ろうきょく・なにわぶし(演劇・演芸)


[浪曲・浪花節]
「浪曲(ろうきょく)」と聞いてもピンと来ないが、「浪花節(なにわぶし)」と聞けば何であるかイメージできるかも知れない。浪曲と浪花節は同じもので、当初、浪花節の名称で親しまれていたものを蔑称としても使われた経緯を嫌い、浪曲として公表し始めたことで2つの名称を持つこととなった。「浪花節にでも出てきそうな」「浪花節的な」などの日本語表現も使われているし、内容的に義理人情の世界を扱うことが多いため、「浪花節」という語も、義理人情の代名詞のように使われている。まずはこの芸能の系統と成立から追ってゆくことにする。

浪曲は、その上演形態の共通性から落語・漫才・講談などと共に「演芸」の1つとして現在は扱われているが、大衆芸能としての本質は、落語・講談・漫才などの話芸と異なり、「曲」と付く通り音楽の1系統に含まれる。邦楽の中の「声楽」の2大系統として「歌い物」「語り物」があり、浪曲は語り物の1系統になるのだが、更に遡ると、声楽の源流は「声明(しょうみょう)」にあるとされる。以下、声明から浪曲成立までの流れを年代順に追ってみることにするが、声明は日本音楽の源にあり、言い換えれば日本声楽史に相当するものとも言えるので、興味のある方はじっくり読んで頂ければ幸いである。

古代インドの学問分野に「五明(ごみょう)」というものがあり、その1つに音韻学・文法学として「声明(しょうみょう)」があった。日本へは仏教伝来と共に中国から「声明梵唄(しょうみゅうぼんばい)」として移入され、定着・発展してきたと見られている。声明とは仏教儀礼・法要の際、経文に一定の旋律を付して朗唱する声楽の一種で、「梵讃(ぼんさん・サンスクリット語)」「漢讃(かんさん・中国語)」「和讃(わさん・日本語)」など、3つの言語により書かれ、日本語で書かれた和文声明だけでも10種類余りあるというが、いずれも諸仏讃嘆・祈願を目的としたものである。奈良時代の752年、東大寺大仏開眼供養会が行われた際、法要で声明が盛大に唱えられたという記録が史実上初めて登場し、当時、既に声明が盛んに行われていたと見られている。中国・朝鮮で「梵唄(ぼんばい)」「唄匿(ばいのく)」と呼ばれていたことから、梵唄の名称も用いられている。平安時代初期、最澄・空海により中国から密教系の「天台声明」「真言声明」両派が主流派となって広められ、その後、平安時代後期の僧で融通念仏の祖でもある「良忍」が、京都・大原で日本各地の声明をほぼ全て吸収・大成したといわれる。「日本舞踊-念仏踊り」の項を参照頂ければ融通念仏の流れも解るかと思う。京都・大原は魚山(ぎょざん)流声明の本拠地として今日でも有名であり、この後、鎌倉時代の「平曲」(平家琵琶)や室町時代中期の「浄瑠璃」「謡曲」など、語り物において大きな影響を与えた。
さて本筋の声明の流れに戻るが、仏の教えを広めるため、一般の人々にも判り易いように、僧が経文を因果応報の話として仏事の席で語る「説経」が起こり、より馴染みやすく声明の音曲的要素(曲節)を加え、室町時代初期には「説経節(せっきょうぶし)」と呼ばれる芸能が誕生する。説経節は、仏教経典の解説・神仏の霊験・各地の伝説・寺社縁起などを題材とした庶民向けの説話が文学的に進展した、いわゆる唱導文学が更に発展したもので、江戸時代前期には伴奏楽器として浄瑠璃の三味線を取り入れ、「説経浄瑠璃」「歌浄瑠璃」という形式を生み出し、一般的な音楽として人々に受け入れられ全盛期を迎えたが、この頃は義太夫の浄瑠璃・文楽・歌舞伎の全盛期にあたり、その絶大な人気に押されて消滅していった。
方で、和讃を元として成立した山伏(修験者)祭文(さいもん)に音曲的要素を加え俗化した「祭文節(さいもんぶし)」から、更に芸能化した「歌祭文(うたさいもん)」という芸能が庶民の間で流行する。祭文とは本来、山伏修験者が錫杖を振り鳴らし、ほら貝を吹きながら、祭礼で神に捧げる祝詞(のりと)を唱え歩くものであるが、歌祭文は近世俗曲の1つで、門付芸人が死刑・情死など話題性のある事件や当時の風俗を綴った文句を、三味線などの伴奏で歌いながら巡業するもので、庶民が求める題材、例えば芸能ニュースのようなタイムリーな話題を題材に、アップテンポで面白く聴かせるものに変容した結果出来上がった芸能である。更に江戸時代末期には、説教節などを基調として江戸で「弔歌連(ちょんがれ)」「チョボクレ」、上方で「阿呆蛇羅教(あほだらきょう)」と呼ばれる都市部の大道芸に変化し、祭文節の別系統の流れとして歌説経・説経浄瑠璃を取り入れ「デロレン祭文」という流行芸が誕生した。関東での浪曲の直接的なルーツは、これら弔歌連・チョボクレにあると言われているが、上方(関西)での浪曲のルーツはもう一段階加わる。
江戸時代末期・文化文政期の上方で、弔歌連を改良しデロレン祭文を統合し、更に節の間に語りの部分を加えた「浮連節(うかれぶし)」という上方浪曲の前身にあたる芸能が誕生した。「京山恭安斎(きょうやまきょうあんさい)」が義太夫節・琵琶などの長所を採用し、三味線を伴奏とした新しい一人芝居として興行し、関西で大いに歓迎され、大衆芸能の名物となった。大道芸ではない大衆向け芝居芸としての自負から、地方巡業を多く行ったと言われる。明治時代初期、浮連節の人気を脇目に江戸へ上り「浪花節(なにわぶし)」として売り出し、人気を博したのが「浪花伊助(なにわいすけ)」である。古くから伝わる浄瑠璃・説経節・祭文語りを基礎として、大道芸として始められ、演者の名前から「浪花節」と名付けられた。弔歌連の節回し、チョボクレの語り口上、デロレン祭文の発声、阿呆蛇羅教の音調子など様々な門付芸の要素に「河内音頭」「江州音頭」のリズム、講談の会話運びなど、大衆芸能の要素を融合・吸収して作られたと言われる。明治時代半ば頃まで、「ヒラキ」と呼ばれるヨシズ張りの掛け小屋で興行することが多く、大道芸人として軽視されていたものの、浪曲草創期の立役者として浪花伊助・京山恭安斎の名は伝説的に語り継がれている。
成立までの流れを見てきたが、その後、現在に至るまでの歴史も併せて紹介したい。
その後、東京で浪花節は勢力を増し、地位の高い寄席でも上演されるようになり、一方関西では浮連節専門の寄席が徐々に数を増していった。明治中期頃、浪曲の黄金時代を築いた桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)が東京での27日間興行で大入りの成功を収めた時、壮士の演説会を真似て金屏風・立机が置かれ、羽織袴で演じるという現在の口演スタイルが誕生したと言われている。屏風裏で曲師が演奏するという演出の裏には、美しい妻である曲師を観客の目に触れぬよう隠したとの説もある。因みに、以前は浄瑠璃と同様、演台を前に置き、座り高座に曲師と並んで演じていたという。演題も、従前の講談などを元にした庶民的なものから、武士道鼓吹を名目とした「義士伝」など、この頃から現在の「金襖物(きんぶすまもの)」が中心に据えられ、大衆に熱狂的に歓迎された。特に桃中軒雲右衛門(東京)と二代目・吉田奈良丸(関西)は、政治活動家・思想家などの後援で初めて文士の手によるオリジナル脚本を創作し、確固たる思想に基づく主張のある格調高い演目となり、その芸術的価値が一挙に高められ、またこれに触発されて多くの浪曲師が義士伝を中心にオリジナル脚本の創作・整備を進め、浪曲全体の水準が高まることになった。その後、レコードの全国的な普及により地方巡業も華々しく持て囃され、歓迎された。その後の昭和期、戦前は民放ラジオ局が続々と開局し、浪曲番組は聴取率が高く、番組への採用も多かったため全国的な浪曲ブームが起き、隆盛を極めた。2代目・広沢虎造の登場により「清水次郎長伝」の虎造節が戦前から戦後にかけて一世を風靡した。戦後のテレビメディアの台頭に乗り遅れ、また大衆娯楽も多様化により、浪曲は次第に衰退してゆき、現在、古臭い芸と思われがちではあるが、若手育成や新しい試みとして海外活動なども始まり、今後どのように変遷してゆくか楽しみな芸能と言える。

ここで浪曲の名称の変遷について少し触れておくことにする。前述のとおり、浪花節と浪曲は同じものであり、正式名称は現在「浪曲」となっている。関東・関西で、ほぼ同時に誕生した浪曲だが、上方ではしばらく「浮連節」と称され続け、江戸では「浪花節」の呼称が広まり始めた。明冶時代に入ると政府による芸人取締令発布により、興行のための鑑札の下附を受けるため、1872年「東京浪花節組合」が東京で結成され、新政府教務省の指示で由来書を提出し、「浪花節」という呼称が初めて公のものとなった。しかし1900年代初頭までは、弔歌連節・チョボクレ・浮連節など、全国的に共通した名称は持たない状態であった。東西の交流が始まり、全国的に人気を博するにつれ「浪花節」の名称で統一され始め、また大正時代半ば頃から「浪曲」という名称も一部で使われ始め、昭和期に入り「浪曲」の名が次第に一般化したのだが、昭和30年代に入り、日本浪曲協会は「浪花節」が蔑称としても使われた経緯を嫌い、「浪曲」として公表し始めたことで2つの名称を持つこととなった。現在は、偏見なく双方使用されているような状態である。

次に浪曲の概要に移りたい。浪曲は、太棹(ふとざお)の三味線を伴奏として、浪曲師が1つの物語を「節(ふし)」と「啖呵(たんか)」で語る大衆芸能であり、この構成が浪曲特有の魅力を生んでいる。節は、物語の情景や登場人物の心情を歌詞として歌うものであり、啖呵は、登場人物を演じて台詞を話すものである。成立当初は「啖呵」がなく、平曲・謡曲・浄瑠璃などと同様、物語を謡い語るものであったが、内容・構成・演出などにおいて他の様々な芸能を自由に取り入れ、演劇的性格と話芸の性格とを併せ持った複合芸術となった。
浪曲専門の舞台として現在残っているのは、大正時代に開業した東京都台東区浅草の演芸場「木馬亭」のみであるが、大阪市天王寺区の一心寺では毎月1回「一心寺門前浪曲寄席」が開かれるなど、舞台装置として特別に必要となるものがないため、全国各地のホール等でも上演されている。ラジオでヒットした浪曲であるが、現在はラジオ番組も少なくなり、NHKラジオ第1放送「浪曲十八番」と朝日放送「おはよう浪曲」が根強く生き残っている。
舞台は、舞台中央の浪曲師(語り)の背後に金屏風、やや前方に屏風又は衝立を立て、三味線などの伴奏(曲師)がその裏の姿が見えない位置で演奏する。その後ろの中央演台の下手側横には演台より一段高い湯呑み台を置き、演者のすぐ後の背の高い椅子には流派の家紋を付した布がかかり、両袖の屏風前にも小さな台を置き、演台には様々な絵柄の布地が掛けられる。このテーブル掛けは厚地で、裾が左右に山型に広がるものであるが、相撲界の化粧回しと同じくファンが贔屓の浪曲師に送るもので、下部に金糸で贈主の名前が記され、湯呑み台の方に浪曲師の名が記されることが多い。布地は主に羽二重や塩瀬が用いられ、以上の一舞台用の布地が揃いで最低50万円以上するというから驚きである。売れない浪曲師が一体どんな布地を被せるのか見てみたいものだ。さて、浪曲師一人が中央の演台の前で、男性は紋付袴、女性は袴を付ける・付けない両方あるが、いずれも和服姿で上がり、椅子はあっても立って演じるのが基本とされる。この芸能の自由性のためか昨今の若手浪曲師はカジュアルな服装だったり、伴奏として三味線に替えてギター・ピアノなども用いられるようだ。
浪曲は、成立当時から義理・人情・情愛など、人間的な物語を題材として演じられることが多く、歌舞伎・講談・文芸・浄瑠璃・ニュースなど幅広いジャンルから物語が作られる。浪曲の演目(外題)は、一話完結のものから連続ドラマのように長編のものまであるが、大体30分程度の話となっている。演目内容は、講談と同系統の分類を持つが、その分類方法は公には定まっておらず、筆者もどの分類が正しいのか判らないのだが、おおよそ次のようになる。
「金襖物(きんぶすまもの)」お家騒動物・出世物などとも呼ばれ、武士の忠勇美談を題材とし、他の演目より格があるとされる。「赤穂義士銘々伝」「乃木将軍伝」などが有名である。
「端物(はもの)」世話物(悲恋・ニュースなど)・白浪物(泥棒物)など、他のジャンルに含まれないものを題材とし、「佐渡情話」「八百屋お七」「滝の白糸」「番町皿屋敷」などが有名である。
「三尺物(さんじゃくもの)」任侠物・侠客物とも呼ばれ、任侠、侠客、やくざ物を題材とした「清水次郎長伝」「国定忠治」「天保水滸伝」「瞼の母」などが有名である。
「ケレン物」歌舞伎の外連(けれん)から来た滑稽物、いわゆる「お笑い」のことで「ケレン読み」とも呼ばれる。「甚五郎小田原の巻」などが有名である。
浪曲の代表的な演目(外題)は通常、口演した浪曲師の名と共に有名となり、ヒットした演目は、ヒットさせた浪曲師の専売特許となり、断り無く他者が演じることはできなくなる。講談・浄瑠璃など著名な作品を原典とするものが多いため、同じ物語を複数の浪曲家が演じることはあっても、脚本は別物として扱われる。これは浪曲の特質として創造・個性を尊び、各々の浪曲師が自由に節付け・表現・演出するため、例えば2代目・広沢虎造の十八番「清水次郎長伝」と玉川勝太郎の「清水次郎長伝」は全く別の作品として扱われる。ヒット作は同流派の門人や後継者に優先的に受け継がれ、人気の名跡もまた同様に襲名されるが、そのまま受け継いで演じても、観衆からは受け入れられないのだという。浪曲には多くの伝統芸能に見られるような家元制度がなく、人気を勝ち得た者がトップに立つ訳で、その家の芸風が伝承過程で洗練されてゆく側面もあるが、個々の演者に個々の芸風が求められるし、同じ家系でも先代以上の独自性・創造性が求められる世界なのであり、現在は伝統の継承と個性の兼ね合いが求められている。
次に浪曲の節について触れるが、関東節・関西節・中京節(合いの子節)と大きく3つの地方で分けられている。
浪曲は東京と大阪でほぼ同時期に生まれ、交流しつつも各々特有の芸風が形成された。現在用いられている「関東節」「関西節」の分類によると、浪曲師の語り口調と三味線の調子により、速いテンポで高調子の関東節と、ゆっくりしたテンポで低音に特徴がある関西節とに大別される。ただし両者の違いは、浪曲師の本拠地が関東・関西かに縁らず、亭号にも縁らず、区分が明確ではないが、関西の浪曲師で関東節の者はおらず、昨今は、生粋の関東節の浪曲師が少ないと言われている。元来、両者の明確な違いは三味線の調子にあり、高調子が関東節、低調子が関西節とされたが、現在は三味線の響きが良く、伴奏が派手に聞こえ、また演者が調子を取り易いため、関西節の演者も高調子の三味線に変えてしまったので差異の説明は難しくなったが、各々の成立の背景から違いを見てみることにする。

「関東節」は、基本的には明るく・高調子で・速いテンポが特徴とされ、関西から伝わった歌浄瑠璃をデロレン祭文に採り入れることで出来上がったもので、発声法(声質)は祭文語りの流れにより、高く張り上げるような、絞り出すような硬い高音域の寂声(さびごえ)が基本となる。よって変化に乏しく一本調子の節調が多いので、他の芸能の様々な節回しを取り入れることで変化を付けた。最も特徴的な節は「約節(やくぶし)」と呼ばれるもので、義太夫・説経節などから転用した「セメ」などの節を織り込むものである。古来より主流は、浪花亭駒吉が演じたことから起きた「浪花亭派」であり、浪花亭派から独立した「木村派」(木村重友)、上州祭文に瞽女歌を融合させた「東家派」(東家浦太郎)、デロレン祭文語りを発展させた「玉川派」(青木勝之助)などがある。

「関西節」は、逆に単調で・低調子で・遅めのテンポが特徴とされ、説経節からの流れを汲んだ軽く柔らかみのある寂声が基本となっている。よって変化に富み、表情豊かな節調による表現が可能だった。関西節では仏教説話の如く、柔らかな節回しの変化とともに強い説得力を持つものであり、逆に「滑稽節(ケレン節)」のような軽妙洒脱な表現・演出が生まれたのも関西節なればこそである。主流は京山恭安斎の祖とする「京山派」、吉田奈良丸を祖とする「吉田派」である。

「中京節」は、関西節の滑らかさに関東節の切れ味を取り込み、2つをうまく融合させたもので、「合いの子節」とも呼ばれる。独特の伊勢祭文語りの流れを汲んだ鼈甲斎虎丸の節がある。「清水次郎長伝」で大ヒットした2代目・広沢虎造が生んだ「虎造節」は、木村重松の関東節と鼈甲斎虎丸の中京節を融合させたものである。また歯切れの良い啖呵で知られ、任侠物「河内十人斬り」、ケレン物(お笑い)「左甚五郎」を演じて浪曲界を支えた初代・京山幸枝若が生んだ「幸枝若節」は、低く暗いイメージの関西節を、高音でノリのよいテンポに変え、新しいイメージを生み出した。他に、美空ひばりの十八番だった「唄入り観音経」を演じ、新内節を融合して「三門節」を作った三門博などがいる。

最後に、演者である浪曲師について紹介してみることにする。
他の芸能と比べて伝統の継承に縛られることもなく、演者にとってかなり自由のある創造的な芸能であり、成立当初から女性に門戸が開かれ、男女全く同列で覇を競ってきたという、日本では稀な芸能である。浪曲の評価基準は古来より「一に声、二に節、三に啖呵」と言われており、浪曲界の実力は、その人気と等しく、よって大衆の嗜好如何に掛かっている。よって一般的に人気を博する浪曲師は、一に声の良い者、二に魅力的な節調(節回し)の者、三に話芸が巧みで啖呵に優れる者とされ、概ねこの法則は浪曲史上実証されてきた。しかし「節(ふし)で三年啖呵(タンカ)で五年」と言われるように、浪曲を学ぶ際は、節より啖呵が難しいとされる。不条理ながら、芸が不出来でも美声と名調で名を成した浪曲師は大勢おり、修行だけでは大成できず、天賦の才能が必要な訳である。この点が、話芸である講談や落語と並び称される演芸のうちでも、浪曲が声楽である所以である。
第一に評価される声であるが、声楽ではあれど清澄な美声が必要な訳ではなく、祭文から続いてきた発声である「寂声(さびごえ)」という閑寂・枯淡で、修練を経て老熟し、枯れて渋みの増した趣のある声が評価される。寂声による独特の声使いにより表現される登場人物の感情・心理の起伏は、観衆に本能的に伝達して感性に訴え、理屈抜きでストレートに感情伝達されるところが浪曲の特質であり醍醐味とされる。プロの浪曲師とアマチュアでは語りの上手・下手という技術上の問題以前に、声質差が歴然としており、アマチュアは物真似・節真似ができたとしても、歌唱力-寂声は簡単には育ち得ないものなのである。
第二に評価される節調(節回し)であるが、浪曲師が各々独自に創り出すものであり、奈良丸節、幸枝節など創作した浪曲師の名を冠して称され、独自の曲節を持って初めて一流と呼ばれる。だが昨今では新しい曲節を生み出すより、歴代の先人の芸から節の音程変化・呼吸・間等を写し取ることで舞台を演出する方が多く、また先に触れた寂声で物語を語るものとはいえど、啖呵の部分は自然会話の話芸として、自然発声で語られることが多いという。
第三に評価される啖呵であるが、簡単に言えば話術であり、これは技術的な要素が高く、修業を要するものである。一人ミュージカルと例えられるように浪曲師一人で何役をもこなすため、表現力も発声も多彩に用意できなければならない。しかし、浪曲は話すのではなく「唸る(うなる)」と表現されるように、ただ啖呵(台詞)を登場人物になりきって言えば良い訳ではないところが修業どころのようである。

総論
私にとっては全く馴染みの無かった「浪曲」であるが、様々な視点からこの芸能を追ってみると、大衆演芸として大流行した背景に、また現在も息の長いファンが存在し続けることの背景として、日本人が本能的に答えを欲するような、潜在的な感情の共有の類が、浪曲師と観衆の間に出来上がっているような不思議な感触を持った。浪曲の題材は「義理と人情」にあり、庶民側の視点・倫理観から、人間の感情・心理と社会制度との間の葛藤を描き、そこから人間・社会共に、こうあって欲しいという願望を託して物語を終える。実社会が劇中より複雑であることは周知のものであるが、人間社会は本能と理性、本音と建前など相反する力が常に渦巻き、それを秩序立てる法は万能ではなく、最後は人間として正しい道かが問われる。浪曲はこうした最後の結論を理想的に描き切るところが心地好く、ドラマ・小説などに色濃く引き継がれた忠孝・愛国の心、自己犠牲の美徳などは、こう有りたいと望む日本人の人間性ではないかと思うのである。この非常に人間臭いところをストレートに表現し、共感できるのが浪曲の魅力ではないだろうか。