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歌舞伎

かぶき(演劇・演芸)


[歌舞伎]
歌舞伎(かぶき)を全く知らない人はいないであろう。歌舞伎特有の化粧である「隈取(くまどり)」をし、派手な衣装に身を包んだ役者の姿や浮世絵などが思い浮かぶのではないだろうか。歌舞伎のシンボルにもなっている、黒・柿・萌葱(もえぎ)3色の「定式幕(じょうしきまく)」などもよく知られているし、海外公演などの成果もあって今では国際的知名度も高い、日本の代表的な伝統芸能となっている。国の重要無形文化財の指定を受け、2009年9月、第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財として保護・継承するため、UNESCO(ユネスコ)が登録する予定の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されているもので、リストに掲載された芸能は、「無形文化遺産保護条約」の枠の中に編入される仕組みのものである。
大衆娯楽として誕生した芸能が、名脚本・名役者・名音楽などに囲まれて大成した、現在の歌舞伎の世界を創り上げるまでの変遷を追ってみたい。

歌舞伎は、江戸時代に大成した舞台演劇であり、他の伝統芸能に比べると歴史はそれほど長い方ではないのだが、既存の芸能の土台はあるにしろ、それまでにない新しい要素を生み出したことで独自のジャンルを築いている。教科書などにも掲載されている定説としては、出雲阿国(いずものおくに)が「かぶき踊り(阿国かぶき)」を生み出したのが原点であるという。「日本舞踊-歌舞伎舞踊」や「日本舞踊-新舞踊・歌謡舞踊」の項も参照していただければ幸いである。阿国が土台とした芸能は、室町時代から近世にかけて一般庶民の間に流行した風流(ふりゅう)であったが、更に民間神楽・念仏踊りなどを融合して生み出した「かぶき踊り」は当時斬新で、京都で大変な人気を博したという。阿国は出雲大社に仕える巫女と自称していたが、河原者であったともいわれ、明確には判っていない。当初「ややこ踊」「かか踊」「念仏踊」などと呼ばれる、当時の流行歌に合わせた踊りを披露していたが、やがてそれらを一変させて「かぶき踊り」を踊り始め、歌舞伎の始祖となった。かぶき踊りは、当時最先端の「かぶき者」の格好、簡単に言えば大きな刀を持つなど男装の派手な服装をし、茶屋遊びに通う伊達男を演じる「茶屋あそびの踊り」を考案して、阿国自ら踊ったものである。それまでの踊り主体の芸能に、演劇的要素を加えた点が歌舞伎の始祖と言われる由縁である。
1603年に北野天満宮興行を行って以来、京都を中心に評判となった阿国の踊りを真似た芝居風の舞踊が、遊女らにより盛んに演じられるようになり、「女歌舞伎(遊女歌舞伎とも)」が誕生する。女歌舞伎は江戸時代、1615年~1630年頃が最盛期の、遊女や女芸人による歌舞伎のことで、京都の四条河原や江戸の吉原には常設舞台が設置され、30人余りの男装の遊女が、艶やかで贅を凝らした多様な群舞(総踊り)を披露した。阿国の歌舞伎との違いは、当時最新の楽器であった三味線が用いられたことであるが、阿国はあえて三味線を使わなかったのではなく、高級品で手が出せなかったというのが通説である。風俗営業を伴っていたため公序良俗に反するという理由により禁令が出されて以来、公認の舞台から女性の姿が消え、女歌舞伎も次第に消滅したという。女歌舞伎に次いで人気となったのは「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」で、これは女歌舞伎誕生前から存在し、前髪のある成人前の少年が女装して演じるものだったが、これも男色を売り物としており風紀を乱すとして禁令が出され、若衆のシンボルである前髪を剃り落とし野郎頭になることと、舞台演目は物真似狂言尽(ものまねきょうげんづくし)に徹することを条件として興行が許可された。これ以後、現代の歌舞伎の原型である「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」が成立し、売色的要素を廃し、本格的に歌(音楽)・舞(舞踊)・伎(技芸・物真似)を売り物とする芸能としての本道を歩み出した。女人禁制の芸能となったがために「女形(おんながた・おやま)」という役割が確立し、舞踊(所作事)は女方の担当となり、登場人物の心理描写として、仕草や情念などの内面的な「振(ふり)」が盛り込まれるようになった。演技や筋書きが重視され、劇芸術の体裁を整えた元禄歌舞伎において所作事は「狂言の花」といわれ(この狂言は歌舞伎の演目を指す「歌舞伎狂言」のこと)、数多くの名手が現れ、歌舞伎劇の中核を形成する華麗な舞踊劇に成長していった。
この「元禄歌舞伎(げんろくかぶき)」とは、歌舞伎が飛躍的な発展を遂げた隆盛期の江戸・元禄年間(1688~1704年)の歌舞伎のことで、歌舞伎役者として著名な2者、江戸の初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)によって「荒事」が、上方(京阪神)の初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)によって「和事」が創始された。
「荒事(あらごと)」は、歴史的主題を中心とした荒唐無稽の活劇作品で演じられる、力強く大らかな立廻り(演技)のことで、主人公は隈取(くまどり)という化粧や誇張された衣裳を着け、強いヒーロー役で、見得や六方などの独特の演技を持つ。
「和事(わごと)」は、現実的主題、特に恋愛などを主題とした作品で演じられる、柔らかく優美な仕草や台詞回しのことで、高貴な人物が何らの事情で身をやつしているという「やつし芸」が特徴的で、傾城(遊女)と恋仲になり、勘当され苦労する物語が多い。主役の男性は若くてハンサムで上品な、やさ男が典型であり、荒事とは対照的な、写実的な芸風である。
また女方の名優として有名な、初代・芳沢あやめ(よしざわあやめ)が誕生し、女方の芸を確立させた。それまで俳優が歌舞伎狂言作者を兼ねていたが、この時代に近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)を代表とする独立専業職としての狂言作者が登場し、数多くの名作が誕生した。また江戸の荒事、上方の和事という芸風はこの後明治期まで続くことになるのだが、近松門左衛門が大坂・竹本座の座付作者として人形浄瑠璃界に戻ってから、享保~宝暦年間(1716~1764年)は上方を中心に人形浄瑠璃の全盛期に入り、逆に歌舞伎は低迷期に入った。当時、芸能においてその筋書きを担当する作者は、社会的地位と知名度を得始めたためであり、人気作者の作品というジャンルが出来上がりつつあった。人形浄瑠璃で上演された人気作は次々と歌舞伎化され、義太夫狂言の3大名作「仮名手本忠臣蔵」「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」が誕生した。また独特の舞台装置「回り舞台」が考案され、再び江戸歌舞伎の全盛期が到来することになる。
江戸時代末期の文化・文政期の頃、4世・鶴屋南北(つるやなんぼく、大南北とも)が世に出たことで、下層階級の世相・人情を生々しく写実的に描き、泥棒などを主人公とした「生世話(きぜわ)物」が確立され、美男の悪人である「色悪」、好きな男性のために悪事を働く中年女性「悪婆」の役が確立し、歌舞伎界は再び勢力を盛り返す。また一人が何役も踊ってみせる趣向の「変化舞踊」も全盛を迎え、引き抜き・早替わりなどケレン味ある演出が多くなった。その後の幕末期、作者として河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)、役者としては7世・市川團十郎が活躍し、また演目では、頽廃した世相を映し、盗賊を主人公にした「白浪物(しらなみもの)」が多く上演された。
明治維新が起きると、西洋化の大きな流れに飲み込まれて大混乱期に入り、西洋の演劇文化に関する情報が次々に入ってくると、歌舞伎の荒唐無稽な筋立て・奇抜な演出(ケレンなど)・興行の近代的でない慣習などを批判する声が上がり、学識者が中心となって見直しがなされ、「演劇改良運動」が展開される。これは、より日本文化を芸術的に高めようとする気運に呼応し、近代社会に相応しい内容に改めるべく提唱された運動である。一般庶民のみならず身分の高い者や外国人が歌舞伎舞台を見物するようになるので、みだらな筋立てを改め、これまで主君忠誠を誓う武士道的精神が尊重されていたものを、天皇中心の尊皇思想に変え、史実を重んぜよというのである。この影響を受け、演劇界に新派(劇)が誕生し、歌舞伎に高尚な要素が望まれた結果、能・狂言に題材を得た「松羽目物(まつばめもの)」や、正確な時代考証を志した「活歴物」が多く誕生し、新しい風俗を描いた「散切物」などの試みも始められた。天皇の観劇を実現させ、明治時代中期の1889年には「歌舞伎座」が開設されるなど歌舞伎の新時代の幕開けとなったのだが、観衆には逆に奇異な印象を与えたためか度々興行に失敗し、結局のところ従来の時代物の修正に留まる程度の変容であった。主眼であった舞台演出(演目・様式など)における成果は少なかったものの、担い手である舞踊家達の「振付」と「演じる」役割が確立し、役者・振付師などの師匠らが独自に公演するようになるなど、9世・市川團十郎の努力により役者の地位向上が図られた。そうした中で「団菊左」と呼ばれる9世・市川團十郎(劇聖)、5世・尾上菊五郎(おのえきくごろう)、初世・市川左団次(いちかわさだんじ)の3名優が活躍する。正岡子規の句にも登場する一世を風靡した名優たちだが、この時代は「歌舞伎の黄金時代」とも呼ばれ、団菊左を軸に多くの名優を輩出した。明治時代後期から昭和の大戦前まで、演劇改良運動の影響下において「新歌舞伎」と呼ばれる多くの作品が文学者の手により生まれた。代表作は、岡本綺堂「修善寺物語」「鳥辺山心中」、坪内逍遥「桐一葉」「沓手鳥孤城落月」、小山内薫「息子」などであるが、大衆の支持は得られず、今日もあまり上演されていない。
戦後、GHQ(連合国総司令部)による芸能規制の中、親日家フォービアン・バワーズの尽力で歌舞伎は保護を受けたが、人々の生活に余裕が生じ始めると娯楽の多様化が起こり、歌舞伎は娯楽の中心から次第に外れてゆく。社会変動と共に歌舞伎も変動の時代に入るのだが、大阪松竹座・福岡博多座の開場、60年途絶えていた11代・市川團十郎の襲名披露、初の海外公演、日本最古の芝居小屋・香川県琴平町金丸座「こんぴら歌舞伎」の公演開始、3代・市川猿之助の「スーパー歌舞伎」など、様々な試みが始まる。近年は18代・中村勘三郎の「コクーン歌舞伎」、平成中村座の公演、4代・坂田藤十郎の関西歌舞伎の復興のプロジェクトなど、従来の枠組みを越え、時代に相応しい現代的な演劇を模索する活動が現在も活発であるが、受け継がれてきた大胆な手法や舞台などは、歌舞伎以外の芸術にも多くの影響を及ぼしている。

歌舞伎の成立と歴史を振り返ってみたので、次に芸能としての歌舞伎の概要に触れてみる。
歌舞伎の作品や演目を「狂言」と呼ぶのだが、元来は脚本を指す言葉だったものが転用され、伝統芸能の一つである狂言と紛らわしいので「歌舞伎狂言」とも呼ばれている。成り立ちと内容はバラエティーに富んでおり、上演される作品数は400本余りといわれている。曲の成立から分類すると、現在伝承されている演目は、人形浄瑠璃(文楽)の演目を移植した「義太夫狂言(ぎだゆうきょうげん)」と、はじめから歌舞伎のために創作された「純歌舞伎狂言(じゅんかぶききょうげん)」とがある。人形浄瑠璃と歌舞伎は同じ時代の演劇で、相互に影響を及ぼし合い発展した足跡として、作品の大半は「義太夫狂言」であり、歌舞伎十八番に代表される「純歌舞伎狂言」には、能・狂言を題材にした舞踊作品「松羽目物」や、前述の「生世話物」「白浪物」などがある。なお義太夫狂言には「丸本物(まるほんもの)」「院本物(いんぽんもの)」「竹本劇(たけもとげき)」など、別称が多く存在する。
歌舞伎舞台は昼の部・夜の部とも3本建ての構成が多く、大抵は「時代物」、所作事(舞踊物)、「世話物」という順で披露される。また公演様式により、複数の演目の有名で人気のある名場面や舞踊などを抜粋し、組み合せて一日の興行にした「見取り(みどり)狂言」と、一日で一つの長編狂言を全編上演する「通し狂言」とがある。なお見取り狂言とは「選り取り見取り(よりどりみどり)」から採った語とされる。
また最も一般的なジャンル分けとして、登場人物の身分階級での分類によると、公家や武家階級(社会)を描き、歴史的事実を演劇化した「時代物」、現代のテレビドラマのような当時の江戸の市井の風俗、町人社会を描写した「世話物」に分けられる。時代物は、飛鳥・奈良・平安の王朝時代を扱った作品を特に「王朝物」と呼び、武家社会の中でお家騒動を扱ったものを「お家物」と呼ぶ。また世話物の中でも江戸末期の文化・文政の頃成立し、下層階級の世相・人情をリアルに生々しく描写したものを特に「生世話(きぜわ)物」と呼び、江戸時代末期、二つ以上の異なる筋を絡み合わせて生じた「時代物」「世話物」の区別ができない作品は「綯い交ぜ(ないまぜ)」と呼ばれている。江戸時代、歌舞伎公演は日出から日没までで全部公演するという幕府統制下にあり、当時創作された演目は比較的長大なものが多く、観客側にしても歌舞伎観劇は一日掛かりの行楽であった。集まった観客の様々なニーズに応え、楽しませることが歌舞伎公演に求められ、複雑な場面展開をみせる「綯い交ぜ」や、良いとこ取りの「見取り狂言」が誕生したという。観客を飽きさせず好奇心を満たすため新作を創作し、また視覚・聴覚を駆使させる奥行き・高さを利用した「花道」「セリ」「宙乗り」などの舞台装置は、歌舞伎を高度な演劇へと進化させ、引き幕を利用し時間を区切る演出は、時間の流れを物語の中に自然に導入する効果を得、複雑な展開を可能にした。もう1つ、明治維新以前の歌舞伎と人形浄瑠璃における特殊な作劇法として「世界」に則って狂言を作るという約束事があり、「平家物語の世界」「曾我物の世界」などがある。「世界」とは、演目の背景にある物語の土台となる基本的な枠のことで、既存の名高い伝説・物語・歴史上の事件などを題材にした演目(世界)の中に、物語の展開、当世風の人物や風俗を織り込むなどの戯作者による工夫・趣向などを観客が楽しむ構造が出来上がった。当時の為政者である江戸幕府の統制に配慮して実名を伏せ、別の人物として演じられたことから生じたものだが、初心者には理解し難い設定・展開のものに発展し、荒唐無稽の域に入るような、良く言えば超時代的な趣を現出するものとなった。現在創作される歌舞伎狂言は世界を持たないため、世界が現出していたミステリアスな魅力は無くなったが、逆に初心者にとって話の筋を理解し易くなったとも言える。

次に、演者(役者)を離れ、舞台を支える別の要素について、角度を変えて見てゆくことにする。
歌舞伎は字面通り、歌・舞・伎の3つの要素が相まって出来ている。すなわち歌あり・踊あり・芝居(芸)ありの舞台であり、踊は「歌舞伎舞踊」の項を参照していただくとして、まず「歌」の部分に入る。
先述の通り、歌舞伎用に作られた演目・人形浄瑠璃から転用した演目・舞踊(所作事)とあるため、各分野に各々適した音楽を持ち、音楽も多彩になっている。大別すると、歌い物である「長唄」、語り物である「浄瑠璃」になる。以下それぞれの特徴を並べてみる。
長唄(ながうた)  江戸時代初期の17世紀前半に上方から江戸に伝わり、歌舞伎専用の音楽として江戸で発達した三味線音楽で、「江戸長唄」とも呼ばれる。「細棹」という三味線を用い、高い音色で繊細な音を出すため「勧進帳」「連獅子」など、舞踊要素の強い演目で演奏されることが多い。BGM・伴奏・効果音を担当し、黒御簾(舞台上の専用の場所)で情景や情緒描写を行う重要な役割を持つため「黒御簾音楽」「下座音楽」と呼ばれている。歌舞伎舞台・演目への深い理解、役者の所作(演技)や舞踊の型などの熟知を要するため重要無形文化財に指定される「人間国宝」と呼ばれる奏者も存在する。
義太夫節(ぎだゆうぶし)  三大義太夫狂言である「仮名手本忠臣蔵」「義経千本桜」「菅原伝授手習鑑」をはじめ、人形浄瑠璃から移入した「義太夫狂言」で演奏される。上方で発展した音楽で、「太棹」という三味線を用いるが、通常より音色が太く・低めで重厚な感じが特徴である。歌舞伎の義太夫節の太夫は状況説明を語るのみなので、浄瑠璃と区別して「竹本」(チョボ)と呼ぶ。主に義太夫には舞台上手の専用の場所「床」で演奏するが、舞台に置かれた台に座って演奏する「出語り」「出囃子」という形式も場合ある。
常磐津節(ときわずぶし)  義太夫同様、浄瑠璃の一つで、語り物である義太夫に近いが、セリフ回しを要する。「豊後節(ぶんごぶし)」から発生し、江戸で発展したため「江戸浄瑠璃」と呼ばれる。舞踊劇や舞踊の伴奏として「出語り」形式を採り、「中棹」という三味線を用いるが、義太夫節に比べると軽妙な音色が特徴。「関の扉」「将門」「身替座禅」など。
清元節(きよもとぶし)  常磐津節と同様、豊後節系浄瑠璃であり成立は最後だったが、極めて粋で軽妙な音楽として愛好され、舞踊劇や舞踊の伴奏として「出語り」形式を採る。浄瑠璃の中でも歌い物に近く、常磐津節と同じ「中棹」という三味線を用いるが、より繊細な持ち味を備える。江戸浄瑠璃の精髄とも言われ、大変高い音域で、技巧的に語るのが特徴。「隅田川」「落人」「保名」など。
上記の他にも河東節・新内節・大薩摩節などが使われる演目があり、また流派単独の演奏のみならず、1演目で各流派が順に演奏・合奏をするものもある。長唄・義太夫節・常磐津節が合奏するものは「三方掛合い」と呼ばれている。

次に歌舞伎の特徴的なものを挙げるなら、派手な衣装(扮装)と化粧だろう。特に隈取(くまどり)は歌舞伎独特の化粧法で、元々は顔の血管・筋・筋肉を誇張して表現したものである。江戸・元禄時代の頃から俳優達により工夫され、大別して50種類位あるといわれる。紅隈は善・勇敢・若々しさを表し、藍隈・墨隈・代赭隈(茶)は陰気な凄み・邪悪さを表し、悪役や妖怪に用いられる。古来、化粧や刺青が呪術的意味を持っていたことは知られているが、めでたい字・図柄を描いた隈取もあり、これには招福・厄除祈願があるようだ。役者によりアレンジされたり、同じ役でも場面での感情変化により、隈取が変わることもあり、役者は見なくても隈をとる(描く)ことができると言われている。
また衣装もかなり豪華絢爛であり、能装束などと同様、ほとんど絹で作られている。特にスーパーヒーローなど超人役に用いられる、誇張されたデザインの衣装・髪型などは異様に大きかったり、尋常でなく奇抜なものだったりするので、素人目にも役柄が比較的判り易い。人物が変身する際の衣装変化も舞台上で行われるので視覚的に面白く、上半分の衣装をひっくり返す「ぶっ返り」や、瞬時にして他の役・扮装に替わる「早替り」など、「外連(ケレン)」とともに見どころの1つとなっている。

一般的にいう歌舞伎として歌舞伎舞台上のものを主体に挙げてきたが、それ以外に日本各地の農山漁村に伝承されている、祭礼の奉納行事などで地域住民が行ってきた「地芝居(じしばい)」「村芝居」「農村歌舞伎」などと呼ばれるものがある。この発祥は古く、義太夫狂言が成立する以前の、江戸時代の18世紀初頭には行われており、当時専門芸人が地方に巡業して来る「旅芝居」「買芝居」などの影響を強く受けて誕生したとされ、演目や形式などにその影響の跡が見られる。幕府統制下、素人が歌舞伎を行うことは大義名分が必要で、多くは「法楽芝居」として祭礼の奉納目的で行われたり、雨乞祈願などの名目で行われたため、為政者側も黙認出来たようだ。現在、歌舞伎保存会などを称する地芝居は全国に少なくとも130以上あると言われ、地域独自の演目や、ほとんど見られなくなった古い演目、珍しい型(演出)なども継承されている。

さて最後になるが、歌舞伎独特の世界を理解するために、役者に対する基礎知識は必要不可欠だろう。現在活動中の主な役者の中でも名跡と呼ばれる有名なものを幾つか挙げてみたいと思うが、その前に、役者の屋号について少し触れておく。
屋号の由来は様々あるのだが、何故屋号が用いられるようになったかを探ると、江戸時代の身分制度下、役者達は階級外の河原乞食であり、芸が認められ商人身分が与えられると、経済力もあったため挙って表通りに住み、○○屋と名の付いた商いを始めたことから、役者の間で屋号で呼ぶことが流行したことに因るとされる。歌舞伎観劇中、見せ場で観客から飛ぶ「○○屋!」という「大向う」と呼ばれる掛け声に用いられる屋号を知っていれば、観客側の反応が理解し易くなるかもしれない。
「大向う(おおむこう)」とは、元来3階席の後ろの席を指す言葉であったが、席代が安くて天井に近い分声が通るとされ、常連の芝居通が座ることから、掛け声と、掛け声を入れる者も含めて「大向う」と呼ばれるようになった。掛け声は屋号以外にも様々あり、場面に即した言葉を、役者の合いの手のように絶妙のタイミングで入れるのは至難の業である。誰でも掛け声を掛けるのは可能であるが、しっかり気合を入れた声で、演目や役者についてそれなりに知識を持って声を入れないと、舞台の間や雰囲気を乱すことにもなり兼ねない。大向こうが絶対必要な演目があったり、大向うでも会に属して力がある者などは「木戸御免」という無料で観劇できる特権を持つなど、その果たす役割は意外に大きい。

以下、役者を列挙してみたが、これ以外にも数多くある。全て挙げられず申し訳ない気もするのだが、興味のある役者に関してはお調べいただければ幸いである。

市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)家  屋号は成田家(なりたや)、定紋は三升で、市川宗家とも呼ばれる歌舞伎界最高の名跡であり、江戸歌舞伎の指導者的存在として君臨してきた。歴代の名優のうち、「荒事」を創始した初代、「劇聖」「団菊左」と呼ばれた9世が特に有名である。

尾上菊五郎(おのえきくごろう)家  屋号は音羽屋(おとわや)、定紋は重ね扇に抱き柏で、市川宗家と同様、250年以上の歴史を誇る名門である。9世・市川團十郎と共に「団菊左」と呼ばれ、「散切物」のジャンルを拓いた5世が特に有名である。

中村歌右衛門(なかむらうたえもん)家  屋号は成駒屋(なりこまや)、定紋は祇園守(中村歌右衛門)、イ菱(中村鴈治郎)で、4世から江戸に出た中村歌右衛門家と、大阪の中村鴈治郎(なかむらがんじろう)家に分かれる。3世・中村鴈治郎は、「和事」を拓いた上方の名優・4世・坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)の名跡(屋号は山城屋、定紋は星梅鉢)を200年ぶりに継ぎ、人間国宝である。

坂東三津五郎(ばんどうみつごろう)家  屋号は大和屋(やまとや)、定紋は三ツ大(坂東三津五郎)、花かつみ(坂東玉三郎)。人気の女形である5世・坂東玉三郎(現)が特に有名。

片岡仁左衛門(かたおかにざえもん)家  屋号は松嶋屋(まつしまや)、定紋は七つ割り丸に二引きで、京都を本拠とする歌舞伎界の名門であり、15世(現)は坂東玉三郎との「孝玉」コンビで有名である。10代目以降は「我童家」と「我當家」が交互に名跡を継ぐ慣わしである。

松本幸四郎(まつもとこうしろう)家  屋号は高麗屋(こうらいや)、定紋は四つ花菱で、日本舞踊松本流の宗家でもある。市川團十郎家の弟子筋にあたり、市川宗家に子が無い場合、養子を出した。

市川段四郎(いちかわだんしろう)家  屋号は沢瀉屋(おもだかや)、定紋は三つ猿で、早変り・宙乗りなどケレンを得意とする。4世・市川段四郎の兄である3世・市川猿之助(現)は、「スーパー歌舞伎」で現在有名である。

中村歌六(なかむら かろく)家  屋号は萬屋(よろずや)、定紋は桐蝶で、大正・昭和の名優と謳われた初世・中村吉右衛門(播磨屋)や17世・中村勘三郎(中村座)この家系から出ている。4世・中村歌六(現)は市川猿之助劇団で活躍中である。

沢村宗十郎(さわむらそうじゅうろう)家  屋号は紀伊国屋(きのくにや)、定紋は丸にいの字で、元禄時代から続く歌舞伎界の名門であり、退廃的和事が芸風である。幕末の天才的な女形として有名な、脱疽で手足切断に遭いつつも舞台に立ち、発狂して死んだという3世・沢村田之助は特に有名である。

総論
歌舞伎について不案内な筆者にとっては目新しい語の羅列で、また常に新しいものを目指すエネルギッシュな感性を理解するために一々長くなってしまった感じなのだが、率直な感想として、江戸時代に創造されたものとは思えない斬新・奇抜な発想・着眼点に畏怖の念を覚える。大衆を掴む魅力の宝庫と言える演目の数々に加え、役者・奏者などの芸風や個性が舞台上で引き立つ設定などには、この芸能を支えてきた人々の熱意や美意識が感じられる。観衆側の温かい視点も大切な要素であり、演者・観衆の双方が同一方向にあってこそ、歌舞伎芸術として完成されるように思う。昨今、鋭い掛け声を発し、舞台を盛り上げてきた歌舞伎の良き理解者である大向うにも、近代化の蔭りが見られるという。切れの良い言葉で絶妙の掛け声を入れる大向こうの「芸」も、完全な継承が難しく、また役者の芸風に伴う間の変化もあり、以前のような切れが消えつつあるというのである。芸として認められたものではないだけに、今後どのように引き継がれてゆくのか気掛かりでならない。