修正依頼



ホーム今月の日本物語演劇・演芸

狂言

きょうげん(演劇・演芸)


[狂言]
狂言(きょうげん)との最初の出会いは小学校の教科書にあった「附子(ぶす)」だったように記憶するが、筆者の年代から察するに、現在は掲載されていないかも知れない。舞台写真と併せて台本のように話が展開されていたが、小学生でも理解できる単純な笑いの世界だったので「昔の大人の笑いのツボも、現代の子供と変わらないな」と思った記憶がある。能と共に歩み、同じ舞台で演じられてきたものの、その内容-追求するものは全く異なり、完全に笑いを主眼にした喜劇的な、人間臭い滑稽劇である。明治時代以降、能と狂言を併せて「能楽」と称するようになったが、能は別の項で触れているのでそちらを参照していただき、本項では狂言の笑いの世界を掘り下げてみたいと思う。

まず一言で狂言と言っても、言葉の解釈から入ると3つ余りに大別される。1つは本項で述べる、主に能舞台で演じられる狂言、2つ目は歌舞伎の演目を指す用語である歌舞伎狂言の略、3つ目は日本語の中の比喩的表現で、人を欺く企み・道理から外れた言動・戯れの冗談を指すものである。狂言舞台を見たことがない人でも、上述の3つ目の「狂言」という言葉に触れたことがあるだろう。これは道理に合わない言動・表面だけ飾った語や、虚構や文飾の多い物語などを意味する「狂言綺語(きょうげんきご・きょうげんきぎょ)」という中国の言葉に由来し、小説・詩などを批評する時に主に用いられた。猿楽の滑稽な物真似芸を指す言葉として転用され、やがてその名称として定着し、一方で滑稽な振舞・冗談や嘘などを指す一般名詞としても定着した。いずれも古い歴史を持つ訳であるが、その起源を追って狂言の成立から見てみることにする。

「狂言」が文献に初めて登場するのは、およそ650年前の室町時代のことであり、それ以前の平安時代には「猿楽(さるがく)」、更に遡り奈良時代には「散楽(さんがく)」と呼ばれていた芸能の流れを引いている。散楽とは中国から伝来した民間芸能で、物真似・曲芸・歌・踊・呪術・手品など多種多様な芸の集合体のことであるが、詳細は「日本舞踊-猿楽」の項を参照していただきたい。猿楽は散楽の面白い部分を強調し、更に日本古来の様々な芸が付加されて娯楽的な滑稽芸・寸劇であり、この頃は寺社の前、街中などで一般庶民を相手に演じられ、笑いという大衆を惹きつける強大な力を蓄えていった結果が、現代まで続く狂言の魅力に繋がっていると考えられる。その後、世相を捉えて風刺する笑いの台詞劇として発達し、後の狂言へと繋がってゆく訳で、能と同様、猿楽の直系の芸能であり、日本が生んだ最古の喜劇と言える。楽劇である能が完成を見る14世紀から、能と狂言とは各々の専門に分化しつつも同じ舞台で交互に上演される形式が定着し、互いに影響を与え合って発展を遂げ、完成した。歌舞的要素に規制される能とは違い、狂言は台詞中心の劇であるため、脚本の固定は能より遅れて18世紀に入ってからと考えられるが、その前後から演技の基礎としての歌舞的修練がより重視されるに至り、独自の明朗洒脱な、格調ある台詞劇として大成した。室町時代に演じられた狂言の演目の中には、今に続くものもあり、現代にも通じる、かなり整った形だったと考えられており、この時期を狂言完成期と見ている。狂言役者は、この頃から財力・権力を有する人たちに庇護されて生きていくことになったので、その芸風も含め、時代の流れに大きな影響を受けた。戦国時代は世情の乱れに呑まれて混乱期であったが、織田信長・豊臣秀吉の時代になると再び保護を受け、江戸時代には、能と共に幕府の式楽となり、経済的安定の中で、型がきちんと定められ、洗練され、一子相伝の芸を継承する流れが整った。しかし明治維新で江戸幕府が消滅すると、大名らに保護されていた狂言師は皆解雇され、能は来日外国人に観せる芸能として重宝されたが、狂言は能が演じられるまでの休憩時間のような扱いを受け、狂言の上演中であっても客席は騒がしく、無関心の状態のような、辛い時代もあったようである。大戦後の世には「笑い」が求められるようになり、活躍の場を広げて注目を集め、前の世代で磨き抜かれた芸は高い社会的評価を受け、現代やっと、狂言師達が営々黙々と培ってきた技能を自由に披露できる時代になったといえる。
能楽(のうがく)の項でも触れているが、能・狂言の2つを合わせて能楽と呼び、国の重要無形文化財の指定を受け、歌舞伎と並んで国際的にも高い知名度を誇り、2009年9月、第1回世界無形遺産への登録が事実上確定している。世界無形遺産とは、世界的に価値の高い無形文化財として保護・継承するためUNESCO(ユネスコ)が登録する予定の「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表(リスト)」に掲載されているもので、リストに掲載された芸能は、「無形文化遺産保護条約」の枠の中に編入される仕組みである。ちなみに日本は文楽と歌舞伎がリストアップされており、順次登録される予定である。さて話は本筋に戻り、この芸能の概要に入りたい。

狂言は、笑いを基調とした対話劇で「笑いの芸術」ともいわれているが、現代の吉本新喜劇と同様に、最初の登場人物が決まった名乗り(自己紹介)をし、話が展開する場所へ行くという設定で舞台上を歩く「道行(みちゆき)」があるなど一定のパターンを持つ。無名の一市民を主役にして日常生活での笑いを取り上げている点、笑いの質がドライでカラッとしている点なども吉本と似ているが、狂言は決められた芝居の中で生まれる、狂言師たちが演じる笑いに限定されており、アドリブは無い。狂言成立当時の室町時代の人々が、日常的に話していた室町口語が用いられており、現代日本語の基礎になる言葉でもあるため、現代人にも非常に解りやすいし、数ある伝統芸能の中でも特に、現代の芝居に近い形式であるため、親しみやすい芸能となっている。共に発展してきた能は面(おもて)を使用する音楽劇であり、舞踊的要素が強く抽象的・象徴的表現が目立ち、内容は悲劇的なものが多いのに対し、狂言は、一部の例外的役柄を除いて面を使用せず、猿楽の持っていた物真似・道化的要素を発展させたものであり、台詞も含め写実的表現が目立つ。内容は風刺や失敗談など滑稽さのあるものを主に扱うので、能とは好対照である。能の緊張感を解きほぐす役割を効果的に狙う構成として、古くから同じ舞台で交互に演じられ、現代にも踏襲されている。

次に、狂言における狂言師の役柄(職掌)について触れてみる。
主役(主人公)を務める者は、能と同様に「シテ」と呼ばれる。能における「ワキ」「ツレ」に相当する、脇役(助演者)を務める者は「アド」と呼ばれる。複数の脇役が登場する時は「一のアド」「二のアド」と呼ばれたり、代表的な脇役以外は「次アド」「オモ(大蔵流)」「小アド(和泉流)」などと呼んだりする。アドの集団は「立衆」と呼び、立衆を統率者は特に「立頭」と呼ばれるが、曲の中の役名で呼ばれる方が多い。
役柄(職掌)は、能に比べると一定のパターンがあり、登場人物が大体決まっている。当時の社会で、ごく普通にみられた人々…どこにでもいそうな、実存しそうな無名の人物が登場し、身の回りで起きた出来事を、ユーモアを交えて演じられている。
主な登場人物は、主(しゅう)・太郎冠者(たろうかじゃ)・すっぱ(ペテン師)・亭主・大名・婿・女・出家・山伏などである。これらは面を着けない直面(ひためん)で、人間味溢れる人物として登場する。一方で、幽霊・生霊・神・鬼・天狗・仙人・動物・精などの役は、狂言面と呼ばれる面を着け、異界の者であることを表わしている。主従もの(主人と従者の遣り取り)が代表的であるが、田舎者が都へ買い物に出かけ、都のすっぱに騙される話など、庶民を題材とした話も多い。以下に内容上での一般的な分類を挙げてみる。
まず、大別すると3種類に分類される。
本狂言(ほんきょうげん)  1つの演目、1曲として独立して演じられるもので、一般的にいわれる狂言のこと。
別狂言(べつきょうげん)  能曲「翁」の一部としてしか演じられない「三番叟(さんばそう)」「三番三(大蔵流)」のこと。
間狂言(あいきょうげん)  能の一部として演じられるもののことで、「間(あい)」とも呼ばれる。

上記のうち、狂言の大半を占める本狂言は、以下のように下位分類される(大蔵流による分類)。
・脇狂言(わききょうげん)  祝言(しゅうげん)を第一とする、めでたさ本位の曲で、福の神・果報者・お百姓などが登場するもの。「末広がり」「福の神」「三人夫」「宝の槌」「鍋八撥」「佐渡狐」「牛馬」など。
・大名狂言(だいみょうきょうげん)  主従もののうち、主として大名がシテ(主人公)のもので、威張っていて一見愚かではあるが、無邪気で大らかな、人のいい大名として演じられる。「萩大名」「武悪」「靫猿」「今参」「粟田口」など。
・小名狂言(しょうみょうきょうげん)  主従もののうち、狂言の代表的人物である太郎冠者がシテ(主人公)のもの。太郎冠者は元来、元服をした若者の意味だが、下人(げにん)の通称として用いられ、人間味ある愛すべき人物として演じられる。「附子」「棒縛」「栗焼」「止動方角」「鐘の音」「金藤左衛門」「千鳥」「木六駄」など。
・聟女狂言(むこおんなきょうげん)  聟取りや夫婦仲を中心に描いた、主に聟がシテ(主人公)のもの。「二人袴」「八幡前」「比丘貞」「右近左近」「千切木」「寝音曲」「水掛聟」「鈍太郎」など。
・鬼山伏狂言(おにやまぶしきょうげん)  鬼や山伏を戯画化したもので、主に閻魔大王や鬼の類がシテ(主人公)のもの。「朝比奈」「八尾」「清水」「梟」「柿山伏」「蟹山伏」「神鳴」など。
・出家座頭狂言(しゅっけざとうきょうげん)  僧侶・座頭などを中心としたもので、僧・新発意・座頭がシテ(主人公)のもの。「布施無経」「呂連」「薩摩守」「伯養」「猿座頭」「宗論」「お茶の水」など。
・集狂言(あつめきょうげん)  能の四番目物と同様、どの分類にも収まらないもので、主に商人・農民・盗人などが登場するもの。「雑狂言」とも呼ばれる。「瓜盗人」「茶壷」「膏薬練」「釣狐」「合柿」「芥川」など。
なお、難易度レベルで分けると「平物」「内神物」「本神物」「小習」「重習」「極重習」の6つがあり、特に重要で難度の高い作品群は「習物(ならいもの)」と呼ばれ、演じるには技術的に相当の修行を要するという秘曲・大曲がある。「重習」が3番、その上の「極重習」が3番あり、極重習は「花子」「釣狐」「狸腹鼓」の3曲で、いずれも100歳の年寄がシテ(主人公)という難曲である。

次に演じる側である狂言師に目を向け、特にその流派の変遷を追ってみることにする。
能と異なり、狂言師特有の姿というと、その装束と足袋である。代表的な装束は「肩衣」と「狂言袴」であり、絹ではなく麻でできていて、鬼瓦・カタツムリなどの生物を大胆にデザイン化しているのが特徴的であるが、全体的に能と比べ簡素である。能では白足袋が用いられるが、狂言では黄色の縞足袋を用いる。繻子地に金箔の縫い取りをした「縫箔」という装束に、白い麻布を被る「ビナン鬘(かずら)」という女性役の姿は、狂言独特のものである。また大体は面を着けない直面で演じられるため、狂言面は能面ほど発達せず、基本的には20種類程度しかないのだが、いずれも喜怒哀楽の表情が豊かな点が特徴的である。
次に流派に入ることにする。
江戸時代、家元制度が確立していた流派としては、大蔵(おおくら)・和泉(いずみ)・鷺(さぎ)の3流派があり、いずれも大成していたが、明治維新は狂言界には特に大きな打撃となり、いずれの流派も断絶の危機に直面し、特に鷺流は歌舞伎に接近したことや、流派の体質などにより衰微が激しかったため断絶し、その芸体は地方芸能としてわずかに残るのみである。しかし「松羽目物」と言われる能・狂言写しの歌舞伎演出に多大な影響を与えるなど、鷺流の残した足跡は決して小さなものではない。明治維新の波乱の後、狂言界が再生・興隆の流れを得ると、残る2流派の、大蔵流は主として関西、和泉流は主として東京を地盤とし、現在も幅広く活躍をしている。

大蔵流  家伝に因ると、14世紀に後醍醐天皇の侍講を勤めたという比叡山の僧・玄恵を流祖とするが、一般的には代々金春座で狂言を勤めた大蔵弥右衛門家が室町後期に創流したとされる。猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派であり、江戸時代には鷺流とともに幕府御用を勤めたが、狂言方としての序列は鷺流に次いで2位であった。長年に渡り幕府や諸大名に手厚い庇護を受けてきたが、一時宗家は断絶、近年になり再興した。
和泉流  江戸初期に京都で、素人出身の職業狂言師である手猿楽師(てさるがくし)として禁裏御用を勤め、また尾張藩主・徳川義直の庇護を受けた7世・山脇和泉守元宜が、三宅藤九郎家、野村又三郎家を傘下に三派合同で創流した流派である。家元制度を取るも、三流で流儀を形成した経緯もあり、家元の力は弱く、明治以前は地方流儀であったが、明治維新により禁裏御用だった鷺・大蔵二流が相次いで没落すると、和泉流は東京の狂言界を席巻し、立場が完全に逆転した。しかし流派の内紛により宗家は中絶、現在は復興しているが、野村又三郎家(野村派)、野村万蔵家・万作家・三宅右近家(三宅派)、狂言共同社(名古屋派)に割れ、台本も各々異なっている。
鷺流  狂言師・鷺仁右衛門宗玄が徳川家康の愛顧を背景に、一代で築き上げた流派であり、家康の命で観世座の座付となったのを機に流派を起こした。幕府狂言方筆頭となって以降、江戸時代を通じて狂言界の第一の座に就いた。宗家をはじめ、ほとんど観世座に頼り切った脆弱な構造が災いし、明治維新を迎え混乱し、流派廃絶に至った。
この他に、春日神社の禰宜(神人)による「南都禰宜流」という流派が江戸初期までは存在した記録があるが、既存の流派に吸収され消滅したとされる。他にも群小諸派が存在したようだが、いずれも消滅し、それらの台本の一部は、一般読者向けの読物として江戸時代に出版されたため、世に残された。

国指定重要無形民俗文化財として各地に残っているのは現在3件のみで、当時の様式を現在に伝えている。最後にそれらについて触れてみることにする。

能郷の能・狂言(のうごうののうきょうげん)  岐阜県本巣郡根尾村能郷・白山神社の4月13日の祭に演じられる、国土安穏・五穀豊穣・家内安全を祈り奉納されてきた神事芸能で、能「翁」「高砂」「浪速」など、狂言「百姓狂言」「餅酒」「たわけ婿」など計22曲が伝承されている。狂言面4面と装束は、室町時代のものともいわれている。能郷の猿楽衆16戸は、能方・狂言方・囃子方が決まっており、各々の家で世襲的に口伝で継承されてきたものである。演技・演奏法に地方的特色が顕著で、かつ中央五流の能・狂言の影響も受けており、能楽の変遷過程を知る上で重要とされる。現在は過疎化が進み、後継者問題に苦しんでいるという。

嵯峨大念仏狂言(さがだいねんぶつきょうげん)  京都府京都市右京区嵯峨釈迦堂藤ノ木町・清凉寺(嵯峨釈迦堂)の法会に行われる狂言で、鎌倉時代末、京都で円覚十万上人が遊戯即念仏の妙理を広めるために始めたという三大念仏狂言(壬生・嵯峨・千本)の1つである。大念仏会は、能「百万」という演目にも扱われている由緒あるもので、所蔵狂言面には1549年在銘のものがあるなど、歴史の古さが知られている。狂言を伴うようになった時期は明確ではないが、女系面の「嵯峨大念仏天丈十八年(1549)三月六日(花押)」の刻銘から、壬生、閻魔堂狂言との関連からみて、その頃には大念仏に狂言を伴っていたと考えられている。定例行事として充実するのは、確実な資料によると近世(1638年頃)に入ってからのようである。狂言の変遷過程を知る上で歴史的価値が高いとされる。「夜討曽我」「羅生門」などカタモンと称される能風の演目12番、「愛宕詣」「餓鬼角力」などヤワラカモンと称される狂言風の演目12番とが伝承され、壬生狂言より、全体的に大らかな古風さをよく保存していると言われている。

壬生狂言(みぶきょうげん)  京都府京都市中京区仏光寺坊城上る・壬生寺で大念仏会(4月21日~29日)などで演じられるもので、正しくは「壬生大念佛狂言」と呼ばれ、「壬生さんのカンデンデン」という愛称で親しまれている。寺伝によると鎌倉時代の1300年、壬生寺中興の祖・円覚上人が融通念仏を修し、「大念佛会」という法会を行ったのが始まりという。「炮烙割」「桶取」「棒振」「紅葉狩」など30番余りが伝承されている。着面の無言劇で、鰐口・締太鼓・横笛の囃子で演じられ、娯楽的な演目の中にも勧善懲悪・因果応報の理を教える宗教劇としての性格を今日まで残すなど独特の演技、演出法を有する。

以上、2008年現在での重要無形民俗文化財を採り上げてみたが、各流派に伝わる狂言曲にない独自のものもあり、また能楽堂で演じられるものとも異なり、趣深いものである。選択文化財(芸能の一部を文化財指定しているもの)や他の芸能の中で狂言を採用しているものも含めると、他にも多く存在するのだが、面・装束・演目など全てを含め、完全ではなくても保存状態が良いと言えるものはそれほど多くない。
また人間国宝とも言える、狂言の技に対する文化財指定を受けている人は、現在2人いる。茂山七五三(芸名・茂山千作)氏と、野村太良(芸名・野村萬)氏である。狂言の世界には「猿に始まり狐に終わる」という言葉がある。「靭猿」の猿役で初舞台を踏み、「三番叟」や能のアイ(狂言方)などで経験を積みながら、特別伝授を受ける「習物」を経て、最後に「釣狐」の狐役を披く(披露する)のだという。狐を演じるまでに数十年余りを要するというから、文化財指定を受けた二人は、どれほど多くの曲を演じてきたものかと思う。芸能の一定の型の中から「笑い」という人間の自然な動作・本能的な心の動きを操ることは、容易いようで難しいものであろう。各時代、多くの狂言師たちにより同じ演目が無数に演じられ、現在でも同じ場面で同じ笑いを呼び起こすことに不思議な感動を筆者は覚える。人間の単純さも垣間見える気もするが、それに引き換え、その笑いを培うために狂言師たちが費やした長大な時間と労力に拍手を送りたい。