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棒の手・剣舞

ぼうのて・けんばい(日本舞踊)


[棒の手・剣舞]
「剣舞」は想像できると思うが、「棒の手」と聞いてどんなものがイメージされるだろう。正直なところ、耳にしたことも無かったので、どのように資料を集めたら良いのかも解らなかった。どうやら棒の手と剣舞の二つは伝承経路が異なり、分布が地域的に分かれているので、棒の手から順に採り上げるが、その実体を紐解く前に、武術について軽く触れておくことにする。

武術は明治時代末期、武道と名称変更したため、現在この2つはほぼ同義になり、相撲・柔道・空手道・合気道・水術・馬術・忍術など武器を使わないものも含めて40余り挙げられる。武術と区別するため、名称変更前のものは古武道・古武術・古流などと呼ばれ、現在のものは現代武道と呼ばれている。古武道は、武士が修得すべき武器・武術として中国から伝わった語「武芸十八般」により主に区分されており、弓術、(騎)馬術、槍術、剣術、柔術・和術、手裏剣、薙刀、棒術、杖術、鎖鎌術、組討術、水術(泳法)、十手術、鉄扇術、鉄鞭術、分銅鎖、居合・抜刀術、砲術、刺又術などがある。江戸時代以降の太平の世になり、実践から離れ、術として多くの流派が誕生し、武家の嗜み・一般市民の自警手段・捕り物道具(後に警視庁の正式科目に採用)として発展するなど、様々な伝播経路をとった。その中でも、農村・漁村で自警手段として用いられ、民俗芸能化して各地に伝承されているものが「棒の手」に代表される棒術の類である。

「棒の手(ぼうのて)」とは、剣術・棒術・薙刀術などの古武道から派生し、芸能化したものの一つと考えられ、祭礼の際に地域住民などにより披露されている。同様に古武道から派生したものが全国に散在しているのだが、「棒の手」の呼称を用いるのは愛知県周辺だけであり、他地域では(太)刀踊り・棒踊り・花取り踊り・太刀振りなど、全く別の名称になっている。よってこれらを総合的にまとめる呼称が確立していないため、「棒の手」としてまとめられるようだ。棒の手の系統の特徴は、基本的に6尺棒(182センチ)が用いられることであるが、3尺棒・槍・真剣・鎌を用いたり、扇を代用する地域もある。目的に多少の差異があるにしろ、いずれも祭礼での奉納踊りとして地域の住民・子供が踊る。以下にこの芸能の系統に入るものについて採り上げてみる。

「太刀踊り(たちおどり)」 高知県の無形民俗文化財に指定されており、保存会も組織され、主に高知県西部から南予地方(愛媛県南部)に分布・伝承している。明確な起源は不明だが、平安時代頃、平家落人らが昔の栄華を偲びつつ、源平和平の祈願として踊ったのが始まりと伝えられるが、五穀豊穣・家内安全を祈り、秋の風物詩として定着している。
「棒踊り(ぼうおどり)」 鹿児島を中心に、宮崎・熊本・沖縄及び諸島部に広く見られる民俗芸能で、六尺棒・三尺棒・尺棒(刀)・長刀・槍・鎌などを小道具として用いる場合もある。この地域のものは鹿児島から伝授されたとする記録が多い。護身術の1つであった武術が、江戸時代頃から五穀豊穣を願う伝統芸能として、唄に合わせて勇壮に踊るのが特徴で、田楽に近い。集落の事情により年齢は異なるが、男性のみで踊る。ホラ貝・ドラ・太鼓を連打するのは、音響効果を狙うものではなく、元来は悪霊を追い払うためだという。悪霊を払い、跳躍によって地霊を鎮めることで、大地を清めることが主な目的とされる。
「刀踊り(かたなおどり)・太刀振り(たちふり)・花取り踊り(はなとりおどり)」 特定の地域独特の芸能というより、地域により名称の差異が生じて前述の太刀踊り・棒踊りが伝承されたようで、兵庫・京都辺りを中心として、広島・島根・富山・福井・和歌山・岡山などに広がり、飛んで青森などにも同様の名称が見られる。内容・主目的は前述の太刀踊り・棒踊りと同様のようだが、同じ地域に太刀踊りと花取り踊りが伝承されているものを見ると、踊り手の格好が華やかで、風流味がある。念仏踊りなどから派生したという見方もあることから、古武道の型は残しつつも、他芸能と融合し、より芸能化されたものであるといえる。

以上、太刀踊り・棒踊り・刀踊り・太刀振り・花取り踊りについて簡単に触れたが、各々地域性があるにしろ、流れとしては同じく古武道を元に、芸能化・祭礼化したものであるといえる。いずれも時期の前後などはあるにしても、経緯は近いものがあるので、以下、一つの流れとして「棒の手」の成立とそれに関わる神事について触れる。

「棒の手」の原型である棒術は古武道の一つであり、その起源は棒という単純な武器である故によく解かっていないが、宗教祭礼で用いられた記録は古くからあるようだ。山伏修験の護身術・呪術あたりから発生し、中世期に実戦で槍先、薙刀先を折られた時、残りの柄で戦った事が発端となって術が編み出されたとのいわれが多い。こうして武技・戦技化した農民の自衛手段としての武術が、近世以降に五穀豊穣祈願のための寺社への奉納演技として神事芸能化し、発展したものと考えられている。古くから神社や寺の節句祭りに馬を奉納する祭礼「馬の塔(おまんと)」を警固する棒の手部隊がおり、奉納式典では棒の手の組み手が披露されたという記録がある。棒の手は馬の塔と併せて愛知県を代表する民俗芸能となり、流派と供に県内60カ所以上に継承されており、昔はそれ以上の非常に多くの地域に伝播していたと考えられている。その型は「表」「裏」併せて34手あるようだが、10数手のみを伝承している所が多いのは、巻物などの説明があっても、現在演技できなくなっている型なども多いからである。「裏」の型として鎖鎌などを伝える所もあるが、防衛のための型が多いのは、武器を禁じられた農民らの自衛として伝承されたこと、馬の塔の警固として発展した経緯によるものと考えられている。馬の塔という祭礼と密接であるため、以下に触れてみる。

馬の塔(おまんと)とは、「馬の頭」「御馬の塔」とも書き、江戸時代から五穀豊穣・雨乞いなどのお礼として、標具(だし)と呼ばれる札・御幣などの造り物を立て、美しい馬具で飾られた馬を1日だけ寺社に奉納するもので、尾張・西三河・東美濃地方の代表的な祭礼習俗の1つである。広義には、馬の塔・棒の手・鉄砲隊を合わせてオマントと呼ぶ。かつては、村内の神社に献馬する「郷祭」と、村々が連合し大きな社寺に献馬する「合宿」の2種類あり、合宿は5~10年に一度、豊作の年に行われ、熱田・大須観音・尾張四観音(荒子・竜泉寺・笠寺・甚目寺)・猿投神社が有名だったが、現在はほとんど行われておらず、馬が山車に替えられたり、飾り物をつけた馬が走る馬駆け神事に変わるなど、地域により変容している。室町時代の1493年に行われた猿投山(豊田市宮口)の献馬の記録が史実上最古と考えられているから、500年もの間、連綿と受け継がれた歴史を持つ神事である。

馬の塔神事の時、献馬の護衛に当たったのが「棒の手」という警護隊だった。担い手は各々の村内の若者衆で、棒の手の流派の師匠に弟子入りし、棒から習い、一定のレベル・年齢になると「キレモノ」と呼ばれる槍・薙刀・鎌などを習う。武術として習得し、3~6年位で、年齢・技量・人格が備わった者に奥義の口伝と、免許目録である免許皆伝の巻物を授与される。巻物と口伝を受け継ぐと「巻取衆」と呼ばれ、次代の師匠となるのだが、この巻物は門外不出とされ、寺社や堂宇に奉納されたりした。献馬奉納を行う者は心身を清潔にすべく清めを行い、奉納場所は塩で清めたり、汚れや邪気を祓う呪法を行った。近年の神事そのものの衰退により、昭和30年頃から各地で棒の手保存会が組織されている。
棒の手の流派はかつては尾張、三河、美濃一帯に数十余りあったといわれ、現在も10種以上の流派が伝承されており、著名な武家・武士を伝承上の創始者としている場合が多く、よって日本武術から発生したものとされている。大正・昭和時代の初めまで武術として稽古され、芸能化せず、ほぼ武術の流派そのままで伝わっているものもある。現在活動中のもので多い流派としては、鎌田流(かまだりゅう)・起倒流(きとうりゅう)・見当流(けんとうりゅう)・東軍流(とうぐんりゅう)・神影流・真影流(しんかげりゅう)・源氏天流(げんじてんりゅう)・検藤流(けんとうりゅう)などがあり、愛知県指定の14の保存会に入る代表的なものであり、集落の祭事・公の慶祝の日に棒の手を披露し続けている。

さて棒の手はこの辺りで留め、もう一つの古武道の流れである剣舞(けんばい・けんぶ)について触れてゆくことにする。剣舞には2種類あり、1つは「棒の手」同様、郷土芸能になっている「鬼剣舞(おにけんばい)」と呼ばれるもので、もう一方は日本舞踊の1ジャンルになり、「吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)」「剣詩舞(けんしぶ)」と正式には呼ばれているものである。まずは本項の日本舞踊の流れに近い「剣詩舞」から触れてゆくことにする。

剣詩舞(けんしぶ)とは剣舞(けんぶ)と詩舞(しぶ)の総称である。漢詩・和歌などに節(旋律)を付けて詠う「吟詠・詩吟(ぎんえい・しぎん)」に合わせ、武士が詩情・詩心を剣を用いた舞で表現するものが「剣舞」で、刀の代わりに扇を用い、花鳥風月や人情を詩情豊かに舞うものが「詩舞」である。これら3つを日本伝統芸能の1ジャンルとして確立・発展させるため創立された流派連盟が、これらを総称して「吟剣詩舞(ぎんけんしぶ)」と呼ぶようになった。剣を伴う舞は、奈良・平安時代からあったが、現代剣舞とは異なるものであったと考えられており、吟詠に合わせて舞う現代剣舞の歴史はまだ比較的浅く、明治維新の頃とされる。榊原健吉が「撃剣興行」を行った時の余興として「剣舞」を演じたことが始まりとされるが、現在は、「舞」である認識から舞台芸術として優れたものを目指すことが主眼となっている。主に日本刀を用いて舞うが、元来古武道から派生しているため、舞の中の刀法は居合道・古武道に従っており、真剣を使うこともあったが、現在は模擬刀を使用する。模擬刀は居合刀とも呼ばれ、刃金は入っていないが真剣と同じ造り・重量であるという。昨今はアルミ製の軽い模擬刀もあるようだ。剣舞の源である日本武術の鍛錬も重要視され、訓練する武術の流儀に拘りはなく、剣舞流派により異なる。大抵の場合、衣装は男性の着物、いわゆる紋付・袴であるが、詩吟の内容により、色目の違い、小道具である扇・日本刀・槍・薙刀などの違い、武装した格好(鉢巻・襷など)などと変化する。
演じられる舞台は、元来は様式美云々より、上方舞のような個人技としての「舞」に重点があり、無伴奏で吟じられた。吟詠の発祥に由来している故だが、吟詠が音楽として確立・発展するに伴い、必然的に楽器が求められ、尺八・筝・琵琶などの邦楽器による伴奏が付けられるようになった。今日は、洋楽器も含む多彩な楽器、シンセサイザーなども使用されている。近年になり、吟詠・剣舞・詩舞の総合的な舞台が多く企画され、台本を創り、演出を考え、音楽・照明・美術・衣装などのスタッフが付いた、いわゆるミュージカル仕立ての舞台が行われている。それにより群舞(ぐんぶ)による剣詩舞が多用されるようになった。剣詩舞はジャンルとして長い歴史を持たない分自由であり、発展性の高い芸能であるといえる。

次に剣舞の郷土芸能としての流れである「剣舞(けんばい)」に入るが、同じ漢字を当てながら別の読み方をすることにより区別される。こちらは修験(山伏)場の中心であった東北の、岩手県から宮城県にかけて分布・発展したもので、前述の剣詩舞とは全く趣の異なるものであり、どちらかといえば先に述べた「棒の手」に近い芸能である。修験者が身を清めるために踊ったのがはじまりとされており、現在は国の重要無形民俗文化財の指定を受けるなど、芸能として保存・継承の動きがある。岩手県北上市周辺に伝えられる民俗芸能の一つ「鬼剣舞(おにけんばい)」は、剣舞のうち最も知名度が高く解かりやすいため、まずこれを取り上げる。

「鬼剣舞(おにけんばい)」 岩手県北上市・胆沢郡胆沢町・胆沢郡衣川村に伝わり、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている民俗芸能で、鬼のような忿怒の形相の仮面を着けて踊ることからこの名が付いたが、角は無く、悪鬼を鎮める仏の化身だという。主として盆に新仏の家・墓・寺などで踊られてきたもので、亡魂鎮送を目的とする念仏踊りの一種とされ、衆生済度の念仏思想の影響を受けていることが解かるが、他に悪霊を踏み鎮める呪法の手として、宗教史・芸能史研究で注目されている地面を踏む所作「反閇(へんばい)」と関係するのではないかとの説や、芸能の徒の招宴の座敷での献盃からきたものとする説などもある。悪魔退散・衆生済度、五穀豊穣、祈願成就など、様々な目的で踊られてきたが、確かな史実は江戸時代の18世紀に行われていたことを示すものしか見つかっておらず、起源はそれ以上に時代を遡るものと考えられている。鳥獣の被毛などの頭飾りに忿怒面を着けた踊り手が、太鼓・笛・鉦などの囃子方・念仏歌に合わせて扇・アヤ竹・刀の採り物を手に踊るものである。演目は、全員での群舞、少人数での群舞、アクロバティックな演技を見せる余興的なものなど多彩であり、踊り・振りは極めて勇壮で力強く、激しい。伝承地により曲目・名称・演じ方などに特徴があるので、以下、北上市以外の剣舞の伝承について触れてみる。

「永井の大念仏剣舞(ながいのだいねんぶつけんばい)」 岩手県紫波郡都南村永井に伝わる剣舞で、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている。剣舞は芸態により、鬼剣舞・雛子剣舞・念仏剣舞・大念仏などと呼ばれているが、永井に伝承されているのは供養念仏の一種である大念仏剣舞である。大きな円形の台の中央に塔を付けた大笠を振るのが特色で、「南無阿弥陀仏」の名号を歌にして唱えるなど、風流芸としての念仏の特色が色濃く残り、念仏唄としても優れたものを継承しているため、資料価値が高い芸能とされる。
「川西の念仏剣舞(かわにしのねんぶつけんばい)」 岩手県胆沢郡衣川村下衣川に伝わるもので、国の選択無形民俗文化財に指定されており、亡魂済度の色合いの濃い演出をとっている。毎年8月24日、中尊寺本堂前の施餓鬼で行われ、「大念仏」の演目の終末部で、念仏の功力によって亡者を成仏させる演技を見せる。「朴ノ木沢剣舞」にも「大念仏」の演目があるが、こちらでは讃め歌が歌われるのみである。「和賀地方の鬼剣舞」にはこの色合いが薄く、余興の曲芸的な演目が盛んである。「岩崎鬼剣舞」は、この地方の鬼剣舞の元祖であり、「滑田剣舞」は岩崎剣舞の指導を受けたものであるが、岩崎にはない神楽系の演目をもっている。
以上、主要なところを挙げてみたが、岩手県内には120余りの剣舞の伝承があり、岩手県の代表的な民俗芸能であることが確認できる。一様に当てはまる特徴を敢えて挙げるなら、ほとんど剣舞と名が付いていることと、催される時期として盂蘭盆会の時期が多いため、供養念仏の類が多いことであろう。また芸能祭の演目として各地域の剣舞が多く参加していることから、地域性の高さも伺える。
「北上みちのく芸能まつり」は岩手県北上市で催される東北最大規模の芸能の祭典で、岩手を中心に、東北地方各地の100以上の民俗芸能が集約され、3日間で堪能できるものである。鬼剣舞はメイン演目として数多く取り上げられ、現在伝承されている18演目全てが披露される。

棒の手・剣舞について概要を並べてみたが、他の民俗芸能と異なる部分のキーワードは「風流化」である。観衆が集まるからこそ芸能の伝承が成り立つことは別の項でも述べたが、日本舞踊の様々なジャンルの中で、囃子方、いわゆる音楽を伴わないものは「棒の手」だけであるように思う。踊りの要素を持たないものが日本舞踊のジャンルに入ること自体がおかしいとも言えるのだが、棒の手と同じ系統の棒踊りなどは囃子方として唄が入る、いわゆる踊りであるのに対し、棒の手のほとんどは演技・実技と称されるように、型の披露である。芸能の風流化には派手な音楽や見た目上の華やかさが伴うものであるので、棒の手は風流化と無縁であったとも言えるが、観衆を魅了する別の要素があるからこそ、これまで存続してきたものとも思われる。
現代でも男の子はチャンバラごっこが好きであるが、剣詩舞などで女性の姿が目立つのを見ると、昔から女の子だってチャンバラが好きだったのではないかと思う。「棒の手」「鬼剣舞」は今のところ男性のみが継承できる芸能であるが、そのうち女性の姿も見られるようになるかも知れないとも思うのだが、男臭い古武道の流れを継いだ芸能であり続けて欲しいと筆者は願う。