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盆踊り

ぼんおどり(日本舞踊)


[盆踊り]
誰もが一度は経験しているであろう夏の夜の風物詩・盆踊り(ぼんおどり)の追究が、本項のテーマである。「盆踊り」のイメージは単純明快で、お盆時期の夜、音楽にのって浴衣の集団が踊る類ではないだろうか。○○音頭と名の付いた、新民謡と呼ばれる曲で踊る民謡踊りや、子供向けにアニメキャラクターの盆踊りの曲などもあり、大人も子供も、老若男女問わず楽しめる娯楽的な踊りが多いのだが、地域性が高く、都市部発祥のものと村落発祥のものでは、本質的に目的が異なる。あまり知られていない盆踊りの話を盛り込みつつ、盆踊りの起源から現在の姿までを追ってみたい。

盆踊りは、仏教行事の一つである盂蘭盆会(うらぼんえ)に迎えた祖霊を慰め、再び送るために大勢の人が踊る「念仏踊り(ねんぶつおどり)」が源流であり、南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)の名号に節を付け、唱えつつ踊るものであった。念仏踊りについては念仏踊りの項を参照して頂けると詳細が分かるので省略する。盂蘭盆会はお盆の正式名称で、「盆」「盆会」「精霊会(しょうりょうえ)」「魂祭(たままつり)」などとも呼ばれ、施餓鬼や盆飾り、精霊流しを行うなど、現在でも日本古来の民族風習が色濃い行事である。斎明天皇の治世である657年に盂蘭盆会を設けたことが史実上初めて登場し、8世紀頃には夏場に祖先供養を行うという民俗風習が日本で確立したと考えられているので、それ以来1300年もの歴史を持つ。旧暦7月15日を中心として行われているが、この日は十五夜、すなわち満月にあたり、月明かりの下で夜通し踊ることができるほど明るかった。盆踊りの場は、あの世との境界・接点となり、その踊りには、霊と踊り手が親しみ、通じ合うことを表す所作が盛り込まれている。月明かりや篝火のほの暗い幻想の中、踊り手はあの世に行った人々の姿を別の踊り手に重ね合わせ、精霊と一緒に踊っているような錯覚に陥り、故人を偲ぶものだったという。また地獄の受難を免れた亡者達が喜んで踊る様を模したものという説もある。後述するが、秋田の「西馬音内の盆踊」のように覆面を着けるもの、仮面を被る仮装盆踊りの類は、このような亡者踊りとしての一面を強調させたものと考えられている。もう一方で娯楽が少なかった昔、共同娯楽、秋の豊年祈願も込められるなど盆踊りは運動会と並んで地域を挙げての一大行事であり、夜開催されることにより、若い男女が解放され恋愛活動の自由を謳歌する場であったとされる。近年では商店街や町内会が主催することが多くなり、宗教色を脱した地域の親睦を主目的とするイベント・お祭り騒ぎ的な性質を更に強めている。次に盆踊りの起源について触れてみる。

盆踊りの直接的な起源を遡ると、平安時代の頃から念仏聖(ねんぶつひじり)が行った、祖先供養のための踊念仏(おどりねんぶつ)が風流化し、そこから派生した「念仏踊り」と、古来から行われていた「風流踊り」が融合し、更に盆行事に吸収されて盆踊りとして完成したのが室町時代の1400年代と考えられている。各村落で祖先供養のために念仏踊りを行うようになったのは中世期以降のことで、初期の盆踊りは派手で華やかな風流の作り物が出る、「念仏拍物(ねんぶつはやしもの)」と呼ばれるものだった。元々儀式的な色合いもあったようだが、太鼓などが用いられ、娯楽的な要素が時代を下るごとに大きくなり、派手なイベントとして定着していった。室町時代から明治時代までの間、盆踊り禁止令が度々出されていることからも騒ぎの様子が伺えるのだが、それでも現代まで途絶えず存続した盆踊りが全国各地にあり、国の重要無形文化財に指定されるなどして保存・継承に努めている。
盆踊りの系統には大別して2つの流れがあり、前述したのが伝統芸能系の「伝統踊り」で、もう一方は、戦後になって伝統踊りから発展した「民謡踊り」と呼ばれるものである。以下、その違いに触れてみる。

「伝統踊り」とも呼ばれる伝統芸能系のものは、地元の民俗風習に溶け込み、地域性が強く多様であるが、音楽面から言うと、歌のみ、太鼓のみ、笛・三味線入りなど、楽器の使用・組み合わせ如何に関わらず、昔ながらの生演奏により踊りが行われる。口説き(くどき)と呼ばれる盆踊り唄は、盆踊りに合わせて歌うもので、室町末期から隆盛に入ると共に、伊勢踊り・念仏踊りなどの歌の系統を引いた歌詞が作られた。口説きも各々の地区により独自性があり、それゆえ各地区ごとにご当地音頭として多く継承されている。盆行事と密接であり、初盆(新盆)を迎える各戸の家を回って踊る地域などもある。また古い盆踊りの歌詞は、通常の会話では敬遠されるような内容のものも多く、普段言えないことを歌に託して大人は憂さを晴らし、若人は歌・踊りの駆け引きで恋愛活動をし、子供は無邪気に音頭・踊りを楽しむ場となる、年に1度の一大行事であり、他の盆行事と共に大切に培われてきた歴史がある。村落社会において、特に娯楽とともに村の結束を強める機能的役割を果たしていたといえる。

「民謡踊り」は、戦後に発展したものであり、歴史はそれほど長くなく、風俗習慣というより地域活性化イベントに近いものだが、盆踊りと名が無くとも同じ系譜に入り、盆踊りと言えばこちらを思い浮かべる人が現在では多いと思われる。前述の伝統踊りのような生演奏はなく、民謡カセット(レコード・CD・etc)を流して街の公園や公民館などで集団で踊るのが一般的である。昭和初期、中山晋平の作曲で大ヒットした「東京音頭」に代表される「新民謡」の興隆により、戦後、地域交流の場として盆踊りが見直された時、それらの最新ヒット曲が活用され、その後も「ドラえもん音頭」など次々と盆踊りのための新しい曲と振りが作られた。現在、民謡・歌謡民謡をはじめ、アニメ・子供向けキャラクター・バラエティ番組・テレビドラマなどから多彩な曲が用いられている。商店街や町内会が主催するものが多く、各々のグループ・組織別に浴衣・衣装を揃えたり、仮装したりと観衆を意識した見どころが多いことも特徴的である。

いずれにしても、広場の中央に櫓(やぐら)を組み、やぐらの上で音楽方の音頭取りが音頭を歌うか、太鼓などの囃子方が拍子を取り、無い場合は櫓の上に踊り子が数人上がり、模範として踊ったりするようだ。音楽方が居ない場合は、櫓付近にスピーカーが置かれる。一般に盆踊りには「行列踊り」と「輪踊り」の2つの形式があり、佃島盆踊り(東京)をはじめ大半の盆踊りは、踊り手が櫓を囲む輪を作り、回りながら音頭に合わせて踊る「輪踊り」形式であるが、連(組)ごとに道路を踊り流す、阿波踊(徳島)・三原やっさ(広島)などのような「行列踊り」形式もある。またその両方の要素を併せ持つ、新野盆踊り(長野県)のようなものもある。
服装面では、やぐらの上の太鼓方、音頭取り、踊り子は浴衣を着用することが多いが、一般参加者はカジュアルな平服で良いとされ、伝統的には、女性の場合は団扇(うちわ)を浴衣の背中の帯に差し込んだ格好、男性の場合は鉢巻を締め、腰に印籠をぶら下げた格好のようだ。地方により、伝統的に鳥獣の仮面・覆面などを着けたり、舞台化粧並の厚化粧に、華やかな衣装で踊る場合もあるようだが、近年の傾向として深夜まで行われることは少なくなっているようだ。

盆踊りの変遷はこの辺で留めておき、歴史ある「伝統踊り」の中でも現存していて、国の重要無形民俗文化財の指定を受けている6件(2008年)について触れてみることにする。恐らく一般的なイメージの盆踊りからは、かけ離れた内容のものであろうし、日本舞踊としての、盆踊りの本来の姿を知る上で興味深いものである。

「西馬音内の盆踊(にしもないのぼんおどり)」 秋田県雄勝郡羽後町西馬音内に伝わるもので、郡上おどり(岐阜県郡上市)、 佐渡おけさ(新潟県佐渡)と並び日本三大盆踊りの1つに数えられ、毎年8月16~18日に催される。西馬音内はアイヌ語で「雲の湧く谷」を意味する。起源は定かではないが、1288年頃から豊年祈願として踊りが始まり、室町時代には盆踊りとして定着したものといわれている。「黒百合姫祭文」という山伏祭文があり、戦国の世に西馬音内城が自焼落城した時の悲劇を伝えているのだが、この盆踊りはその時に出た死者達の供養として毎年行われてきたという。篝火が焚かれる中、「輪踊り」形式の踊り手の女達の端縫(はぬい)と呼ばれる風雅な着物、編笠、彦三頭巾(ひこさずきん)の姿に風流な趣がある。彦三頭巾をすっぽり被り顔を覆った姿は亡者を模したものといわれ、供養踊としての伝承の面影を今に伝えている。囃子は笛・大太鼓・小太鼓・鼓・鉦・三味線などで、特設屋台(櫓)の上で賑やかに演奏され、宵のうちは秋田音頭と同じ「地口」、夜が更けるにつれて「甚句」で囃される。甚句の踊りは「がんげ踊」「亡者踊」とも呼ばれ、快活で賑やかな囃子でありながら洗練された流麗優雅な踊り・振りが際立って美しい。数ある盆踊の中でも傑出したものと評価が高く、盆踊の一典型としての価値も高いといわれている。

「毛馬内の盆踊(けまないのぼんおどり)」 秋田県鹿角市十和田毛馬内に伝わるもので、毎年8月21~23日に催される。起源は定かではないが、少なくとも江戸時代中期から行われていたとされ、一時中断したが戦後復活した。揃いの半纏(はんてん)姿の若者たちが奏でる「呼び太鼓」の音により、踊り子が篝火を囲んで輪を作る「輪踊り」形式で踊る。祖先供養の意味を持つといわれる「大の坂踊り」と、娯楽的な「甚句踊り」の2つがあり、先に「大の坂踊り」、次いで「甚句踊り」を踊るのが恒例で、現在はその後「鹿角じょんがら」というじょんがら節を余興として締めに踊る。「大の坂踊り」は歌を有したが、近代は次第に歌われなくなり、戦後は太鼓・笛のみで踊る現在の形式になった。踊り手の衣装には決まりがあり、男性は黒紋付の裾をはしょり、その下に水色の蹴出(けだし)を付け、胴〆めを締めて飾りとしてしごきを結び、白足袋に雪駄・下駄を履く。女性は紋付・江戸褄・訪問着などの裾をはしょり、その下に鴇色の蹴出を着け、帯を太鼓結びにし、帯の下腰にしごきを結び、白足袋に草履を履く。男女とも豆絞りの手拭いで額を隠すように頭を覆い、前に折り返して口元を隠し顎の下で結ぶ頬被りは、独特の、特徴的なものである。

「新野の盆踊(にいののぼんおどり)」 長野県下伊那郡阿南町新野に伝わるもので、毎年8月14~16日、24日の各日の夜から翌朝にかけて催され、太鼓・笛・三味線など囃子を一切伴わない古風な踊りが特徴である。17日の早朝、鉦・太鼓を打ちながら精霊を送り出す儀礼を行う。音頭台と呼ばれる櫓を組み、その上に音頭取り5、6名が上がり、踊り手は音頭台を中心に細長い輪を作る「輪踊り」形式で、音頭取りの歌を受け、続く歌詞を歌い返し、踊りつつ進む。「すくいさ」「音頭」「高い山」「おさま(甚句)」「十六」「おやま」「能登」の7種の踊りがあり、いずれもゆっくりとしたものである。右手に扇を持って踊るもの、踊る方向が逆回りに進むものなどもある。「市神様」「お太子様」の和賛(わさん)、「百八タイ」と呼ばれる小さな木片を燃やす「タイとぼし」、精霊送り、切子灯籠など、盆行事との関わりが深く、祭祀的要素が強い。 

「徳山の盆踊(とくやまのぼんおどり)」 静岡県榛原郡中川根町徳山に伝わるもので、毎年8月15日の夜に催されており、風流踊と狂言から成る。夜、清めの踊りの後、一同行列になり徳山浅間神社の境内に設営した舞堂で、「鹿ん舞(しかんまい)」「ヒーヤイ」「狂言」の3つで構成された芸能を演じる。
ヒーヤイは元は男性が女装して踊るものだったが、現在は菅笠に扇子と綾棒を手に踊る、少女達の優雅で美しい小歌踊であり、「神すずしめ」「桜花」「牡丹」「かぼちゃ」等の演目がある。ヒーヤイという囃詞から名が付いたとされる。鹿ん舞は、古来、作物を荒らす鹿など獣を払い、豊作祈願をしたことから始まったとされ、鹿に扮した若者が屈んだまま飛び跳ねる動物仮装の踊りで、露祓い・神輿・雄鹿一頭・雌鹿二頭・百姓役数頭・囃子方の一団で構成される。狂言の演目は「頼光」「昆布売」「新曽我」等がある。小歌踊と狂言を交互に演じるという特色を有する形態は、古歌舞伎踊の初期の構成を伝承するものであり、また地方的特色にも富み、芸能史上貴重とされる。

「有東木の盆踊(うとうぎのぼんおどり)」 静岡県有東木に伝わるもので、毎年8月14、15日の夕刻から夜中の12時頃まで、東雲寺の境内を会場として催される。起源は定かではないが、江戸時代中期以前から伝承していると考えられている。男踊りと女踊りに分かれており、曲・振りも異なり、男女が混じって踊ることはないが、いずれも締太鼓を伴奏に、踊り手も歌いながら「輪踊り」形式で踊る。男踊りに始まり女踊りと交互に演じられ、現在の踊りは、男踊りが10種、女踊りが13種の合計23種ある。扇・コキリコ・ササラ・小さな長刀(なぎなた)を持つものや、踊りの輪にトウロウ・ハリガサと呼ばれる飾り灯籠を頭上にかざした踊り手が繰り込む「中踊り」があるなど、多様な内容を持つ。中踊りの灯籠は、中世に京都を中心に流行した風流(ふりゅう)の灯籠踊の姿をうかがわせ、また盆踊の最後に、行列して集落の境などへ行き、切子灯籠などを燃やすなど、当時の盆行事を今に伝えているため重要なものであるが、現在は娯楽より芸能保存の動きが必要となるなど、後継者となる若者の意識改革に重点が置かれているようだ。

「綾渡の夜念仏と盆踊(あやどのよねんぶつとぼんおどり)」 愛知県東加茂郡足助町綾渡に伝わるもので、毎年8月10、15日の夜、平勝寺の境内を中心に催される。平笠を被り、浴衣に角帯、腰に白扇を差し、白足袋に下駄の姿で行列を作り、鉦を打ち念仏を唱和する夜念仏と、それに続いて行われる、三味線や太鼓などの楽器を使わない古風な歌だけの盆踊である。先頭と末尾に切子灯籠を持つ「折子」が立ち、先頭の折子の次に全体の統率者である、香炉を両手で捧げ持つ「香焚」が並び、その後ろに鉦、撞木を持つ「側衆」が並ぶ。先頭の灯籠には極楽、最後の灯籠には地獄の様子が描かれている。夜念仏は詳略し、盆踊についてのみ詳述するが、折子灯籠を中心に輪になる「輪踊り」形式で盆踊が行われるもので、「音頭とり」の歌に合わせ、踊り手も「囃詞」を歌いながら踊る。楽器類が一切無いので、下駄が境内の砂地を荒らす音が、唯一の伴奏である。「越後甚句(えちごじんく)」「御嶽扇子踊」「高い山」「娘づくし」「東京踊り」「ヨサコイ」「十六踊り」「御岳手踊り」「笠づくし」「甚句踊り(足助綾度踊り)」など10曲の踊りが伝えられている。

盆踊りのまとめに入りたい。正直なところ、筆者自身「伝統踊り」の類に触れる機会が今まで皆無であったことから、本項で触れてゆくことで改めて盆踊りを見直す良い機会ができた。盆踊り主催の目的を幾つか前述したが、それら全てを保持してゆくには時代が変わり過ぎた感がある。盆踊りの伝承に努める方の言葉に「踊り手・演じ手が自己陶酔している瞬間が一番美しい」というものがあった。盆踊りの成立や本来の意味を考えれば当然ではあるが、前述したような文化財指定となっている、いわゆる芸能として見直された盆踊りは特に、観光客がどっと訪れ、踊り手が自己陶酔できるような、本来あるべき環境作りに必死となっている。今後どのように盆踊りが継承されてゆくべきなのか筆者にも解らないのだが、形だけ保存され、脱殻が踊るような盆踊りの伝承では寂しい気がする。