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延年

えんねん(日本舞踊)


[延年]
この語を聞いて古典芸能の1つだと閃く方はかなりスゴイと思う。この語が語源とする用語の意味から、延命長寿の何某かと当りをつけることは可能かと思うが、その内容はと言えば、正確な解釈が難しい。筆者は様々な古典芸能を取り上げてきたが、正直なところ延年ほど資料を要するものは他に無かった。本項「延年」に、読者の知りたい点が少しでも多く含まれていることを願う。

延年(えんねん)を一言で言えば、中世の寺院で、法会の後の法楽として演芸大会のようなものが催され、その余興として演じられた芸能である。1つの芸能ではなく、舞楽・散楽・風流・風俗歌舞・猿楽・白拍子・小歌など、演じられた芸能の総称であり、雅楽風の演出・演目の中に庶民的な芸能を混ぜた、いわゆる貴族芸能と庶民芸能の混合体である。法楽として行われた芸能の歴史はかなり古いと考えられているが、延年という語が文献上登場するのは平安時代中期頃からであり、延年が定着・普及を見せるのは鎌倉時代に入る頃、興隆期は室町時代のことである。
延年の語源は「遐齢(かれい)延年」という延命長寿の意味を持つ語から派生したもので、芸能により心を和らげることが寿福増長に通じることから、長寿を祈願し、福を求める芸能とされる。室町時代初期に成立した初等教育用の教科書「庭訓往来(ていきんおうらい)」の二月の条に「詩歌管弦者遐齢延年方也」とあり、ここから遐齢延年の語が採られ、後に遊宴芸能を指す言葉となった。延年は、時代に応じて内容的に変遷をみるため、初期から興隆に至るまで、時代に沿って説明を試みることにする。

初見される平安中期の延年は、延暦寺・東大寺・興福寺などの京都・奈良の都周辺にある大寺院で、賓客・貴族接待の際や大法会の後に、下級の僧や稚児により遊宴歌舞が披露された。当初は寺院芸能の本質といえる美童観賞、平たく言えば稚児(美童)の舞事が主体であり、「遊宴」「乱遊」などとも呼ばれた記録があるので、この頃は余興的色合いが濃く、公演というより内部的に催されたものと思われる。これが法会とともに周知のものとなり、人気を博し始めると、芸能として次第に確立し、観衆を楽しませるためのものに変容していった。
鎌倉時代初期には、遊僧(ゆそう)と呼ばれる諸芸能に優れた専業僧が現れ、中国故事を題材とした、劇としての構成を持つ「風流」「連事」「開口」「当弁」の新趣の芸能を演じ、この4演目が主体となる。
「風流(ふりゅう)」とは、華美な装束や舟・山などの大きな作り物を用いて説話の舞台化を図ったもので、一般に風流といえば、趣向を凝らした風情のあるもの、その心(美意識)を用いた踊・祭礼の造り物・練り物などの総称である。登場人物の問答の後、歌舞を行っていたが、後にこれが発展して仏教故実を多く扱った「延年風流」になり、大風流と小風流を一日に1つずつ披露する形式に変わってゆく。大風流は魚・鳥・獣・虫などに扮した「走り物」と呼ばれる着ぐるみが出る演出が特徴的で、特に魚が人気だったという。
「連子・連事(れんじ・つらね)」とは、言葉や歌を双方の遣り取りで連ねてゆくもので、舞台上の位置の変化を伴いつつ対話と歌謡を交錯したもの。当初舞は加わらなかったようだ。
「開口(かいこう・かいこ)」とは、一山(寺院)を賞賛し、その延年のいわれを述べるもので、一山の頂点に立つ長吏が入寺・拝堂の際に催された最初の演目の類である。能の「翁」と同様の姿で司会のような役割をするものが多い。
「当弁・答弁(とうべん)」とは、当意即妙に秀句を述べる、洒落を中心とするもので、特に開口の翁と対になり、問いに対しアドリブで受け答えをする類が多い。後には形式化して唱え事をしながら優雅に舞うものになったようだ。
これらは現在、各地の寺院に細々と残る延年の演目の中にも散見することができる。

前述の延年専業者である遊僧・濫僧(狂僧)らにより、次第に猿楽・田楽・白拍子・舞楽・風流・今様・朗詠・小歌など、様々な雑芸が取り入れられていった。演目はその時々の流行により変じて演じられ、そのうち寺院内の遊僧・稚児の他、専門芸能者である猿楽者・田楽者らも加えて行われるようになった。興隆期である鎌倉~室町時代には規模も大きくなり、更に演目も多くなり、数日に渡って行われるものもあった。雑多な演目の中で、特に舞の要素の強いものは「延年の舞」、演劇的な要素の強いものは「延年の能」と呼ばれた。
「延年の舞」は、他の芸能の中に吸収されているものもあり、そこから往事の延年の様子を伺い知ることができる。能の謡曲「安宅(あたか)」に、弁慶が踊る男舞としての延年の舞が特殊演出として踊られることがある。「安宅」を原作として作られた歌舞伎十八番の「勧進帳」にも、見せ場の一つとして弁慶役が延年の舞を踊る場面がある。弁慶が元々比叡山で延年舞の芸能僧であったという、「安宅の関」の故事に因るものである。寺院の延年芸能が能楽や後の歌舞伎に影響を与えた痕跡を見ることができる。
「延年の能」は、能の原型である猿楽の能と最も似ており、関連が深く、互いに影響し合ったことは間違いない。その形式などは猿楽に吸収され、後に世阿弥によって能楽として大成されてからは幕府の庇護を得たため、延年の能から遠ざかってしまった。起源としてどちらが先かは諸説あるが、能楽先行とする意見が主流である。延年の能は、現在継承されている能楽には見られない、古い形式の猿楽能の面影を現代に伝えているといえる。
最盛期の頃の延年は、「延年風流」と呼ばれる演劇的な出し物が主体であった。延年の見せ場の中心が、華々しく装飾された舞台装置や仮装した登場人物にあったためで、「大風流」と呼ばれた曲(演目)には、「風流」で前述したように鳥獣の被り物の「走り物」が登場して舞い、最後は舞楽で締められた。「走り物」は、延年が能の演出を採り入れて成立させたものと言われている。「小風流」は登場人物の台詞の遣り取りの後、歌謡により引出された稚児が白拍子舞を演じた。どちらも舟・山など大きな作り物が舞台装置として出され、華美な衣裳が用いられた派手な見世物として定着していた。二階建ての大きな装置、可動式の山車のような装置など、大掛かりな舞台装置が使われることもあった。この派手な舞台装置の発想は、後の歌舞伎に吸収されていったと考えられている。

さて、話の舞台は場所に移る。奈良県桜井市多武峯(とうのみね)にある談山神社(たんざんじんじゃ)が所蔵する延年諸本は、室町時代に成立した最古の演劇台本として有名で、県の文化財に指定されている。多武峯大明神を改称して談山神社となったのだが、多武峯は古くから猿楽(能楽)史上にも登場し、八講猿楽(はっこうさるがく)の神事は今日も有名である。ここでの延年は全国最大規模を誇る盛大な(紅白歌合戦のような)演芸大会であったという。大和猿楽四座の観阿弥が所属していた山田座(寺)は談山神社の末寺であり、世阿弥が残した著述の中に「年に一度、多武峯で演能しない者は芸能者としての資格を失う」と記されるほど、芸能者にとって大切な場であったようだ。談山神社は携帯電話の電波も届かない山間にあり、現在は紅葉の名所として知られている。

能楽が観阿弥・世阿弥父子により大成された後、支配者層である武家階級が能楽を式楽として手厚く保護したことなどが要因となり、延年は徐々に衰退してゆき、江戸時代にはほとんど演じられることがなくなった。現存する延年は40曲余りであるといわれ、現在では、岩手県平泉毛越寺、栃木県日光輪王寺など、幾つかの寺社で行われているのみであり、それらも延年のごく一部が残っているに過ぎない。その中で最も整った形で伝承され、内容的に豊富なのが、毎年1月20日の夜に行われている「平泉毛越寺の延年」であり、国の重要無形民俗文化財に指定されている。祝詞(のっと)に始まり、田楽躍・若女(坂東舞)・路舞(唐拍子)・児舞(立合)・老女・勅使舞(京殿有吉舞)・舞楽などが演じられている。これら以外に延年の能と呼ぶべきものが数十番あったと言われているが、近年まで残されたのは「留鳥(とどめどり)」「卒都婆(そとば)小町」「女郎花(おみなえし)」「姥捨山(うばすてやま)」の4番のみで、これを2番づつ交互に演じられていたが、舞まで完全に残されておらず、現在「留鳥」のみ復興された。このように能楽大成以前の古い能の謡曲が4番まとめて伝承されているのは貴重である。
毛越寺の延年は摩多羅神祭(またらしんさい・またらじんさい)とも呼ばれている。中世期に摩多羅神信仰が高まったといわれ、様々な摩多羅神祭が各地に伝えられているが、秘仏(秘神)であるためか実態が明らかにされておらず、この神の出所も由来も不明のままである。天台宗の僧・円仁が中国(唐)から日本へ請来したものとされるが、道祖神・道教・密教など、その神のとらえ方も様々で、多様な位置付けがされている。猿楽をはじめとする諸芸能者にとって、何故か古の芸能神として信仰され、一部には申楽の祖・秦河勝(はたのかわかつ)と同一視されている。烏帽子を被り、狩衣姿でにこやかに鼓を打つ姿で描かれる摩多羅神は何者なのか。中世芸能を扱っていると時々目にするのだが、未だ実態が掴めぬままである。

上述の摩多羅神に関して結論が出ぬままですっきりしないのだが、まとめに入ることにする。
芸能とは観衆があってこそ発展してゆくものであり、また理解者があってはじめて存続が許される。現在まで延年が細々としか残されなかった背景として、この芸能を要望する声の減少・衰亡を思うのである。能楽が大成して以来、延年と同様、衰亡した芸能は数多くあるが、生き延びる術は無かったのだろうか。国として宗教や芸能の統一化を図るのは、現世の日本では想像できない。経済大国として現在の国の姿が出来上がる過程で消失してきた無形文化遺産の価値は大きい。今更ながら復活を試みても時既に遅し、当時の姿は蘇らない。
次世代が培うであろう新たな文化を生み出す力同様、既存の文化を保存・継承してゆく意識を持たねば無形文化の生き残る道はないことを再認識している。