修正依頼



島津(薩摩)

しまづ【大名】


[島津(薩摩)]
【出身地】日向国諸県郡島津荘(現・宮崎県都城市)
【本拠地】薩摩国・大隅国・日向国
【家祖】島津忠久・・・源頼朝と丹後局の間に生まれた子と称するが、実際は主筋である近衛家領の島津荘の下司をつとめた秦氏の子孫・惟宗広言の子で、源頼朝から島津荘の下司に任じられ島津氏を称した。
【支流・分家】伊集院氏・伊佐氏・佐多氏・北郷氏・川上氏・新納氏・山田氏・中沼氏ほか多数。⇒「島津・家系図」
【本姓】惟宗氏
【略歴】鎌倉幕府成立後、惟宗忠久は源頼朝より薩摩国・大隅国・日向国の3国の守護に任ぜられ、比企能員の乱に連座して一時は失脚したが、まもなく薩摩一ヶ国の守護を回復、以後守護職を相伝し、越前、播磨、信濃、駿河、若狭に支流を分出しながら発展。1275年、島津久経が元寇を機会に幕命により下向して以来在地化が本格化。1333年、貞久は足利尊氏の要請で鎮西探題を攻略し、大隅・日向の守護職を回復、三男の師久と四男の氏久にそれぞれ薩摩・大隅の守護職を分与、師久の子孫は総州家、氏久の子孫は奥州家(嫡流となる)と称し、両家は団結して今川探題を退ける。室町中期以降は一族の内訌によって勢力が衰えるが、1526年、相州家の忠良の子で宗家の養子となった貴久が、薩州家の実久など有力諸家を退けて一族を統一。貴久の嫡男・義久の時、日向の伊東氏を駆逐し、薩摩・大隅・日向を統一、その後も豊後の大友氏、肥後の相良氏、肥前の龍造寺氏を降して、一時は豊前の一部を除く九州全てを制覇。しかし、1587年、九州平定を目指した豊臣秀吉に降伏、本領である薩摩・大隅二ヶ国と日向諸県郡に戻った。関ヶ原の戦いでは、義久の弟・義弘はわずかな手兵を率いて西軍に属したが、戦わずして敗れ、敵陣を突破して帰国したが、徳川家に武備恭順の態度を示し、外様大名・薩摩72万石余の藩主として存続。1609年、琉球に侵攻、琉球王朝を支配下に置く。幕末、斉彬の時、西洋帝国主義に対抗すべく殖産興業に成功、藩内より尊皇倒幕の志士を多数輩出。斉彬の死後、毛利氏と結んで幕府を倒して新政府を樹立。なお、将軍家御台所を二人輩出している。