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相良(肥後)
さがら【大名】
[相良(肥後)]
【出身地】遠江国佐野郡相良荘(現・静岡県榛原郡相良町)
【本拠地】肥後国球磨郡人吉荘(熊本県)
【家祖】相良周頼・・・遠江国相良荘に住んで相良氏を称したことに始まる。
【支流・分家】村上氏・永留氏・長原氏など
【本姓】藤原南家。
【略歴】相良頼景は源頼朝に仕えて御家人となり、1198年、肥後国球磨郡多良木荘(熊本県)に下向。長瀬の時、同国人吉荘の地頭職に補任され、承久の乱では、幕府方に従う。長頼の子・頼氏が惣領となる多良木荘を継ぎ、上相良氏を称し、一方、人吉荘は頼俊が継いで、下相良氏を称す。南北朝時代、上相良氏は南朝に属して衰退し、対して下相良氏は北朝方に加わり、事実上、下相良氏が惣領家となり、肥後守護職を得た。1448年、内訌を鎮めて下相良惣領家を継いだ永留相良氏の長続が、上相良氏を滅ぼし、球磨郡を統一。その子・為続は名和氏を破って八代郡も支配、1493年、「相良氏法度」を制定。為続後、一族の上村氏の養子となった為続の庶子・頼廉が、惣領家を継ぐことになる。戦国大名化した相良氏は、晴広の時には「21か条の法度」を制定するなど、最盛期を築く。しかし、1581年、義陽の時、響ヶ原の合戦で島津氏の命を受けた甲斐宗運に討たれ、球磨一郡に戻る。その後、義陽の次男・長毎は島津氏を降服させた豊臣秀吉に属したため、相良領を安堵されて近世大名としての道を確立。関ヶ原の戦いでは東軍に内応、江戸時代、人吉藩2万2100石を領して明治維新まで存続。明治17年、頼紹の時に子爵となる。
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