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菊池(肥後)

きくち【大名】


[菊池(肥後)]
【本拠地】肥後国菊池郡(現・熊本県菊池市)
【家祖】藤原則隆
【支流・分家】米良氏
【本姓】藤原北家
【略歴】11世紀後半から肥後国菊池(熊本県菊池市)を本拠に在地領主として成長。源平合戦では、平家方から源氏方に寝返って、鎌倉幕府の御家人となる。承久の乱では後鳥羽上皇方に組し、所領を減じられた、のち元寇で活躍。南北朝時代、菊池武光は肥後南朝方の中心として活躍したが、北朝方の今川貞世の九州下向により衰退。その後、武光の孫・武朝の時に肥後守護の地位を回復、以後、能運に至るまで代々世襲する。能運の死後、庶流の政隆が家督を継いだ後、阿蘇惟長(のち、菊池武経)を迎えたが、1532年、武包の死後急速に衰退、1554年、菊池家当主となった大友重治(のち、菊池義武)が、実兄である義鑑の嫡男・大友義鎮(宗麟)に敗れて死去、ここに肥後菊池氏の嫡流は断絶。なお、日向国米良(宮崎県児湯郡西米良村)に逃れていた能運の子・重為が米良氏と称し、江戸時代は交代寄合となった。明治維新後、菊池氏に復姓している。