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有馬(肥前)

ありま【大名】


[有馬(肥前)]
【出身地】肥前国高来郡有馬荘(現・長崎県北高来郡有馬町)
【本拠地】肥前国・越前国
【家祖】有馬経澄・・・鎌倉時代に有馬荘の地頭に補任されて有馬氏を称する。
【本姓】藤原純友の子孫というが、不詳。
【略歴】南北朝時代には南朝に属していたとされ、室町時代には肥前国高来・藤津・杵島の三郡を支配。戦国時代、有馬氏は島原半島に勢力を伸張、晴純の時に最盛期を創出、1539年には肥前守護に就いて、肥前国最大の勢力となる。しかし、晴純の子・義貞の代に、龍造寺氏や大友宗麟の圧迫を受けて、日野江城に拠って高来郡一郡のみを領す小勢力にまで衰退。1584年、義貞の次男・晴信の時、津島氏と結んで沖田畷の戦いで龍造寺氏を打ち破り、1587年、九州征伐に赴いた豊臣秀吉に臣従、高来郡で4万石を領した。晴信は関ヶ原の戦いでは東軍に属して本領を安堵されたが、岡本大八事件があって甲斐に配流された。子・直純は家康の縁戚にあったため家督相続を許され、従順の意を示すために領民にキリシタンからの転宗を強制。その後、有馬氏は日向県藩(延岡藩)に加増転封、、越後糸魚川を経て、1694年、越前丸岡5万石に入封、帝鑑間詰の譜代大名として明治を迎える。明治17年、道純の時、子爵となる。