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龍造寺(肥前)

りゅうぞうじ【大名】


[龍造寺(肥前)]
【出身地】肥前国佐嘉郡津東郷龍造寺(現・佐賀市)
【本拠地】肥前国・筑前国
【家祖】龍造寺季(秀)家・・・1186年、肥前国龍造寺村の地頭となり、龍造寺氏を称する。
【支流・分家】水ケ江龍造寺氏。龍造寺四家(諫早鍋島家・須古鍋島家・多久鍋島家・武雄鍋島家)
【本姓】藤原北家秀郷流佐藤氏を称すが、不詳。
【略歴】南北朝時代、家親・家政父子は足利尊氏に従って活躍。室町時代後期、肥前の守護・少弐氏に被官、1530年、家兼が田手畷の戦いで奮戦。のち家兼は少弐氏に叛旗を翻したため筑前を追われ、肥前水ヶ江城に拠った。以後、本家・村中龍造寺氏より水ケ江龍造寺氏が主系となり、大内氏庇護の下に独立したが、少弐氏重臣たちに敗北して滅亡の危機に瀕する。しかし、仏門に入っていた曽孫・隆信が還俗して本宗家を継ぐと、1559年には少弐氏を滅ぼし、肥前から筑後、肥後に勢力を拡大、大友氏、島津氏と九州を三分するまでに成長。1584年、島原にて隆信が島津家久に敗れて以降は、龍造寺氏の勢いも衰退。子・政家は、九州を平定した豊臣秀吉より肥前一国を安堵されたが、病弱であったため、重臣鍋島直茂に実権が移っていく。関ヶ原の戦い後、肥前は鍋島氏に与えられ、龍造寺氏はその重臣として佐賀藩士となる。政家の子・高房は鍋島氏への抗議の意味を含めて自殺、ここに龍造寺本家は絶家、一族の諫早氏、多久氏は佐賀藩家老となった。なお、現在は龍造寺姓は九州北部に点在する。