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大内(周防)

おおうち【大名】


[大内(周防)]
【本拠地】周防国
【家祖】多々良正恒
【支流・分家】矢田氏・鷲頭・右田氏・吉敷氏・山口氏
【本姓】百済聖明王の皇子・琳聖太子の後裔と称しているが不詳。
【略歴】平安時代末期、多々良盛房は周防権介となり、大内介と名乗る。鎌倉時代、大内一族は在庁官人として歴代これを世襲し、周防を掌握。南北朝時代、弘幸の子・弘世は、南朝に属し、長門国守護の厚東氏を攻略、周防と長門を統一して本拠地を山口に移した。のち幕府に帰服して、その子義弘の時には、6ヶ国の守護を兼ね、中国地方の大半を支配し、山口を拠点に明や李氏朝鮮と独自の貿易を行い大内氏の最盛期を出現させる。1399年、応永の乱で義弘が敗死して一時衰退を余儀なくさるが、盛見の後継となった持世の代に、室町幕府の信任を受け北九州での地位を確立、以後西国随一の勢力に成長。義隆の代には、学問・芸術への注力、キリスト教布教の保護など、独特の山口文化を展開。しかし、1551年、家臣陶晴賢の反乱によって義隆が殺され、擁立した甥の義長も1557年、厳島で毛利元就によって滅ぼされ、大内氏は滅亡した。