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毛利(安芸)

もうり【大名】


[毛利(安芸)]
【出身地】相模国愛甲郡毛利荘(現・神奈川県厚木市周辺)
【本拠地】安芸国高田郡吉田荘(現・広島県安芸高田市吉田町)
【支流・分家】吉川氏・小早川氏
【本姓】大江氏
【略歴】大江広元の子・季光が相模国毛利荘を領して毛利氏を称したことに始まる。季光は、1247年、宝治合戦で三浦泰村に与して北条氏に反旗を翻したが、3人の子息と共に戦死。四男の経光は、この乱に関与しなかったため、越後国刈羽郡佐橋荘(現・新潟県柏崎市)と安芸国高田郡吉田荘の地頭となり、子孫は越後と安芸に分立。南北朝時代初頭、吉田荘を譲与された時親が、吉田荘の郡山に下向、北朝の足利方に従った。室町時代には、吉田郡山城に拠って一族庶家を分出、安芸国の有力国人として成長。戦国期、元就の時、従属していた大内氏から自立、1557年には大内氏を破り、長門・周防・安芸・備後・石見の五ヶ国を制し、1566年には尼子氏を滅ぼして中国地方10ヶ国を支配。子・輝元は豊臣秀吉に従属し、安芸広島城に本拠を移し、8ヶ国、120万石を安堵され、五大老の一人となる。しかし、関ヶ原の戦いで西軍の総大将として戦って敗れ、周防国・長門国(長州藩)に減封。江戸期、長門萩36万9000余石。幕末、藩主・敬親は、藩論を討幕に統一して、明治維新を成就。維新後、元徳は山口藩知事となり、明治17年に公爵となった。