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赤松(播磨)

あかまつ【大名】


[赤松(播磨)]
【出身地】播磨国赤穂郡赤松(現・兵庫県赤穂郡上郡町赤松)
【本拠地】播磨国
【家祖】赤松家範
【支流・分家】摂津有馬氏。別所氏。
【本姓】村上源氏季房流?
【略歴】赤松氏は源季房の後裔で播磨国佐用荘の地頭であった宇野則景の嗣子・家範が赤松村の地頭代官となってから赤松氏を称した言われ、鎌倉時代、西播磨に勢力を持った。1331年、家範の曾孫・則村(円心)が元弘の変で軍功を立て、建武政府から播磨守護職を賜った。のち、北朝方の足利尊氏とともに六波羅を攻略し、摂津守護職も得た。則村の孫・義則の時には、室町幕府の四職となって播磨・摂津・備前・美作の守護を兼ねて、有力守護大名に成長。しかし、義則の嫡男・満祐は将軍足利義教と対立、1441年、自邸で義教を殺害、将軍家の重臣であった山名氏・細川氏に播麿で討たれ、赤松宗家は断絶した。のち、赤松宗家の血を引く政則(満祐の弟・義雅の孫)が再興、1469年にのち赤松氏が城主五代続くことになる置塩城を築城。応仁の乱(1467-1477年)では東軍に属して播磨・美作・備前の守護への復帰を果たすが、やがて家臣の浦上氏が台頭、1521年には当主・義村が浦上村宗に殺害された。嫡子・晴政は1531年、摂津大物崩れの戦いで村宗を討つことに成功したが、赤松氏の勢力は昔に復することはなく、さらに1559年晴政の子・義祐は、浦上政宗の弟で赤松氏から自立していた宗景によって追放される。義祐の子・則房は織田信長に降り、阿波住吉で一万石を領したが、1585年に死去し嫡流は断絶した。