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浦上(播磨・備前)

うらがみ【大名】


[浦上(播磨・備前)]
【出身地】播磨国揖保郡浦上荘(現・兵庫県龍野市揖保町)
【本拠地】播磨国・備前国
【家祖】浦上為景
【本姓】紀氏。播磨国揖保郡浦上庄を姓としたとされる。
【略歴】鎌倉時代末期、播磨の赤松則村の活躍の一翼を担ったとされ、南北朝時代、播磨国浦上荘の地頭職となり、浦上為景の子とされる浦上行景は赤松則祐が備前守護に任じられると、守護代となった。その後、三石城を本拠に備前東部に地盤を築き、のちに主筋の赤松氏を凌ぐ勢力に成長。浦上則景の跡を継いだ・村宗の時には、赤松義村と対立、重臣の宇喜多能家らの活躍もあり、1521年に義村を殺害、赤松氏の実権を握ったが、1531年、摂津大物崩れの戦いで義村の子・晴政に討たれ、浦上氏は一時停滞した。村宗の嫡子・政宗は、赤松氏の下で勢力の回復に努めたが、次男・宗景と対立して分裂、政宗は三石城から播磨国室津城に移って赤松氏と結び、宗景は備前国天神山城に根拠を置いて赤松氏から独立。その後政宗が赤松政秀に暗殺され、一方の宗景は、完全に自立して備前・美作一帯にまで勢力を伸張したが、毛利氏と結んで正統な浦上家の当主として久松丸を擁立した家臣の宇喜多直家に天神山城を攻略され、播磨国に追放された。また、久松丸も直家に毒殺されたことで、戦国大名としての浦上氏は事実上滅亡。