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多賀谷(常陸)
たがや【大名】
[多賀谷(常陸)]
【出身地】武蔵国埼玉郡騎西荘多賀谷郷(現・埼玉県騎西町)
【本拠地】常陸国下妻(現・茨城県下妻市)
【家祖】道智光基…頼基の子で武蔵国埼玉郡騎西庄多賀谷郷の地頭職となり、多賀谷と改名した。左衛門尉家政…金子家忠の次男であったが多賀谷重光の養子となり多賀谷氏3代目となる。
【支流・分家】蒲刈多賀谷氏…鎌倉期・承久の乱後に支族が伊予国周敷郡北条郷に移り、安芸国蒲刈島を本拠に海賊衆となり、大内氏直属水軍・三ヶ島衆の一角を担った。倉橋多賀谷氏…蒲刈多賀谷氏と同様に支族が伊予国周敷郡北条郷に移り、安芸国倉橋島を本拠に移したことで海賊衆となり、大内氏に属する水軍となったが小早川氏により滅亡した。
【本姓】桓武平氏流野与党
【略歴】武蔵七党・野与党を祖とし、桓武平氏野与党または村山党の流れとされる。氏家の代に常陸国下妻へ移住して結城氏に臣従し、1440年に勃発した結城合戦では、落城前に氏家が結城城から結城氏朝の末子・七郎(結城成朝)を抱いて脱出するなど結城家の再興に尽くした。重経の代に20万石にまで領地を拡大して最盛期を迎えたが、文禄の役に参戦しなかったために領地の一部を没収され、更に関ヶ原合戦では徳川家康の小山本陣への夜襲が露見し、改易された。鎌倉時代、支族が承久の乱後に伊予国周敷郡北条郷へ移住しており、南北朝期にも安芸国蒲刈島・倉橋島に移り住み、尾各々蒲刈多賀谷氏・倉橋多賀谷氏となり、戦国期には大内氏に属する水軍として活躍した。
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