修正依頼



大隅国造(日向)

おおすみのくにのみやつこ【国造】


[大隅国造(日向)]
大隅国造は大隅国(現・鹿児島県大隅半島周辺)を支配した国造とされ、国造本紀(先代旧事本紀)によると景行天皇(12代)の時代に隼人同祖・初小(そお)を治平し、仁徳天皇(16代)の時代に伏布を日佐(おさ、長?)として国造を賜るとあるのが最も文献的には古いとされる。伏布も曰佐も明快な解釈がなく、その一因として熊襲(くまそ)・隼人(はやと)族の支配した地域であったことが指摘されている。国府・国分寺は現在の霧島市に置かれ、国造氏族は大隅直と考えられるが、大隅忌寸・島津氏・中原氏・大中臣氏などの他、曽君・加士伎県主・肝衡等が豪族として名が見える。
大隅国は西海道の1国として713年に日向国から分立したが、古くから熊襲・隼人の根拠地であり、大隅国成立後も度々反乱があったが、721年「隼人の反乱」と呼ばれる大反乱が大伴旅人によって征討された後には完全服従したという。朝廷から見てこれが熊襲の終焉であり、この後東方征討へと方向転換した。
熊襲は古事記では熊曽、日本書紀では熊襲、風土記では球磨贈於(球磨地方と霧島地方)と表記され、朝廷に服属した後は大隅隼人と呼ばれたようだ。
鹿児島県霧島市国分府中にある守公神社は大隅国総社であり、祭神は伊邪那岐神・伊邪那美神のほか瀬織津姫神などで、現在は祓戸神社と呼ばれている。