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加賀(加宜)国造 ( 越 )

かがのくにのみやつこ【国造】


[加賀(加宜)国造 ( 越 )]
加賀国造は加賀国(現・石川県南部)を支配したと言われ、加賀国造が越前国に属したとの史実、越前国より分立した時点では加賀・江沼の二郡のみだったとの史実等からは加賀・加我・加宜国造が別々に併存したのか、一つの加賀国造の交替を意味するのか明らかではない。但し祖の違いから加我・加宜国造は別の国造とする説が多いので、本項では加宜国造について触れ、加我国造については別項とする。 国造本紀(先代旧事本紀)によると仁徳天皇(16代)の時代、能登国造と同祖である素都乃奈美留命(そつのなみるのみこと)を国造に定めたことに始まるという。しかし国造本紀に垂仁天皇(11代)の子・大入来命(おおいりきのみこと、大入杵)の孫である彦狭嶋命(ひこさしまのみこと)が能登国造とされており矛盾している。素都乃奈美留命は高志深江国造(新潟)と同一であり、これによれば加我国造と同じ道君系である。