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加賀(加我)国造 ( 越 )

かがのくにのみやつこ【国造】


[加賀(加我)国造 ( 越 )]
加賀国造は加賀国(現・石川県南部)を支配したと言われ、加賀国造が越前国に属したとの史実、越前国より分立した時点では加賀・江沼の二郡のみだったとの史実等からは加賀・加我・加宜国造が別々に併存したのか、一つの加賀国造の交替を意味するのか明らかではない。但し祖の違いから加我・加宜国造は別の国造とする説が多いので、本項では加我国造について触れ、加宜国造については別項とする。 国造本紀(先代旧事本紀)によると雄略天皇(21代)の時代、三尾君(みおのきみ)の祖で垂仁天皇の皇子・磐撞別命(いわつくわけのみこと、磐衝別命、磐撞別皇子、石衝別王・伊波都久和気)の4世孫である大兄彦君(おおえのひこぎみ)を国造に定めたことに始まるとされる。国造は三尾氏系と伝えるが、早くに衰退して道(味知)君(みちのきみ)に代わったとされている。石川県石川郡味知(味智)が道君の本拠と言われ、又滋賀県高島市には拝戸古墳群があり、三尾君の祖の墳墓と伝えられる皇子塚があり、大兄彦君の墓は石川県金沢市御所町の御所八ッ塚古墳と伝えられ、磐衝別命の墓は石川県羽咋市にあるという。道君は武内宿禰系の伝承をもっていることから三国国造・伊弥頭国造・利波臣・江沼臣などと同祖関係にあるとされ、また石川県の大浦・高桑・高木氏、安江氏、津幡氏、井家(井上)氏等は道君の族裔とみられている。