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岩倉宮

いわくらのみや【宮家】


[岩倉宮]
鎌倉時代の皇族で、「岩倉」「広御所」ともいう宮号の由来は居住地か領地に縁があると推測されるのみで詳しくはわからない。鎌倉幕府打倒を図って承久の乱を引き起こし、乱の後は佐渡へ配流となった順徳天皇の皇子で母は熱田神宮大宮司従三位藤原清季の娘。同母の兄弟に天台座主尊覚法親王・園城寺長吏覚恵法親王、異母兄弟に仲恭天皇・四辻宮善統親王、王子に源彦仁・彦豊王がいる。仁治3年(1242年)正月9日、四条天皇が僅か12歳で崩御した際、皇嗣候補の1人として土御門天皇皇子の邦仁王とともに名が挙がり、忠成王には縁戚の九条道家がつき、邦仁王には土御門定通がついてそれぞれ幕府に働きかけた。鎌倉幕府執権の北条泰時は順徳天皇の皇子である忠成王の即位に難色を示し、一時は軍事介入を仄めかしながら、鶴岡八幡宮の神意であるとして同じく後鳥羽天皇の孫にあたる邦仁王を推し、同年の3月18日に邦仁王(後嵯峨天皇)が即位することとなった。王はこの後、岩倉宮と呼ばれるようになる。また、『忠成王は弘安2年に没したが、一子尊忠は後に梶井門跡の権僧正となり、「入江宮」「広御所宮」「岩倉宮」を名乗ったということから岩倉宮を最初の世襲宮家と見る意見があるが、宮内庁の資料『皇室制度資料』では岩倉宮を宮家の一つとしてみることに対して慎重な見解を取っている。』という。