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立花ぎん千代

たちばなぎんちよ


[立花ぎん千代]
1569-1602
大友宗麟の臣・戸次鑑連(後に立花家を継いで立花道雪)の娘。道雪に嗣子がなかったためにわずか七歳で女城主となる。その後、道雪は同じく大友家の重鎮・高橋紹運の息・統虎を豪姫の婿にもらい受け、立花宗茂と名乗らせた。羽柴秀吉の島津討伐の際には秀吉の軍勢の一員として感状を与えられるほどの活躍をみせ、戦後、13万石を与えられ柳川城に入城。しかし、関ヶ原の戦いでは西軍に荷担したために所領を没収されて宗茂は浪人。彼女は肥後で隠棲生活を余儀なくされた。その後、大阪の陣を経て旧領の柳川城に復帰するが、その直前の1602年(慶長7)、34歳という若さでぎん千代は肥後で死去した。