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華陽院

けよういん


[華陽院]
1492-1560
出生については諸説があるが、名前は「於富の方」あるいは「於満の方」などといわれている。初め三河国刈谷城城主・水野忠政の妻として徳川家康の生母である伝通院など三男一女をもうけたが、後に隣国の岡崎城城主・松平清康と再婚、清康の死後も三河の政治情勢に応じて三度の政略結婚を繰り返した。その後、今川義元を頼って駿府に入り、出家して源応尼と名乗っが、1560年(永禄3)に死去した。