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佐久間象山

さくましょうざん


[佐久間象山]
1811~1864
江戸末期の洋学者、思想家。信濃国(長野県)松代藩の武士の家に生まれました。若いころから勉学に励みましたが、なかでも数学には特に興味をもち、このことが後の彼の学者としての生涯に大いに影響を及ぼしました。江戸に出て佐藤一斎に儒学、特に朱子学を学んだ後、塾を開いて朱子学を教えました。の真田幸貫が幕府の海防掛の任に就くと、「海防八策」を建言して大砲や軍艦の必要性を説きました。その後も江川太郎左衛門に西洋砲術を学び、黒川良安には蘭学を学ぶなどする一方で、自らも兵学塾を開いて勝海舟や坂本竜馬、吉田松陰など維新に活躍した多くの志士を育てました。1853年のペリ~来航の際には、老中阿部正弘あてに「急務十事」を建言しました。また、大砲の鋳造やガラスの製造を手がけたり、牛痘種の導入を企図したり、更に、日本初の電信実験を成功させるなど多方面にわたって活躍しました。こうしていつしか洋学の第一人者として評価されるようになりましたが、弟子の吉田松蔭の密航事件に関与して罪を問われ、ちっ居を命じられました。その後、許されて再び幕府に用いられ、開国論や公武合体論を主張しましたが、そのために、京都で尊王攘夷派に暗殺されました。