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水野忠邦

みずのただくに


[水野忠邦]
1794~1851
唐津(現・佐賀県唐津市)藩主・水野忠光の次男として生まれた江戸時代後期の大名で、第12代将軍徳川家慶のもとで老中として天保の改革を行った。忠邦は、農村を復興のために、多数の農民が農村を逃げ出して江戸に流入している状況を改善しようとして人返し令を発し、また弛緩した大御所時代の風潮を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じた。更に、物価騰貴は株仲間に原因があるとして株仲間の解散を命じたが、その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策を採ったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。また、1843年9月には、外国船が来襲した際の危機管理を目的に、大名や旗本に十里四方に相当する領地を幕府に返上させようという上知令を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどし、同年閏9月13日に老中を罷免され失脚した。忠邦の改革はあまりに過激な改革であったために庶民のうらみを買ったとされ、失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。翌年6月には外国問題の紛糾によって老中に再任されたが、昔日の面影は無く、老中・安部正弘らの抵抗により1845年に再度辞職に追い込まれた。更に、在職中の不正が発覚し、加増のうち1万石、本地のうち1万石、合計2万石を没収されて隠居謹慎となり、1851年、57歳で死去した。