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松平定信

まつだいらさだのぶ


[松平定信]
1759~1829
江戸時代の大名・政治家で、第八代将軍・徳川吉宗の孫。政治力に優れていたことから、江戸時代後期の名君の一人として高く評価されている。御三卿の一つである田安徳川家に生まれ、幼少期から聡明で知られており、一時期は第10代将軍・徳川家治の後を継ぐことになるかも知れない人物とまで目されていた。しかし、田沼政治を「賄賂政治」として批判して田沼意次にその存在を疎まれていたこともあって、1774年に、久松松平家・庶流の一つ陸奥国白河藩主松平定邦の養子とされてしまった。定信が白河藩主となったのは天明の大飢饉の最中である1783年のことであるが、飢饉で苦しむ領民を救うために自らが率先して倹約に努め、更に、領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩で飢饉による餓死者は出なかったとまで言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の飢饉で、これは異例のことであった。天明の飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、田沼意次が失脚した後の1787年、年少であった第十一代将軍・徳川家斉のもとで老中首座、将軍補佐となり、幕閣から旧田沼系を一掃して寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。朱子学に基いた重農主義による飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への文武奨励などで一応の成果をあげた。引退後は再び白河藩の藩政に専念し、山間における領地のために実収入が少なくて苦しかった藩財政を、馬産を奨励するなどして潤わせ、また、民政にも尽力して白河藩では名君として慕われたという。1829年、72歳で死去した。