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北条時宗

ほうじょうときむね


[北条時宗]
1251~1284
北条氏の総領の家系に生まれた鎌倉時代中期の武将。我が国に対する元(蒙古)の圧力が高まるなか、鎌倉幕府第八代の執権に就任し、元への対応や政権の権力強化を行った。1267年、元のフビライから進貢を求める書簡が送られてくると、公家たちは恐れおののいて、時宗に命じて返書を蒙古に送らせようとした。しかし、このときわずか17歳の執権北条時宗は、「蒙古からの手紙は無礼であって、答える必要はない」と、朝廷の命を拒絶して使者を追い返した。1271年、再び使節が来日して武力侵攻を警告すると、少弐氏を初めとする西国大名に対元の戦争準備を整えさせて断固蒙古に立ち向かう姿勢を示し、新たに異国警固番役などを設置して国防を強化した。暴風雨という天運もあって、時宗は二度に及ぶ元軍の襲来という国難を回避したが、戦後に御家人などに対する恩賞問題などが発生したり、三度目の元軍襲来に備えて改めて国防を強化せねばならないなど難題がいくつも積み重なっていた。1284年には病床にあったとされ、4月20日に出家した当日に34歳で病死した。その死は、二度目の元寇襲来(弘安の役)からわずか3年後のことであり、まるで元寇に立ち向かうために生まれ、そして死んでいったかのような短い生涯であった。