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藤原清衡

ふじわらのきよひら


[藤原清衡]
1056~1128
平安時代末期の武将で奥州藤原氏の祖。陸奥国亘理(現・宮城県)の豪族の子として生まれ、父・経清が前九年の役で源頼義に反旗をひるがえして最後を遂げると、母が敵将であった清原武則の長男・清原武貞に再嫁することで死を免れると共に、母の連れ子として清原家の一族となった。清原一族は係累がかなり複雑であったことから内紛が絶えず、繰り返された争いに生き残った清衡は、その後実父の姓である藤原に復し、奥州藤原氏の祖となった。本拠地を江刺郡豊田館(現・奥州市)に構えて勢力の拡大を図る一方、京都の藤原氏に馬や砂金を贈って交誼を深め、また、柴田郡の大高山神社・刈田郡刈田嶺神社の年貢金を代納するなどして、奥羽の統治者としての地位を築いていった。1094年には胆沢郡平泉に居を移して政治文化の中心都市の建設に着手し、中央の仏教文化を導入して中尊寺を再建した。こうして、平泉に壮大な都市を建設し、中央政権と一線を画した平泉四代100年の時代を実現した。金銀螺鈿を散りばめた「金色堂」落慶の翌年、当時としては長命の73歳で没した。