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豊臣秀吉

とよとみひでよし


[豊臣秀吉]
1537~1598
(1536.02.02生まれという説もある。)戦国(室町時代)時代から安土桃山時代の武将で、主君・織田信長の後を継いで全国統治を成し遂げた。庶民の出でありながら関白まで登りつめたことから、数々の逸話と共に現在もなお根強い人気がある。尾張国中村(愛知県名古屋市)の貧しい百姓の子として生まれた。足軽として織田信長に仕え、才気と行動力で重用されて木下藤吉郎と名乗るが、浅井氏の旧領を与えられて長浜城(滋賀)主となると、羽柴秀吉と改名した。中国地方平定の最中に信長の死(本能寺の変)の知らせを受けると、ただちに毛利氏と和睦して引き返し、明智光秀を山崎の戦いで倒した。翌年には柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破り、ついで小牧・長久手の戦いで徳川家康と和して、信長が仕残した統一事業の後継者となった。大阪城を築いて本拠とし、朝廷から関白、更に太政大臣に任じられ、豊臣の姓を賜った。その後、四国・九州を平定し、小田原(神奈川県)の北条氏を滅ぼしてついに天下統一を果たした。信長の政策を受け継いで、関所を廃止し、楽市・楽座の制を広げ、重要都市や鉱山を直轄して貨幣を鋳造し、太閤検地と刀狩りを全国的に行い、農業政策と兵農分離を進めた。また、外国との貿易には熱心で、倭寇を取り締まると共に、貿易に従事する日本の商船に朱印状を与えて保護した。当初から反対の声があった朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は、戦況が思わしくなく、秀吉の病死と共に中止された。関白を養子の秀次(ひでつぐ)に譲った後は太閤(前関白の意味)と呼ばれたが、1598年に病没。死因にも説が多いが、なかには、生前の好色ぶりから脳梅毒によって死亡したという説さえある。